第二章 紅蘭、宴にて大いに客人をもてなす【後編】
菊花殿には、上座に紅蘭の
すべて紅蘭の指示した
見慣れぬ料理に、あちこちから、驚いたような声が上がる。
膳の上で湯気を立てているのは、白く丸いふわりとした何か。
その横には、肉や魚、野菜を
仁叔は、物知りの子翠なら知っているだろうかというように、
「いや、俺もこんな料理は見たことがないねぇ」
「どこか
「さあ。ま、何から何まで楽しませてくれるじゃないですか」
子翠は、心底この宴を楽しんでいるように、笑った。
「料理については後ほど説明いたしますが、まずは我が国までいらしてくださった旅の
「おい、酒が澄んでいる」
「水みたいな
客人たちのざわめきに
「皆様とのこの良き出会いを祝して、
「乾杯!」
ざわめいていた客人たちも、急いでそれぞれの盃を持つと、紅蘭に続き唱和した。
「いつも飲んでいる酒より、よほど上品な味がする。水のようにするすると飲めてしまいそうだ。青国は花国の
子翠は盃を
「いや、自分も初めて飲む。青国でも米で酒を造るが、もっと白く
「ふうむ、おもしろい。何から何まで驚かせてくれる──ということか」
子翠の乾した盃には、後ろから
「さて、皆様。我が国の醸造酒はいかがでしたでしょうか。これは、米の
そう言って、紅蘭はコムギの載った皿を手に取って見せる。
「この白い丸いものは、コムギという穀物を
客人たちは、紅蘭に言われた通り、蒸し立てのコムギに肉や魚の具を挟み、口へと運ぶ。
「
「なんだこれは、黍や粟の蒸したものよりもふわふわとしていて肉や魚によく合うな」
あちこちから賞賛の声が聞こえ、紅蘭はようやくほっと息を
背後から、伍会が紅蘭にそっと近寄り、
「これは、私が指示していた料理と
「ああ、料理は先日、港に行ったとき手に入れたコムギを使って、井南の
紅蘭が指し示した方向に立つ伯龍は、
「しかし、せっかく我が国の伝統料理を、一流の料理人に何日も前から準備させておりましたのに、そんな農民が作った料理など……」
伍会は
「王宮で食べる料理など、ここに集まったようなお客様方は食べ
皆が食べ慣れている黍や粟を蒸したものも、同じ膳に並べてあるが、コムギで作った新しい料理の方がどんどんなくなっていくため、玉蓮たちは
「伍会、あなたも食べてみたらいいわ。絶対においしいから」
「私は仕事中にそのような……」
「むっ……」
口に入れたものを吐き出すような
「ま、まあ、まずくはございませんが、このような勝手の数々……」
「この宴は賓客をもてなすためのもの。勝手かどうかより、皆様が、喜んでくださるのが一番でしょう」
そう言って、紅蘭は今度は
(酒と食べ物で、そろそろお客様たちの気持ちも緩んだかしら。まあ、これでもし
紅蘭は客人たちの様子を
これを言ったら、後で伯龍にこっぴどく
そう
「先ほどの婿君の条件についての話なのですが……」
それまで
「申し訳ございません、
(この
とでも思っていることだろう。
静まり返った空気を、まず
「『その者を超える者がいない場合』ということは、逆を言えば、
紅蘭は、
「だって、そういうことでしょう? 俺は、ここまでの姫様のもてなしに感服して、このまま
子翠の言葉を受け、仁叔も声を上げた。
「自分も──国のために、ここでおめおめと帰るつもりはありません。勝負する相手がわかるなら、正々堂々と戦うために教えていただきたい」
(どの国とも、今後平等に交流したいという本心、さらに婿君の条件を満たす人物が既にいることを伝え、見合い自体を諦めてもらおうと画策したもてなしだったのに……。これは、ちょっとやり過ぎたかしら。まさか、私個人にこのように興味を持ってくれる
首筋に冷たい
(もしこの中に、伯龍を超える人物がいたとしても、私の気持ちは伯龍から動かない。──と言っても、もし伯龍以上にこの国と民を共に守ってくれる
紅蘭は、
そして、伯龍には後で怒られることを覚悟の上で、正直に白状することにした。
「それは──伯龍、我が国の朱宰相です。彼の
「我々の中から婿を選ぼうと、考えてくださるということですね?」
紅蘭の言葉を引き
紅蘭は、首を縦に
「朱宰相に戦いを
玄宝の問いに、またも紅蘭は小さな
(先ほどは
「確かにそうですね、俺たちの勉強不足と言われちゃそれまでだが、もし教えてもらえるなら朱宰相の国に対するお考えってものをできれば聞いておきたいですね」
紅蘭が
表情を変えず、静かに
「あ、こうしたらどうでしょう? 私の方も、
「そうですね、見合いの
伯龍は、この機を
紅蘭も、
「まあまあ、ここは何より交流、我が国と皆様方との交流をはかるのも大事ですし、同じ華の大地に立つ国同士、お互いをよく知るということは、無用な争いを
最初に、紅蘭の問いに答えたのは、江国の子翠だった。
「我が国は華の大地の
子翠の発言を受けて、先ほど塩を紅蘭から受け取った沙国の公子が、話し始めた。
「江国では、東の国との交易を行っていらっしゃるのですね。我が国は華の地でも、江国とは一番遠い西の
そう言う沙国の公子自身も、西域の血が入っているのか、淡い
「沙国が交易を行っているのは、我が国の領土内に
「まあ、沙国では西域のようにコムギをもう食べていらっしゃるのね。私は、我が国の
文化の
「我々は水で
「なるほど、寝かす……そういった調理法があるのですね。今度は少し寝かせてから蒸してみようかしら。それとも、この蒸したものを後で焼いてもいいのかしら……あ、ごめんなさい、私ったらうっかりと……独り言でした。どうぞ、話を続けてくださいね、興味深いですわ」
竹簡に沙国の公子から得た情報を書き留めながら、紅蘭は話を
聞いたことのない遠い異国の話に、生で
「うちの国も交易を行っているんですが、それは、うちも農業を行っていないからなんです」
それまで
冬国は、華の地の最北端に位置するため、農耕を行うには厳しい土地であると紅蘭も聞いたことがあった。
「では、冬国も生活手段のほとんどを交易でまかなっているのですか?」
「いや、うちの国は農業の代わりに、
「遊牧……ですか?」
中原では聞き慣れない、書物の中の知識でしか知らない言葉に、紅蘭は首を
「馬や羊を牧草地に放牧するんですが、一か所に長く
「なるほど、確かに動物は翌年のことなんて考えないで食べたいだけ食べてしまいますものね。それを人間が
「はい、そうなんです。羊は乳も肉も毛皮もすべて神様からの
「それは、王族もそうなのですか?」
「ええ、俺らもこういった立派なお城は持ってません。年中、馬で移動する生活なんで」
そう言って
話し方はとてものんびりとしているが、この公子も自ら馬を駆って獣を弓で
「そういえば──丁国は、冬国のお
紅蘭は、丁国の貴族である玄宝へと問うように視線を向ける。
「先ほども申しましたように、私は貴族の末席に連なる小物でしかなく、公子様方のように政治や文化について、
玄宝は
伯龍は、紅蘭に「剣を貸すなど危険だ」というように、首を左右に
玄宝の席は、小国の貴族ということで、紅蘭からは一番遠いところに
背後で警護についていた季雲は、伯龍の視線を受け、
「ただの剣舞にございます。まさか、このように周囲を禁軍の兵に固められた
玄宝は、敵意のないことを表すように両手を広げてから、その場に
「誰か、剣を貸してあげてちょうだい」
紅蘭は、禁軍の兵たちに声を
「姫様っ」
思わず声を上げる伯龍に、紅蘭は思わせぶりな笑顔を浮かべて見せる。
「
先ほどから、この玄宝は何を考えているのか真意がわからない。剣舞をしてもらえば、武術に
季雲が差し出した剣を受け取った玄宝は、向かい合った
「おい、あの大将軍の重い剣を楽々と振り回しているぞ……!」
周囲にいた禁軍の兵士たちが、息を
玄宝は、天への
かと思うと、上段に構えた剣を音もなくまっすぐ下まで振り下ろす。下ろした剣を、今度は左下から右上へ、まるで人を
(そこに人がいたなら、いまの一振りで命を取られていたよう──魔を祓うと言っていたけれど、人を
紅蘭をはじめ、その場にいる者全員が呼吸するのを忘れたかのように、玄宝の動きを注視していた。
その剣は、他人の剣だったと思えぬほど、玄宝の身体の一部として
また立ち上がり、右足を
「相当な
誰かが
「丁国にあんな武人がいたか?」
そんな囁き声も聞こえてくる。
そして、一歩、また一歩と玄宝は舞いながら、紅蘭に近付いた。
伯龍は、静かに紅蘭との
玄宝が、その場で素早く
伯龍がまたさらに紅蘭との距離を縮め、尚桜は紅蘭の裾を持つ手を左手だけに変えると懐の短剣に指先を
また一歩。
玄宝は、左足を踏み込むと同時に、剣の先をまっすぐ紅蘭へと向けた。
(──本気で命を狙われている?)
紅蘭はそう思いながらも、ただ
紅蘭の
「思った以上に
そう言って、玄宝は
(またさっきと同じ作り笑顔。この人の心が見えない……彼の真意は何? 手に入れたいのは私の心? それとも命?)
紅蘭の心の中の疑問に答えるように、伍会が静かに近付きそっと耳打ちした。
「文進様は、いまでこそ丁国の貴族という身分に甘んじていらっしゃいますが、もともとは董国に
「儀……儀国?」
紅蘭は、思わず目を見開いて伍会をまじまじと見返した。
「伍会、入ってもいいだろうか」
宴の一日目が終わった夜、伯龍は一人、伍会の私室を訪ねた。
「もちろん、かまいませんよ。
「夜分にすまない」
伍会はまだ何か雑務をしていたようで、
「どうなさいましたか? 明日の宴について、何かご相談でも? 今日は、姫様に完全にしてやられましたからなぁ。明日はつつがなく、
「伍会、宴に参加している客人についての資料は、そなたがすべて保管していたな」
伯龍は、伍会の背後、たくさんの竹簡が積まれた、
「え、ええ、そうでございますが、何か不備でも?」
伍会は眺めていた竹簡を置き、立ち上がる。
「いや、あらためて文進殿の
「ああ、はいはい、そのことでございましたか」
伍会は、要領を得たりとばかりに、右手の
「それでしたら、事前に宰相殿にご確認いただいた
「縁起が悪い、か」
「しかし、文進様がもともと儀国の公子でいらっしゃったのは確かなこと。確か、側室腹の公子でいらっしゃったとか。そのため、董国に
胸を張るようにはっきりと言い切る伍会に、伯龍は疑うような
「宴であのようなふざけた
「ふざけた……? ああ、
「わかった、夜分失礼してすまなかった。明日もある、もう休んでくれ」
「え、もうよろしいのでございますか?」
伍会が
「ああ、文進殿の本当の身分を
「はい、かしこまりました。それでは、失礼を──」
伍会が、ばか
「待たせてすまなかった」
伯龍の自室には、まるでその部屋の主のように、酒を
「おいおい、どうしちまったんですか、眉間に
季雲は、そう軽口を叩くと、また
「ふたつほど
「宰相殿のご命令とあれば、ふたつでもみっつでも──いくつでもお受けいたしますよ」
「明日は、今日以上に
「ええ、どちらも必ず何とかしてみせましょう。お任せください」
季雲は盃を置き、右の
「そして、国境で少しでも異変があればすぐ知らせて欲しい」
「かしこまりました。絶対、この国を守ってみせますよ」
強く
「先日から進めてもらっている例の件だが、費用が足りなければこれを自由に使ってくれてかまわない。また足りなくなったらいつでも言ってくれ」
季雲は、受け取った玉を握りしめると、深く
「伯龍、こっからは大将軍と宰相という立場ではなく、おまえの友として言う。おまえがこの国に来るまで何をやっていたのか、どんな身分の者だったのか俺は知らん。でも、この国に来てからのおまえのことは、これでも俺はよく知っているつもりだ。おまえが宰相として、この国のことを思って働いてくれていることも、よくわかってる」
「あらたまって何だ?」
「おまえはいっつも、姫さんの
そう言って、伯龍の
「
「いや、酔ってなんかいねぇよ。ただ俺は、この十年、おまえと姫さんを見てきて──おまえが姫さんの夫になって、表でも支えてやればいいのに、ってずっと思ってるんだよ」
口調は
「私は──本当に大切な姫様だからこそ、
「それが難儀だって言ってるんだよ」
言いながら、季雲は伯龍に盃をすすめた。
季雲が、大将軍に就任したのは、先の董国との大戦の後のことである。
董国との激戦の中、当時の将軍たちは最後まで花文王を守ろうと奮戦した。ある者は、自らが
残されたのは、千人将以下のまだ若い武官のみである。季雲も、先の
しかし、花文王は華安城まで全軍では
そのとき、一番危険な
経験を積んだ老将たちを一度に失った花国軍は、まだ若い季雲を大将軍に
敵に
「花国を……紅蘭を……頼む」
花文王から最後に
しかし、季雲本人はまだ、人に
とはいえ、季雲が直接預かるのは、兵の命だけだ。花文王の
そして、宰相である伯龍もまた、花国の民の命すべてを預かっている。
責任感の強い二人のことだから、自分たちのことよりも、国のことを優先してしまうだろうことも、想像がつく。
しかし、
今日の紅蘭は、恋する伯龍との未来を
国のことも、民のことも一番に考えながら、それでも伯龍への恋心を諦めずにいる紅蘭は、季雲から見ても好ましく、この姫様だからこそ支えて差し上げたいと思うのだ。
そして、だからこそ、伯龍にも考え直してもらいたい、と。
「話が
華安城のはずれの暗がり、いまは誰も利用することなく
「もっと簡単に、私が有利になるよう、おまえが事を裏で運んでくれるという話ではなかったのか?」
一人の男は、
「も、も、申し訳ございません。あのように、段取りと違うことをなさるとは、私は知らされておらず……」
叱責された男は、泣くように
「まあよい、明日以降のおまえの働きに期待させてもらおう」
そう言い捨てると、叱責していた男は
凰姫演義 救国はお見合いから!?/中臣悠月 角川ビーンズ文庫 @beans
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