第二章 紅蘭、宴にて大いに客人をもてなす【後編】

 菊花殿には、上座に紅蘭のぜん、そして客人同士はおたがい向かい合うよう二列に、それぞれの膳がしつらえられていた。

 すべて紅蘭の指示したはず通り、玉蓮たちが準備した膳には熱々の食事がせられている。

 見慣れぬ料理に、あちこちから、驚いたような声が上がる。

 膳の上で湯気を立てているのは、白く丸いふわりとした何か。

 その横には、肉や魚、野菜をたものがさらに並んでいる。

 仁叔は、物知りの子翠なら知っているだろうかというように、うかがうような視線を向けた。それに気付いたかのように子翠は、首を左右にる。

「いや、俺もこんな料理は見たことがないねぇ」

「どこかとつくにの料理なのだろうか、それとも花国の伝統料理なのか……?」

「さあ。ま、何から何まで楽しませてくれるじゃないですか」

 子翠は、心底この宴を楽しんでいるように、笑った。

「料理については後ほど説明いたしますが、まずは我が国までいらしてくださった旅のつかれをいやしていただきたく花国特産の米のじようぞうしゆを用意いたしました。皆様、さかずきをお手にどうぞ」

 ほうおうの絵がえがかれたびようを背にした自分の席に着いた紅蘭は、まず自らの盃をかかげる。

「おい、酒が澄んでいる」

「水みたいなとうめいな色だ」

 客人たちのざわめきに微笑ほほえみながら、紅蘭は声を張る。

「皆様とのこの良き出会いを祝して、かんぱい!」

「乾杯!」

 ざわめいていた客人たちも、急いでそれぞれの盃を持つと、紅蘭に続き唱和した。

「いつも飲んでいる酒より、よほど上品な味がする。水のようにするすると飲めてしまいそうだ。青国は花国のとなり、中原の国だから、おたくはこのような酒、飲み慣れているのかな?」

 子翠は盃をしながら、仁叔に問う。

「いや、自分も初めて飲む。青国でも米で酒を造るが、もっと白くにごった酒です」

「ふうむ、おもしろい。何から何まで驚かせてくれる──ということか」

 子翠の乾した盃には、後ろからによかんがすかさず酒をぎ足した。

「さて、皆様。我が国の醸造酒はいかがでしたでしょうか。これは、米のこうじを九回加えてはつこうさせたものです。麴の残りかすはすべてしぼって、取り除いてしまうので、このように澄んだ酒ができあがります。皆様のお口に合いましたなら、大変嬉しく思います。さて、次はこの膳の上の料理について、説明させていただきます」

 そう言って、紅蘭はコムギの載った皿を手に取って見せる。

「この白い丸いものは、コムギという穀物をいた粉を水でき、練ってからしたものです。コムギとは西域で食べられている穀物で、私もつい最近出会ったものです。西域でどのように食べているのかくわしい調理法はわかりません。粉に挽き焼いて食べているということまではわかったのですが……とりあえず、私たちが食べ慣れている方法で蒸してみるのがよいかと思い、調理してみたものです。味見してみたところ、何とでも合いそうなくせのない味でした。もしよろしければ隣の皿にある肉や魚、野菜などをはさんでおし上がり下さい」

 客人たちは、紅蘭に言われた通り、蒸し立てのコムギに肉や魚の具を挟み、口へと運ぶ。

美味おいしい!」

「なんだこれは、黍や粟の蒸したものよりもふわふわとしていて肉や魚によく合うな」

 あちこちから賞賛の声が聞こえ、紅蘭はようやくほっと息をいた。

 背後から、伍会が紅蘭にそっと近寄り、ほかの客に聞こえない小声で紅蘭にささやきかける。

「これは、私が指示していた料理とちがうようですが、朱宰さいしよう殿とのはかりごとですか? 先ほどの、婿むこぎみ選びはしないという発言といい、ひめ様はこの宴をどうするおつもりで?」

「ああ、料理は先日、港に行ったとき手に入れたコムギを使って、井南のたみたちと試行錯さくして作ったものよ。伯龍は関係ないわ、ほら」

 紅蘭が指し示した方向に立つ伯龍は、おどろきとあきれが混ざったような顔でこの宴をながめている。

「しかし、せっかく我が国の伝統料理を、一流の料理人に何日も前から準備させておりましたのに、そんな農民が作った料理など……」

 伍会はさげすむような視線を、コムギの皿に向ける。

「王宮で食べる料理など、ここに集まったようなお客様方は食べきているでしょう。現にほら、みな、美味しそうに笑顔をかべて食べているわよ」

 皆が食べ慣れている黍や粟を蒸したものも、同じ膳に並べてあるが、コムギで作った新しい料理の方がどんどんなくなっていくため、玉蓮たちはおおいそがしでちゆうぼうと菊花殿を往復している。

「伍会、あなたも食べてみたらいいわ。絶対においしいから」

「私は仕事中にそのような……」

 こばむ伍会の口に、紅蘭はコムギの蒸し物の肉挟みを押し込む。

「むっ……」

 口に入れたものを吐き出すような真似まねはできず、仕方なく飲み込んだ伍会の顔がいつしゆんゆるんだように見えた。

「ま、まあ、まずくはございませんが、このような勝手の数々……」

「この宴は賓客をもてなすためのもの。勝手かどうかより、皆様が、喜んでくださるのが一番でしょう」

 そう言って、紅蘭は今度はぎよかいものを挟んだコムギの蒸し物で、伍会の口をふさいだ。



(酒と食べ物で、そろそろお客様たちの気持ちも緩んだかしら。まあ、これでもしおこって帰ると言われても仕方がないわね)

 紅蘭は客人たちの様子をわたしながら、次の一手に進もうかと考えた。

 これを言ったら、後で伯龍にこっぴどくしかられるかもしれない。

 そうかくを決めながら、紅蘭は皆に向けて口を開いた。

「先ほどの婿君の条件についての話なのですが……」

 それまでがおしゆえんを楽しんでいた客人たちのはしがピタリと止まる。

「申し訳ございません、すでに私の理想をじつせんしてくれる婿君に最適な者がそばにいるため、その者をえる方が皆様方の中にいらっしゃらない場合は、婿君として選ぶことはできません」

 せいじやくの中、紅蘭は、客人たちのピリピリとした無言の圧力に身を切られそうな痛みを感じていた。さらに背中には、伯龍の責めるような視線を感じる。

(このに及んで、さらに何を言おうとしているのだ)

とでも思っていることだろう。

 静まり返った空気を、まずくつがえしたのは子翠だった。

「『その者を超える者がいない場合』ということは、逆を言えば、われわれの中にその方を超える人物がいれば、婿として選んでくださるということなのですよね?」

 紅蘭は、うなずくことも否定することもできず、その場で固まった。

「だって、そういうことでしょう? 俺は、ここまでの姫様のもてなしに感服して、このままあきらめて国に帰ることはしたくない、しないと決めたんです。どうせ帰ったところで、ただの側室腹の王位とはえんの第五公子にもどるだけですしね。それなら、ここでもう少し姫様と夢を見ていたい。そう思ったんですが……、『その者』とは具体的にだれなんでしょう? 教えてくだされば、まだその方を目指すことができると思うんです。教えていただけないでしょうかね」

 子翠の言葉を受け、仁叔も声を上げた。

「自分も──国のために、ここでおめおめと帰るつもりはありません。勝負する相手がわかるなら、正々堂々と戦うために教えていただきたい」

(どの国とも、今後平等に交流したいという本心、さらに婿君の条件を満たす人物が既にいることを伝え、見合い自体を諦めてもらおうと画策したもてなしだったのに……。これは、ちょっとやり過ぎたかしら。まさか、私個人にこのように興味を持ってくれるかたがたが現れるとは)

 首筋に冷たいあせが流れるのを感じる。

(もしこの中に、伯龍を超える人物がいたとしても、私の気持ちは伯龍から動かない。──と言っても、もし伯龍以上にこの国と民を共に守ってくれるゆうしゆうな人物がここにいるのなら、私は公主として……花国に残されたたった一人の王族として、その者をはんりよに選ばなければならないのだわ。そうしないと、先ほどまで宣言してきたことが、すべてただのうそになってしまう。だから、もし、そのような人物が現れたら伯龍のことをおもう心にふういんをして……)

 紅蘭は、したくちびるをぐっとみしめる。

 そして、伯龍には後で怒られることを覚悟の上で、正直に白状することにした。

「それは──伯龍、我が国の朱宰相です。彼の政治手しゆわんを超える方がいらっしゃるなら……」

「我々の中から婿を選ぼうと、考えてくださるということですね?」

 紅蘭の言葉を引きぐように問い返したのは、丁国の玄宝だった。

 紅蘭は、首を縦にるしかなかった。



「朱宰相に戦いをいどむに当たって、敵の情報がないのは無策すぎますね。彼がどのような政治を行っていらっしゃるのか、教えていただけるとうれしいのですが」

 玄宝の問いに、またも紅蘭は小さなかんを覚える。

(先ほどはまつりごとに考えがおよばないと言った人が、伯龍の行っている政を知りたい? じゆんしている。何だか正体のつかめない人だわ。単に、伝説のおんけいあずかりたいから、その場その場で思いつきを言っているだけなのかしら?)

「確かにそうですね、俺たちの勉強不足と言われちゃそれまでだが、もし教えてもらえるなら朱宰相の国に対するお考えってものをできれば聞いておきたいですね」

 紅蘭がさくふけっている間に、伯龍が客人たちからのしつもんめに合っている。

 表情を変えず、静かににらむ伯龍の視線に気付いた紅蘭は、逆に客たちへ問いのほこさきを向けた。

「あ、こうしたらどうでしょう? 私の方も、みなさまの国でどのような政が行われているのか、非常に興味があるのです。私と同じ考えで国のかじりをできる方かどうか、せんえつながら判断させていただくためにも、、皆様の政に対する姿勢やお考えをうかがいたいのです。それは、先ほど申し上げたように、国と国の交流を深めることにもなりますし」

「そうですね、見合いのうたげなのですから、『おたがいをよく知る』というのは、とても大切なことですね。姫様が皆様方のことをより深く知りたいとおおせです。私の話などより、皆様のお国の話、皆様の国の政について、どうぞお聞かせくださいませ」

 伯龍は、この機をのがさず、すかさず見合いへと宴のしゆを戻そうとする。

 紅蘭も、にぎった主導権を手放すまいと、客人たちに積極的に問いかけた。

「まあまあ、ここは何より交流、我が国と皆様方との交流をはかるのも大事ですし、同じ華の大地に立つ国同士、お互いをよく知るということは、無用な争いをけることにもなるでしょう。さあ、皆様のお国について教えていただけますか?」

 最初に、紅蘭の問いに答えたのは、江国の子翠だった。

「我が国は華の大地のとうたんに位置し、東大海に面した港町をようする国で、他国との交易を盛んに行っています。華の大陸の東には、まったく文化の違う島国があって、そこからやって来る者たちの話を聞くのもおもしろいですよ。そうそう、異国の民も、街ではよく目にします。民は商業を生業なりわいとしている者たちが、あつとう的に多いですね」

 子翠の発言を受けて、先ほど塩を紅蘭から受け取った沙国の公子が、話し始めた。

「江国では、東の国との交易を行っていらっしゃるのですね。我が国は華の地でも、江国とは一番遠い西のはしにあります。江国のように海に面していないため、おもに西域との交易を行っているので、我が国でも外国人は多く見かけます。とてもあわかみの色で、顔立ちも我々とはずいぶん異なった異国のたみがよく街を歩いていますよ」

 そう言う沙国の公子自身も、西域の血が入っているのか、淡いくりの髪に淡いむらさきがかった不思議なひとみの色をしていた。

「沙国が交易を行っているのは、我が国の領土内にばくが多くて、農業を行うことが難しいから──なのですが。これだけ様々な穀物を自国内でさいばいして、食すことのできる中原はうらやましいですね。まさか、コムギまで今日、食べることができるとは思っていませんでした」

「まあ、沙国では西域のようにコムギをもう食べていらっしゃるのね。私は、我が国のきびあわの調理法と同じようにしてしてしまったのですけれど、お味はどうでしたか? 沙国ではどうやって食べているのかしら?」

 文化のちがう国の民の言葉に興味を覚えた紅蘭は、話を書き留めておこうと急いでふところから竹簡を出す。伯龍に小声で指示されたによかんが、急いで紅蘭の元に小さなすずりと筆を持ってけ寄った。

「我々は水でいたものを焼いて食べています。さらに西の方では、水で溶いて練ったコムギをしばらくかせてからかまで焼くと聞いたことがありますよ。そうすると、なぜかふっくら焼き上がるのだとか。西の方では焼くという発想しかなかったので、蒸すというのはおどろきでしたが、蒸してもふわっとした食感になるのですね。しんせんで、とても美味おいしくいただきました」

「なるほど、寝かす……そういった調理法があるのですね。今度は少し寝かせてから蒸してみようかしら。それとも、この蒸したものを後で焼いてもいいのかしら……あ、ごめんなさい、私ったらうっかりと……独り言でした。どうぞ、話を続けてくださいね、興味深いですわ」

 竹簡に沙国の公子から得た情報を書き留めながら、紅蘭は話をうながす。

 聞いたことのない遠い異国の話に、生でれることができ、紅蘭は初めての玩具おもちやを手にした子どものように心おどらせていた。

「うちの国も交易を行っているんですが、それは、うちも農業を行っていないからなんです」

 それまでだまっていたとうこくの公子が発言する。

 冬国は、華の地の最北端に位置するため、農耕を行うには厳しい土地であると紅蘭も聞いたことがあった。

「では、冬国も生活手段のほとんどを交易でまかなっているのですか?」

「いや、うちの国は農業の代わりに、ぼくちく──遊牧を行っているんです」

「遊牧……ですか?」

 中原では聞き慣れない、書物の中の知識でしか知らない言葉に、紅蘭は首をかしげる。

「馬や羊を牧草地に放牧するんですが、一か所に長くとどまっていると、羊は草を食いくしちゃいますよね。そうすると、そこの土地は次から何も生えなくなってしまうから、食い尽くさないうちにほかの牧草地に移動させるんです」

「なるほど、確かに動物は翌年のことなんて考えないで食べたいだけ食べてしまいますものね。それを人間が上手うまく調整するというわけですね」

「はい、そうなんです。羊は乳も肉も毛皮もすべて神様からのめぐみとして、大事にすべていただきます。飼育している羊も食べ尽くさないよう、他のけものって、肉や毛皮をいただくこともあります。でも、野菜やくだものは、獣からもらうことはできませんから、足りないものは毛皮とこうかんして、他の国からもらう──そういう交易をしているんです」

「それは、王族もそうなのですか?」

「ええ、俺らもこういった立派なお城は持ってません。年中、馬で移動する生活なんで」

 そう言ってうなずく冬国の公子は、常に馬に乗っているせいか、特に下半身ががっしりとたくましく、きたえ上げられているように見える。他の国の公子のようにで下半身をかくさず、身体からだにぴったりはかまを着けて、ふくらはぎ辺りから身体の線がはっきりと見えるせいで、より逞しさが感じられるのかもしれない。

 話し方はとてものんびりとしているが、この公子も自ら馬を駆って獣を弓でねらうときには、きっと予想もできないくらいしゆんびんな動きをするのだろう、と北の大地を馬でしつする冬国の人々を紅蘭は心の中に思いえがいた。

「そういえば──丁国は、冬国のおとなりでやはり北の厳しい大地にありますね。丁国でも遊牧を行うのですか? やはり馬に乗るのは得意なのでしょうか? 私たち中原の民は、もともと馬には乗らなかったのですよ。北の民たちのえいきようで、馬に乗るようになったと聞いています」

 紅蘭は、丁国の貴族である玄宝へと問うように視線を向ける。

「先ほども申しましたように、私は貴族の末席に連なる小物でしかなく、公子様方のように政治や文化について、ゆうべんに語ることができません。おびとして、ひめ様にけんささげ、はらうことで、姫様のおんをお守りしたいと思います。どなたか、私に剣を貸していただけないでしょうか?」

 玄宝はみをかべて立ち上がる。

 伯龍は、紅蘭に「剣を貸すなど危険だ」というように、首を左右にって見せる。さらに、伯龍は季雲に目だけで「気をつけろ」と指示をした。

 玄宝の席は、小国の貴族ということで、紅蘭からは一番遠いところにしつらえられていた。

 背後で警護についていた季雲は、伯龍の視線を受け、こしいた剣にそっと手をかけた。

「ただの剣舞にございます。まさか、このように周囲を禁軍の兵に固められたしゆうじんかんの中、だれかを傷つけることなどできるはずがありません。そのようにごけいかいされずとも、どうか私を信じてくださいませ」

 玄宝は、敵意のないことを表すように両手を広げてから、その場にひざまずいた。

「誰か、剣を貸してあげてちょうだい」

 紅蘭は、禁軍の兵たちに声をける。

「姫様っ」

 思わず声を上げる伯龍に、紅蘭は思わせぶりな笑顔を浮かべて見せる。

玄宝殿どのの言う通りだわ。これだけ周囲をぐるりと警護の兵が囲んでいるのですもの。これは両国交友のための剣舞だという、彼の言うことを信じましょう」

 先ほどから、この玄宝は何を考えているのか真意がわからない。剣舞をしてもらえば、武術にけた季雲や尚桜に、彼の態度やひとがらをどう思ったか、後でかくにんすることもできるかもしれない、と考えてのことだった。

 季雲が差し出した剣を受け取った玄宝は、向かい合ったぜんの列の中ほどへと進み出て、そのままい始めた。

「おい、あの大将軍の重い剣を楽々と振り回しているぞ……!」

 周囲にいた禁軍の兵士たちが、息をみ、玄宝に視線を注ぐ。

 玄宝は、天へのいのりを捧げるかのように、剣の切っ先を高く上にかかげ、そのまま静止した。

 かと思うと、上段に構えた剣を音もなくまっすぐ下まで振り下ろす。下ろした剣を、今度は左下から右上へ、まるで人をはらうように振り上げた。

 ばやくその場で回転し、後ろを向くと、上げた剣をななめに下ろす。

(そこに人がいたなら、いまの一振りで命を取られていたよう──魔を祓うと言っていたけれど、人をったような……)

 紅蘭をはじめ、その場にいる者全員が呼吸するのを忘れたかのように、玄宝の動きを注視していた。

 その剣は、他人の剣だったと思えぬほど、玄宝の身体の一部としてんでいた。

 かがんだかと思うと、低く構えた剣を左から右へと素早く振る。

 また立ち上がり、右足を一歩踏み出しながら、ゆかと水平に剣をす。

「相当なれだ」

 誰かがささやく。武術の心得のある者なら、誰もがそう思っただろう。

「丁国にあんな武人がいたか?」

 そんな囁き声も聞こえてくる。

 そして、一歩、また一歩と玄宝は舞いながら、紅蘭に近付いた。

 伯龍は、静かに紅蘭とのきよめつつ、自らの剣のつかに手を置いた。

 玄宝が、その場で素早くせんてんする。身につけたほうと裳のすそが、大きくひるがえる。

 伯龍がまたさらに紅蘭との距離を縮め、尚桜は紅蘭の裾を持つ手を左手だけに変えると懐の短剣に指先をばした。季雲は、いつの間にか部下の剣をき身で持ち、何かあったら玄宝に斬りかかれる距離まで詰めている。

 また一歩。

 玄宝は、左足を踏み込むと同時に、剣の先をまっすぐ紅蘭へと向けた。

(──本気で命を狙われている?)

 紅蘭はそう思いながらも、ただいつしゆんまゆをひそめただけ。あと退ずさることもせず、目の前ににぶく光る剣の先をぎようする。ぜんとした態度のまま、玄宝にたいした。

 紅蘭のけんに向けられていた剣先が、地面を向く。

「思った以上におもしろい公主様ですね。うたげを最後まで楽しませてもらいますよ。私も、他のみなさまと同じくあなたをあきらめたくはないですから。いいえ、ますます手に入れたくなりました」

 そう言って、玄宝はくちびるはしだけ上げて笑った。

(またさっきと同じ作り笑顔。この人の心が見えない……彼の真意は何? 手に入れたいのは私の心? それとも命?)

 紅蘭の心の中の疑問に答えるように、伍会が静かに近付きそっと耳打ちした。

「文進様は、いまでこそ丁国の貴族という身分に甘んじていらっしゃいますが、もともとは董国にほろぼされた儀国の公子であられるとか。儀国が滅ぼされた後、丁国に亡命されたと聞いております」

「儀……儀国?」

 紅蘭は、思わず目を見開いて伍会をまじまじと見返した。



「伍会、入ってもいいだろうか」

 宴の一日目が終わった夜、伯龍は一人、伍会の私室を訪ねた。

「もちろん、かまいませんよ。さいしよう殿、どうぞお入りくださいませ」

「夜分にすまない」

 しやくしつつ伯龍はその身を伍会の部屋へとすべり込ませる。

 伍会はまだ何か雑務をしていたようで、づくえの前に座り竹簡をながめていたが、伯龍の声に顔を上げた。

「どうなさいましたか? 明日の宴について、何かご相談でも? 今日は、姫様に完全にしてやられましたからなぁ。明日はつつがなく、われわれの準備通りに進めばよろしいのですが……」

「伍会、宴に参加している客人についての資料は、そなたがすべて保管していたな」

 伯龍は、伍会の背後、たくさんの竹簡が積まれた、しよだなへと目をやった。

「え、ええ、そうでございますが、何か不備でも?」

 伍会は眺めていた竹簡を置き、立ち上がる。

「いや、あらためて文進殿のじようについてうかがいたい。実は、宴の最後に、姫様に『あの方は、儀国の公子』と囁いていたのをれ聞いてしまったのだ」

「ああ、はいはい、そのことでございましたか」

 伍会は、要領を得たりとばかりに、右手のおうぎで左手をたたく。

「それでしたら、事前に宰相殿にご確認いただいたつりがきにも、書いてはおりませんでした。何しろ、董国にたいこうするための見合いの宴。董国に滅ぼされた国の公子というのも、えんが悪かろうと思いまして」

「縁起が悪い、か」

「しかし、文進様がもともと儀国の公子でいらっしゃったのは確かなこと。確か、側室腹の公子でいらっしゃったとか。そのため、董国にめられた際にも運良く難をのがれ、その後、丁国に亡命されて、いまはひっそりと身分を隠し暮らしていらっしゃるとのことです。ですから、小国の貴族と言えど、ほかの公子様方に負けずおとらず、お血筋は確かでいらっしゃいますよ。朱宰相殿にご心配いただくことはございません」

 胸を張るようにはっきりと言い切る伍会に、伯龍は疑うようなまなしを向ける。

「宴であのようなふざけた真似まねをしても、か?」

「ふざけた……? ああ、けんのことでいらっしゃいますか。あれは確かに、調子に乗りすぎていらっしゃるかと私も思いましたが、あれぐらい武にひいでた方であれば、何かあったときに姫様をお守りくださるのではないかと──」

「わかった、夜分失礼してすまなかった。明日もある、もう休んでくれ」

「え、もうよろしいのでございますか?」

 伍会がおどろいたような表情をかべる。

「ああ、文進殿の本当の身分をあかす釣書はないのであろう。なら、用は済んだ」

「はい、かしこまりました。それでは、失礼を──」

 伍会が、ばかていねいきようしゆして頭を下げている間に、伯龍はすでに部屋を後にしていた。



「待たせてすまなかった」

 伯龍の自室には、まるでその部屋の主のように、酒をじやくで飲んでいる季雲がいた。

「おいおい、どうしちまったんですか、眉間にしわを寄せこわい顔をして。ああ、怖い顔はいつものことか」

 季雲は、そう軽口を叩くと、またさかずきをあおる。

「ふたつほどたのみたいことがある」

「宰相殿のご命令とあれば、ふたつでもみっつでも──いくつでもお受けいたしますよ」

「明日は、今日以上にひめ様の警護を強化してもらいたい。それと、禁軍のうち、まだ国境の警備にける人員はいるか?」

「ええ、どちらも必ず何とかしてみせましょう。お任せください」

 季雲は盃を置き、右のこぶしで自分の胸を叩いて見せる。

「そして、国境で少しでも異変があればすぐ知らせて欲しい」

「かしこまりました。絶対、この国を守ってみせますよ」

 強くうなずく季雲に、伯龍はふところから出したぎよくにぎらせる。

「先日から進めてもらっている例の件だが、費用が足りなければこれを自由に使ってくれてかまわない。また足りなくなったらいつでも言ってくれ」

 季雲は、受け取った玉を握りしめると、深くためいきいた。

「伯龍、こっからは大将軍と宰相という立場ではなく、おまえの友として言う。おまえがこの国に来るまで何をやっていたのか、どんな身分の者だったのか俺は知らん。でも、この国に来てからのおまえのことは、これでも俺はよく知っているつもりだ。おまえが宰相として、この国のことを思って働いてくれていることも、よくわかってる」

「あらたまって何だ?」

「おまえはいっつも、姫さんのかげでばっかり働いて、浮かばれねぇな。なんな男だよ。姫さんだって、あれは明らかにおまえにこいしてる目だ。おまえにどう見えているかはわからんがな」

 そう言って、伯龍のかたを叩く季雲に、表情をくずさずに伯龍は問う。

っているのか?」

「いや、酔ってなんかいねぇよ。ただ俺は、この十年、おまえと姫さんを見てきて──おまえが姫さんの夫になって、表でも支えてやればいいのに、ってずっと思ってるんだよ」

 口調はちやしているようでいながら、しんけんな表情を浮かべる季雲に、伯龍もに答えた。

「私は──本当に大切な姫様だからこそ、だれの手で守るかどうかというまつなことにはこだわらない。より確実な方法で守りたいと思っているだけなのだ」

「それが難儀だって言ってるんだよ」

 言いながら、季雲は伯龍に盃をすすめた。



 季雲が、大将軍に就任したのは、先の董国との大戦の後のことである。

 董国との激戦の中、当時の将軍たちは最後まで花文王を守ろうと奮戦した。ある者は、自らがたてとなり、総身に矢を受けち死にしてもなお立ったまま王を守り続け、ある者は花文王のはんを手にしかぶとを借り受け、かげしやのように戦場を走り回り敵を最後までかくらんした。これにより、大将軍をはじめ、花国の将軍、副将のすべてが戦場に散った。

 残されたのは、千人将以下のまだ若い武官のみである。季雲も、先のいくさでは千人将でしかなかった。花文王の愛馬が、敵将のだいとうあしられた後、季雲の父であった黄毅将軍は自らの馬を花文王に差し出した。花文王が戦線からだつした後も、その場で敵のもうこうを一人受け止めたという。

 しかし、花文王は華安城まで全軍ではげ切れぬと考えた。そして、全軍が敗走する前に、若い将たちだけを集め王都へと逃がした。将までぜんめつしては、国として軍を立て直すことすらできないという最後の判断だった。

 そのとき、一番危険な殿軍しんがりを務めたのが、季雲であった。

 経験を積んだ老将たちを一度に失った花国軍は、まだ若い季雲を大将軍にえ、いま再編のなかにある。

 敵におそれをなして、背を向け逃げ帰ってきたわけではない。花国存続のために逃げたのである。いま一度、攻められたときにかんらくさせぬような軍を急ぎ作り備えねばならない。大将軍の地位にいるというのは、そういう意味だった。

「花国を……紅蘭を……頼む」

 花文王から最後にたまわった言葉は、季雲の中に深い重圧としてのしかかったが、もちろんそこから逃げるつもりはない。

 しかし、季雲本人はまだ、人にめいを下す責任に慣れずにいる。自分の指示により、命を落とす者もいるかもしれないのだ。それは、まだ若い季雲にとって、とても恐ろしいことだった。父は、このようなきようと責任を負いながらいつも戦っていたのかと、初めて知った。

 とはいえ、季雲が直接預かるのは、兵の命だけだ。花文王のあといだ紅蘭の重圧は自分のそれとは比べものにならないだろうことは、季雲にもわかっている。紅蘭の預かる命は、花国のたみすべてなのだから。

 そして、宰相である伯龍もまた、花国の民の命すべてを預かっている。

 責任感の強い二人のことだから、自分たちのことよりも、国のことを優先してしまうだろうことも、想像がつく。

 しかし、さいしようと大将軍という立場になるずっと前から、しんらいできる友として付き合ってきた伯龍には、幸せになってもらいたいと季雲は思っていた。

 今日の紅蘭は、恋する伯龍との未来をあきらめないために見合いのうたげしゆを変え、それでも各国のひんきやくたちのげんそこねないようなもてなしをしようとふんとうしていた。

 国のことも、民のことも一番に考えながら、それでも伯龍への恋心を諦めずにいる紅蘭は、季雲から見ても好ましく、この姫様だからこそ支えて差し上げたいと思うのだ。

 そして、だからこそ、伯龍にも考え直してもらいたい、と。なおになって、二人で幸せになってもらいたいと、心から願っているのだ。



「話がちがうのではないか?」

 華安城のはずれの暗がり、いまは誰も利用することなくざされた宮の裏。

 ふくめんをした男二人が、密談をしている。

「もっと簡単に、私が有利になるよう、おまえが事を裏で運んでくれるという話ではなかったのか?」

 一人の男は、をはらんだ声で、もう一人の男をしつせきする。

「も、も、申し訳ございません。あのように、段取りと違うことをなさるとは、私は知らされておらず……」

 叱責された男は、泣くようにびる。

「まあよい、明日以降のおまえの働きに期待させてもらおう」

 そう言い捨てると、叱責していた男はやみに消えた。

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