第一章 伯龍、紅蘭の見合いを画策す【後編】
「これが
「そうですよ、
紅蘭は、幼い
紅蘭が、伯龍に
伯龍が笑ってくれるようになったことが、紅蘭にとってはただただ
「伯龍、君が花国に来てもう二年になるか。君にできることは花を育てたり、稲を育てたりすることだけじゃない。まだまだいくらでもあるんだ。手始めに、うちの
「はい、僕でできることなら」
伯龍の
「
「ん……」
「井南の郷に着きましたよ」
紅蘭は、目をこすりながら
「……夢を見ていたわ」
「さようですか、どのような夢を?」
問う伯龍の声があまりにも間近、すぐ真上から降ってくることに
目の前に、紅蘭のものではない
「きゃっ」
と小さく悲鳴を上げて、伯龍を両手で
紅蘭の背が、ムギの
「危ない」
伯龍の手が
「寄りかかってきたのは姫様です」
「ごめんなさい」
(あ~あ、夢の中の伯龍はあんなに
心の中で夢を
「ようこそ、いらっしゃいませ。公主殿下」
と、
「いいのよ、もういつもそんなことしなくていいって言っているでしょう。私たちは同じ人と人なの。それに、今日は
伍会がここにいたら、「下々の者とそのように気軽にお話しになるなんて」と顔をしかめて説教を始めるだろうな、と紅蘭は思う。
伯龍はそんな態度の紅蘭には慣れきっている。
「それに今日は、いいものを持って来たのよ。来て来て」
郷人たちを手で招いて馬車まで呼ぶと、紅蘭はコムギとオオムギの入った袋の口を開けて見せる。
「新しい西域の穀物が手に入ったの。しかも、冬に
「おおっ」
紅蘭の説明に、郷人たちの間にどよめきが起きる。
「ね、輪作にぴったりでしょう」
郷人たちは、
中の一人、郷の
「
「まあ、
紅蘭の言葉を合図に、郷の女たちが大きな
女たちは、豆の
あたたかい食べ物を前にして、郷人たちの
「姫様、先年の
そう言って、
「あんた、
「汚くなんかないわよ。国のために立派に戦ってくれた足だわ」
と、紅蘭は声を上げて笑う。
「さあ、羹を召し上がってください」
すすめられて紅蘭は、一さじすくって口に運んだ。
煮込まれた豆は、とても
口の中でほろりと
「これ、
「いただいていますよ、これは肉のないとき
豆をゆっくりと嚙みしめてから、伯龍も郷人たちに感想を述べた。
「そういえば、
赤ん
「子どもは可愛いもんですよ。宰相様の子なら、きっと頭のいい子に育つでしょうねぇ」
片手で赤子を
「ああ、公主様、
「よく煮込んだつもりだったけれど、
娘は、
「いえ……、ゴホゴホ……大丈夫よ」
(伯龍が何て答えても
落ち着こうと深呼吸しようとして、よけいに
「このように、まだまだ危なげな
涼しい顔で答える伯龍が
「まったく、こんなに国のことを考えてくださる宰相様のいらっしゃる国に暮らせるなんて、うちらは幸せ
と、郷人たちは伯龍の答えに満足したように頷いている。
そのとき、ふと思い出したように、二人の子を連れた女が口を開いた。
「ああ、そんな宰相様を見込んで相談があるんですよ。
「流民?」
「ええ、おそらく先年の戦で焼け出された郷の
「うん、あたしも
紅蘭の背をさすってくれている娘も話の輪に入って来る。
「そうでしょう。うちみたいなとうの立った女ですら怖いんだから若い子はよけい怖いよね」
彼女たちの言うように、元は同じ農民に
おそらく流民たちは、董国との国境近くの郷に住んでいた者たちだろう。先年の戦で、董国によって焼かれた郷に住んでいたのだ。
そして、彼らが住んでいた郷を元の通りに
「伯龍、それはすぐに何とかしないといけないわ。今日、帰ったら対策を考えるわよ」
公主としての顔を取り戻し、
「さて、
豆の羹を食べ終わった紅蘭は、
羹ですっかり温まり、額からは
「こちらの畑です」
丘金に案内されて歩きながら、紅蘭は
「ありがとう」
言いながら紅蘭は、その手巾で流れる汗を拭う。
「さて、これが今日収穫する予定の黍でございます」
紅蘭の背より高く育った黍は、お
紅蘭は丘金から渡された
刈り取る際に
一刻もしないうちに、汗が
黍の穂が屋根のように日差しを
「ああ、伍会にまた
日差しで赤くなった手の
「俺たちは、日に焼けた公主様の方が好きでさぁ」
「あんたったら、公主様に対して何を
「おい、鎌を
先ほどの民と妻の声が、黍の穂の向こうから聞こえて来る。
「ありがとう。そう言ってもらえて
答えながら紅蘭は、流れる汗を
手巾は帯に
「あ、
隣で同じように黍を刈り取っていた伯龍が、紅蘭に近付く。
「まったく……お顔が
言いながら、伯龍は自らの袖で紅蘭の顔を拭った。
間近に
伯龍に聞こえてしまうのではないかと心配するほど、紅蘭の心臓が
「あ……ありがとう」
「あ……」
それまで何のためらいもないように、なめらかに動いていた伯龍の
「ああ、失礼いたしました。姫様が子どもの頃からまったく変わっていらっしゃらないので、つい」
謝る伯龍に、紅蘭は口を
「ひどい、伯龍ったら。私を子ども
周囲の民たちも、どっと笑った。
「それは宰相様がひどい、姫様はこんなにもお美しくお育ちなのに」
「本当だ、うちの郷に初めていらしたときは、まだ俺の腰ぐらいまでしかなかったけどな。いまじゃ、立派なご婦人におなりだ」
「本当よ、伯龍。こんな美しい姫を前にして、子ども扱いなんて!」
高鳴る
再び民たちがさざめくように笑う。
(
紅蘭は、再び黍の穂を強く摑んで刈り取っていった。
荷運びの終わった季雲と合流した紅蘭と伯龍は、別れを
紫微宮の正面に馬車が寄せられると、伍会が走って
昼の長い季節だというのに、もうすっかり日は
「姫様~、まったくこんな時間まで何をしていらっしゃったのですか!
ねぐらに帰って行く鳥たちの鳴き声のように高い声で、伍会は
「畑仕事を手伝いに行ったのだから、泥だらけになるのは当たり前でしょう。伯龍だって泥だらけだわ」
紅蘭の背後で、伯龍は
「しかし、姫様は女性であらせられますし、九日後には見合いの
伍会は
「早く姫様を白蓮宮にお連れして。至急、肌のお手入れを。
「かしこまりました」
女官たちは、両手を重ね
「ちょっと待って、勝手に決めないで! そんな
紅蘭は、伍会に対して
澡豆には、
それを、食べもせず
王族が絹織物をまとい、金や
紅蘭は幼い頃、母と
母は白粉など塗らずとも色白で、とても美しい人だった。
女官にすべてを任せず、手ずから紅蘭の
「お母様、その
「ええ、いいわよ。紅蘭が、民や国のことをきちんと考えられる大人になっていたらね」
「民や国のことを考えられる大人? それって何?」
「この見事な細工の櫛はね、民たちがたくさん働いてくれたから、ここにあるのよ」
「民たちが
「確かに、これを直接、細工してくれた民もいることでしょう。でも、それだけではなくね。この櫛はとても高価なものなの。それこそ、
母は、花国に初めて、どんな身分の者でも等しく
「紅蘭はまだ子どもだから、何もしなくても綺麗な絹を纏っていられるわ。でもね、あなたが
そう、母は紅蘭に教えてくれた。
逆を言えば、その義務と責任を
紅蘭は、自らが澡豆のような高級な物を使用してよいほど、国のために働いているとは、まだ思えなかった。伍会と女官たちに無理やり連れて行かれそうになりながら、紅蘭は振り返って伯龍に助けを求める。
「今回は、見合いの宴という特別な
「もうっ、伯龍まで!」
(見合いの宴を提案されただけでも腹立たしいのに、
紅蘭は
「ああ……そうだわ、ちょっと待って、これだけは──いますぐ、そう、いますぐ伯龍と話をさせてちょうだい。
そう言うと、紅蘭は女官たちを振り切って、伯龍のもとに
「伯龍、今日聞いた
「それは、流民たちに新しい郷を
「そう。もちろん、ずっとそのままというわけにいかないのは、わかっているわ。もともと彼らが住んでいた郷を、ゆくゆくは元通りにしてあげたい。でも、まだそれを実行に移すには、
「ええ、それぐらいであれば」
伯龍は、
「そして、その者たちに畑仕事でも土木作業でも、何か手が足りないところがあれば手伝ってもらう。その日働いた分の対価は国が
「
伯龍は紅蘭の提案に、頷いてみせた。
「〝姫様にしては〟って、まったく一言多いんだから」
「姫様が湯浴みをしていらっしゃる間に、これからどこの郷でどれぐらいの人手が足りなくなりそうか、まとめておきます。
紅蘭の文句も気にせず、
「ありがとう、伯龍。では、明日。よろしく
「
拱手し
(私はやはり、伯龍と共にこの国の未来を作っていきたい──)
そう、強く思いながら。
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