第三話 決死行と魔獣

 姫様が、この密会に連れてきていた手勢は、わずかに3000だ。

 騎士レニス・ダオ率いる即応近衛連隊。

 姫様の演説を聴き、心底惚れぬいた彼女だけの親衛隊。

 彼らに護衛されながら、僕らは魔族の領地に戻るべく、馬を飛ばす。


 その渦中、僕はアテンダントへと尋ねていた。

 君は、何者なのかと。


『……知りたいことがあるのなら、残機を使えばいいのさ、マスター。初めにぼくは言ったはずだよ、この世の真理を教えてあげようかって?』


 アテンダントはどこまでもひょうひょうと言ってのける。

 こいつとロジニア皇帝の付き人リャンミルは、確かになんらかの接点がある。

 だけれど、それを知る手段は、万物全知の力を使うことだけだ。

 僕の残機は31。

 果たして、ここで使ってしまっていいものか──


「アトラ、この辺りの地図を用意するの」

「は、はいですだ!」


 姫様が、アトラナートさんに地図を要求する。

 受け取った姫様は、それを揺れる馬上で見分し始めた。

 即座に、地理に詳しいデーエルスイワさんに意見を求める。


「どう思うの、デーエルスイワ。どの道順が、一番ナイドへの近道になるのです?」

「順当にいけば、ここを」


 彼女は地図のうち、チフテレス大河の支流の一本を示す。


「この川を渡河するのが、一番の近道でしょう。ここには万が一に備え、水軍を待機させています。3日でつきますから、合流できれば必ず。ただ……」


 そう、確実にその前に追いつかれてしまうだろう。


「ふむ、なの」


 姫様が腕を束ね、ないはずの髭をなで、それから地図の1点を指し示す。


「ここから2日、早馬を走らせた場所に入り組んだ渓谷があるの。ピュテルイの谷。ここの岩盤を、私の最大魔術で破壊すれば、谷をふさいで追っ手を足止めできるはずなの」

「それで、どの程度時間を稼げます?」

「レヴィ、それは自分で考えてほしいの。でも、うまくいけば、迂回させることができるから……1日分の足止めは可能なの。それで支流にはたどり着けるはずなの」


 彼女の言葉に、僕は思わず全体を見渡した。

 この3000名で?

 この大所帯で、そんなに早く動けるだろうか?

 僕の懸案を知ってか知らずか、レニス青年が首肯を返した。


「だったら決まりですね。姫様をお守りいたします!」

「うむ、なの。全軍、ピュテルイの谷へ進路をとるの!」


 彼女の号令一下、僕らはひた走った。

 緊張と焦燥で、時間はひどく長く、同時に早く感じられた。

 気が付けば日は暮れかかっており、全員を代表して、騎士レニスが姫様へと提案する。


「僭越ながら、意見具申いたします! 夜間の行軍は姫様に危険です。一度、野営しましょう」

「却下、なの。少しでも早く、ナイドに戻る必要があるの」

「それは、なぜでありましょうか!」

「……ロジニア皇帝との謁見で、私はひどく重要な事実を知ったの。もしこの秘密を、ナイドに持ち帰ることができれば、この戦争を終わらせることができるの」

「なんと!?」


 ──それは、どういう意味だろうか。

 すでに僕という凡愚は、この狂気の姫君のシンクタンクとして、機能できていない。

 彼女は僕が教えた前世の歴史を──数学、力学、化学、文学、歴史、教養、すべて、すべてをだ──遍く吸収し、もはや僕の想像の及ばない怪物となり果てている。

 彼女が僕に秘密で行っている無数の魔術の研究も、この3000の親衛隊を鍛え上げた手腕も、いや──今日まで戦い抜いた異常さも、どれも僕の知らないものだ。

 もし。

 もし本当になにかを、彼女が掴んだとするのなら。

 この致命的な戦争も、終わるかもしれない。

 そうなれば、僕は。


 ──僕は、また安寧と、死なないまま生きる残ることができるのだろうか……?


『マスター、それには答えてあげられるよ。ホムンクルスは残機を使い果たさない限り、瓶の外に出ない限り、死なない。間違いなくマスターは、永遠に生きていられる』


 ならば。

 ならば、僕は姫様を助けなくてはならない。

 彼女を、利用して、使いつぶして、生き残るために──


「て──敵襲……! 敵襲……!」


 僕の暗愚な思考は、絶叫によって遮られる。

 その場にいた全員に緊張が走った。

 最後尾で哨戒を続けていた部隊からの通達。

 それは、400万の死神の群れが、僕らに追いついたことを告げていた。


「敵は大軍なの。こんな短時間で追いつかれるわけがないの」

「少数が騎馬にて突出。こちらに迫っていると一報が入っております!」

「レニス! すぐに出発するの! この場所ではひとたまりもないの。なんとかピュテルイの谷間で逃げ延びるの!」

「了解いたしました! 全軍出立! 急げ、急げ! これは休みなき急行軍だ! 訓練ではない! 繰り返す、これは訓練などではない!」


 慌ただしく荷物を引き上げ、痕跡を消し、次々に走り出す親衛連隊。

 僕の心臓は、苦しみで早鐘を打っていた。


 これまでナイドは、破竹の勢いで勝利してきた。

 そして姫様はめったなことでは前線に立たず(当たり前だ)、立つにしても、それは勝算があるときだけだった。


 だけれど今は違う。

 僕らは追い立てられる兎だ。

 怖い猟犬たちが、目前まで迫っている。

 逃げなければ。

 生きるために、逃げなければ……!


 だが──


「接敵! 対魔術防御!」


 翌朝──逃避行は無為に終わる。

 僕らは、ピュテルイの谷を目前にして、人類軍に斥候に追いつかれてしまったのだ。


 降り注ぐ魔術による火球。

 氷の柱。

 稲妻。


 豪雨のようなそれを、僕らは決死に掻き分け、命を拾い、走り続ける。

 一歩でも足を止めれば、即、死ぬ。

 ここは、まさに最前線。まさに地獄の一丁目だった。


「姫様! 塹壕を掘りましょう! そして、迎撃すれば──!」


 騎士レニスの提案を、姫様は一蹴する。


「ダメなの! 足を止めた瞬間包囲されて殲滅されるの! この場所は、あまりに不利なの!」


 そう、そこは開けた平原。

 大軍が都合よく展開できる、これ以上ないフィールド。

 遠くに見える森が、唯一の障害物だ。

 あれは魔獣が住まうというシヤトラの森の一部──万が一にも逃げ込むべき場所ではない。


「とにかく、走って……!」


 姫様の言葉は、必死そのものだった。

 彼女はこんな場所で落命できない。

 祖国があり、民がいる。

 僕はまだ死にたくない。

 死んだらそこで、終わりだから。

 姫さま達の言う、誰かの礎になるなんて言う思想は、人間だった僕には理解できない。


 だから、逃げて、逃げて、逃げて。

 姫様の胸の上で揺れ続けて。

 そして──追いつかれる。


「尻に食いつかれた!」


 親衛隊が絶叫する。

 白兵戦──いや、近距離戦闘の距離にまで、詰められている……!


「もう、ダメか……!」


 僕が、そんなあきらめを口にした、そのときだった。


「バルゴオオオオオオオオ!!!」


 大地を鳴動させる、すさまじい怒号が、その場に響き渡った。

 そして、僕らは見た。

 その巨体を。

 岩山ほどもある白い毛の塊。

 長く鋭い爪、鋭利な齧歯、筋肉の塊そのものの脚。

 血の色の目をした魔獣。


 巨大な首切り兎ウォーバルバニーが、僕らと人類軍の間に、突如現れたのだった。

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