第六話 残酷なる剣聖葬送曲

 剣聖アルザス・カシュナーは戸惑っていた。

 人類の同輩たち、彼方から自分のことを監視していた防衛部隊は、すぐさまこの街に押し寄せるだろう。

 それはいい。

 かつて自分の大切な者を奪った魔族だ。滅ぼすことに躊躇はない。

 いましがただって、この街に逃げ込んだ敗残兵どもを切り殺したばかりではないか。

 そして、この街にとらわれていた人類の捕虜を、悪辣な魔族どもから解放した。

 ひどい目に遭っていたのだろう、みな悄然しょうぜんとし、口もきかない。

 カシュナーは怒りにとらわれていた。

 だが、ひとりの奴隷の姿を認めて、その脳裏は真っ白になった。


「……はち、ばん?」


 頼りない、そしておぼつかない口調で、自分を8番と呼ぶ女性。

 亜麻色の髪はぼさぼさで、白いものが混じっている。

 鳶色の瞳は薄く濁り、かつての力強さを感じられない。

 だが、その姿は。

 声は、間違いなくカシュナーが知る人物とまったく同じだった。


「シャーロット、さま……」


 呆然と、その名を呼ぶ。

 するとその女性は、ぼんやりとしていた目を大きく見開いて、彼へと抱き着いてきた。

 慌てて抱き留める。

 魔族のモノだろう、強くえぐいにおいに一瞬だけ彼は顔をしかめ──すぐになにも言えなくなった。


「やっと、やっと助けに来てくれたのか、私の8番。私だけの……カシュナー」

「シャーロット様。本当に、シャーロット様なのですか。この20年、自分はずっと、あなた様が死んだとばかり」

「……信じてくれないのも無理はない。私は、死んだことになっていたからな。いや──ただしくはそう仕組まれたんだ」

「なん、ですって……?」


 カシュナーの表情が驚きに染まる。

 次の瞬間、怒りに。

 彼は武の極致である剣聖だ。

 だが同時に、聡明な頭脳も有していた。


「まさか、ロジニア皇帝が……!」

「……おまえが、いつか自分を裏切り帝位を簒奪さんだつするのではないか……そんな不安に駆られたロジニア皇帝は、その意識を魔族だけに向けさせようとした。そして、私を闇討ちし、魔族に──」

「なんという……なんという外道め!」

「酷い目に遭った……人と魔族の手で、私は辱められて……」

「シャーロットさま、お逃げ下さい。ここには、かの暴虐な皇帝の息がかかったものがすぐに来ます。そうなれば、あなたは」

「私に……また、独りになれと、おまえは言うのか……?」

「────」


 それは、アルザス・カシュナーという男にとって、これ以上ない殺し文句だった。

 彼はその女性を抱き上げると、疾風のように地を駆け、その場から姿を消す。

 そのすべての力を、逃げるために使って。


「ここなら、大丈夫です」


 彼らは廃墟となっていた村に身を潜めた。

 カシュナーが確認する限り、つい最近棄てられた村のようだった。

 井戸に、毒が投げ込まれている形跡などもない。


「ありがたい。カシュナー、おまえは私の恩人だ」

「そんな、自分は……ただ恩を返したくて」

「……ありがとう。そうだ、腹は減っていないか? 料理を作ろう!」


 彼女がそういったとき、カシュナーはわずかに顔を歪めた。


「シャーロット様は、料理ができないはずでは?」


 彼女は皮肉気な笑みを浮かべる。


「魔族の奴隷だった間にな、覚えなくてもいいことを、ずいぶん覚えた」

「──申し訳ありませんッ」


 巨人のような体躯を縮こまらせ、恐縮しきった様子で頭をさげるカシュナーに、女性は笑いかける。


「だが、おかげでおまえに食事を出すことができる」

「その、シャーロット様」

「なんだ?」

「……僭越なのですが、さきに、湯あみをされてはどうでしょうか?」

「……あ」


 男の言葉に、女性は苦々しく笑った。


「不快だったな、すまない」

「いえ……ただ、自分は」

「わかっている。おまえの言うとおり、湯を先に沸かそう。それから食事だ」


§§


 ちゃぷり、ちゃぷりと、お湯が肌の上ではねる音がする。

 壁一枚隔てた場所で、女性が肌を洗っているのだ。

 カシュナーはじっと、それを聞いている。

 忠実な騎士のように、それを守っている。

 呼気が荒くなっていることに、彼は気が付かない。

 ほのかに甘い香りが、浴室からは零れ始めていた。


「さあ、たんと食べてくれ。拙いものだがな」

「滅相もない! 残さず戴きます」


 女性が作った料理を、カシュナーは貪るように食べた。

 ちょっとしたスープやソテーに過ぎなかったが、彼にとっては何物にも代えがたい報酬だった。

 味も、香りも、よくわからないまま、男は食べ続けた。

 がつがつと食事を掻きこむカシュナーを見て、女性は料理にも手を付けず、ただ微笑んでいた。

 慈母のような微笑み。

 優しいまなざし。

 であるにもかかわらず、湯上がりの彼女のうなじからは色香が漂う。

 上気した肌。

 そのぷっくりとした唇を、ちろりと舌が舐めた。


「シャーロットさまッ!」

「か、カシュナー……むぐ?」


 剣聖は……いや、かつて8番と呼ばれた男の理性は、そこで焼ききれた。

 勢いのまま女性を押し倒し、その唇を、思うさま貪る。

 野獣のように、けだもののように。

 女性もはじめは戸惑ったように抵抗を示していたが、やがて自ら求めるように唇を、そして身を重ねた。

 女性の身体は、年齢のわりに驚くほどの張りと、柔らかさに富んでいた。

 男はどこまでも、ずぶずぶと女性に耽溺していく。

 何度果てたかもわからない。

 それでも男は腰を振り続ける。

 そのいとしいひとの唇を奪い続ける。

 やがて、それまでされるがままに喘いでいた女性がポツリと、


「そろそろか」


 と、つぶやいた。

 男にはその言葉の意味がわからなかったが、数秒後、理解することになった。

 ゴプリと、こみあげてくる熱いなにか。

 男は、とっさに顔をそらし、それを床に吐き出した。

 血。

 赤黒い血液。

 刹那、男の全身を百万の槍で突き刺されたような痛みが襲う。

 彼の全身から力が抜け、床へと崩れ落ちる。

 霞む視界で女性を探し、枯れた咽喉で、その名を呼ぶ。


「しゃー、ろっと……さま……」

「いえ、私はそのようなものではありません」

「────」


 どろりと。

 悪夢のように、彼女の姿が溶けた。

 溶けだした肉体が、まったく別の像を結ぶ。

 アルザス・ギ・シャーロットとは似ても似つかない姿の女──否、魔族。

 その魔族は、カシュナーにこう名乗った。


「ナイド王国国庫番にして、魔王陛下付き侍従長デーエルスイワ。それが私の名前です」

「魔、族ッ! シャーロット様をどこに──」

「なにを呆れ果てたことを? 彼女は20年以上前に、死んでしまったではありませんか?」

「────きさまああああああああああ!」


 アルザス・カシュナーは咆哮した。

 そして、渾身のちからでデーエルスイワさんを縊り殺そうとして。

 なにもできず、床の上でのたうつ。

 芋虫のように這いずることだけが、彼に許されたすべてだった。

 デーエルスイワさんは氷の表情で告げる。


「あなたには毒を盛りました。即効性の猛毒ですが……効くまでこんなにも時間がかかてしまいました。あんなにも激しく運動して戴いたのに、これだから剣聖などというものは困りものです」


 そういって、彼女は手のひらからべちゃりと、なにか白濁したものを地面に落とした。

 男が先程まで吐き出していたものだった。


「不要ですので」

「……って」


 彼はどうやって毒を盛ったのかと聞いた。

 デーエルスイワさんは肩をすくめ、自らの舌を指でつまんで見せる。

 唾液が、滴り落ちた。


「ウンディーネは、体内に様々なものを収納できます。取り出すも受け入れるも自由自在。しかも、濡らすことなく、です。なので、唾液のなかに毒物を仕込んで、それを飲み下していただきました。まあ、ご自身で求められたことですから、悔いはありませんよね?」

「────」


 もはや、カシュナーには叫ぶ力もない。

 その瞳は真っ赤にただれ、血涙を流し。

 口からはごぼごぼと血と泡がこぼれる。

 あと数秒もしないうちに、彼の意識は消失し、その命も消滅するだろう。


「ああ、そうそう」


 デーエルスイワさんは。

 そこで初めて、笑って見せた。


「もしシャーロット殿が生きていても、今頃どこぞの魔族にじゃれつく犬となっていたでしょう。20年も男を待ち続ける都合のいい女など、現実にはおりませんよ、剣聖殿?」


「~~~~ッッッ」


 果てのない憎悪に眼球が見開かれ──絶命する。

 人類の最強戦力。

 アルザス・カシュナーは、姦計をもって命を奪われたのだ。


「言いつけはすべて守りました。終わりましたよ、姫様。聞いておられますか──」


§§


「言いつけはすべて守りました。終わりましたよ、姫様。聞いておられますか──」


 万物全知の力を使い、僕がそこまで実況したところで、姫様は両手を打った。


「万全なの。策略のとおりに行ったの、レヴィ」


 リヒハジャに急遽設けられた会議室で、僕と姫様、それに貴族たちは、状況の推移を常に観察していた。

 安堵の息を漏らしているのはエイダ卿と。

 戦死したことになっているはずだった、タージマハ爵だった。

 エイダ卿が、不思議そうに姫様に尋ねる。


「しかし、あの危険という危険すべて察知してしまうような武の化身、剣聖に、よくぞ毒を盛ることができましたな?」


 彼の問いかけに、姫様は答えた。


「じつに簡単なことなの」


 なにも変わらない表情で。

 なんでもない事のように。


「女を抱いているときと、糞をしているとき、気を抜かない男などいないの。なによりあのとき、剣聖は剣聖ではなく、ただのアルザス・カシュナーだったのです」


 その場にいた全員が、背筋を震わせた。

 恐怖が、狂気が、昂揚が、その場から溢れ出す。


「さあ、いよいよ全面攻勢に移るの。全軍に伝令! これより我々魔族は、人の住み処を焼き払い、人の大地を蹂躙し、一息にロジニアの帝都まで駆け上るの! これよりすべてが決戦と心得るの! 総員──出撃!」


「ズ──ズィーム!」


 誰かが胸を打ち鳴らし、左手を掲げた。


「ズィーム・ハイウル!」


 それは大合唱となって、会議室から、外へと感染していく。

 人類断絶戦線。

 そして、ナイド全土に。


赤雪姫に栄光あれズィーム・ハイウル・フィロ・ソフィア!」


 まるでいまさらな狂気に気が付き、それでも見てみないふりをするかのように。


 夏を目前として、人類と魔族は、総力戦の様相を呈していた──

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