第四話 災い転じて好機となす
毒麦。
正式名称は、
実った麦の穂に、黒い爪のようなものが生じることがある。
それが麦角病の証しだ。
これを食べたものは手足が黒ずみ、その末端がちぎれ、高熱、幻覚にうなされ、やがて死に至る。
中世ヨーロッパで実際に蔓延した、カビを原因とする恐ろしい病である。
聖アンソニーの火とも呼ばれるが、それは全身が火に焼かれるような痛みを伴うところからきている。
……まさか。
まさかこんな異世界にまで来て、この病の名を聞くとは思ってみなかった。
その危険性を、僕は知っている。熟知している。
だから、気が付かないわけがないのだ。
初めから魔族の土地に麦角病があれば、必ず気が付くはずなのだ。
そして、僕のそんな考えは正解だった。
毒麦は、どうやら最近になって、魔族領に入り込んだものらしかった。
「入り込んだと言いますかー、持ち込まれたというほうが、正しいかも?」
「……? それは、どういう」
「はじめは奇妙な麦が実ったという報告だったかも。それが、日が進むごとに領地一帯で苦しむものが現れたのですかも。そうして今月になって、とうとう死者が出てしまったのかも。哀れかもー」
第二王女は、そう言って笑う。
まるで、その魔族の生き死にが楽しい遊戯であるかのように。
「わたくしの領地──いえ、ユンク侯爵とその他の貴族さまの領地にも、それなりに識者はおりますかもよ? だから、これが人間の世界でいう毒麦だということは、文献を当たればわかりましたの」
「ダウト」
「だうと……どこの国の言葉かも? ひょっとして、罵倒ですかも?」
……そうか、ダウトは英語だったな。
だが、これは完全に詭弁だ。嘘ではなくとも、本当のことを言ってはいない。
麦角病が流行っているのは本当だろう。
蔓延し、死者が出たのも本当。
この地は、水が豊かで低地帯。
これまで東の火山と、ナイド王国後方に位置する霊峰から吹き降ろす強い風が、麦角菌の拡散を封じ込めていたにすぎない。
だけれど、いずれこのことは、東ナイドも、姫様のナイドも、知ることになる。
「そうか」
僕はひとり頷いた。
アテンがいまさらかと笑う。
ノーザンクロス伯が僕らに忠告した、人類領より来る災厄とはこれなのだ。
おそらく、人類もまた麦角病に苦しみ、こちらに攻め入る余力がいまのところないのだ。
そして、数的有利に立つ人類がそうであるのなら、西ナイドも必然的に、同じ状況であると考えられる。
つまり、そんな見え透いたことを、わざわざ僕に話す理由。
それは──
「なんでもー、わたくしがお父様に毒を盛ったとかいう、悪質なうわさが広がっているかもー?」
優雅に、横柄に、口元を大きな扇でかくしながら、彼女はそうのたまう。
そう、それだ。
いま、彼女の地位を危うくするであろう事実は、たった一つ。
彼女が前王妃とアルヴァ王、そして姫様に毒を盛ったという、それだけ。
もし、それを否定する材料があるのなら、彼女は率先して利用するだろう。
たとえ、それでどれほど領地が蝕まれ、どれほど死者が出ようとも。
「ホムンクルス、あなたを識者と、当代でも比類なき賢者と考えて、わたくし、一つ提案をしたいのですかも?」
「僕を話のわかる魔族だと思って?」
「話のわかる
ありていに言えば、これから僕らが交わすやり取りは、打算にまみれた、ひどく醜悪なものだということだった。
「では、ホムンクルス」
「飲みましょう、その条件で」
「話が早くて助かるかもー」
彼女の言葉を先回りして、僕は封じる。
これでも生前、僕は歴史作家だったのだ。
この西ナイド王国が、今後食糧不足に陥るのは目に見えているし。
そして第二王女ギーアニアは、それを理解している。
そんな国家が、敵国に対して求めてくるものがなんであるかは、歴史について知るものなら、たやすく結論付けられるだろう。
だから僕は続きを聞きたくなかったし。
だからこそ彼女は、こんなにも楽しそうに、悪徳にねじれた笑みを浮かべていられるのだ。
なぜだって?
僕らには──拒否権など、ないのだから。
「ですが、やはり明言化しておきませんと落ち着きませんかも? だってそうしませんと……あなたが裏切るやもしれませんもの!」
そうして、彼女はこう言ったのだった。
ひどく一方的な約束を、ナイド王国に取り付けたのだった。
曰く、
「わたくしの国と、一時休戦いたしましょう。条件は、食料の提供と」
悪女は、艶やかに微笑んだ。
「わたくしが、王位を正式に継ぐことを容認すること──で、かまいませんかもね?」
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