第一章 伯龍、紅蘭の見合いを画策す【前編】
「見合いの
「はい。いま、
その向かいに座った花国公主、紅蘭は大きく目を見開いた後、手元の木簡を
しかし、確認するまでもなく、伯龍からの上奏文に、
「
と、書いたばかりの
紅蘭は、何度か目をこすり、しばたたかせてみたが、「可」の文字が消えるはずもない。自身を落ち着かせようと、息を大きく吸い込んでから、紅蘭は伯龍に問う。
「で、
伯龍は、紅蘭の問いに表情をまったく変えることなく答えた。
「ですから、先ほど申しましたように姫様の、
「なぜ私が見合いなんて──」
「姫様も今年で
伯龍は、そう答えながら
紅蘭は、伯龍の書いた上奏文を再び読み返した。
「私の……婿君選び? 〝宴〟とはあっても、どこにも見合いだなんて書いていないわ。
「公主様を騙すだなど
伯龍は
しかし、
「で、どういうわけで私が婿君選びの宴など開かなければならないの?」
「花国に残された王族はいまや姫様のみ。姫様がどこかへ
「そんなこと私だってわかっているわ。そうじゃなくて、なぜ私が見合いで
紅蘭は
「それに、そんな婿君選びなんかより先に、まずは私が女王として
言いかけた紅蘭の言葉を
「いきなりではありません。姫様とて、ご自身がいま
そう言われて、紅蘭は身を引きながら口を
少年の頃の
いまここで伯龍を言い負かす自信は紅蘭にはないし、伯龍の意図するところも理解している。
伯龍の言うように、紅蘭の、そしてこの国の置かれた状況を考えると、確かに婿君選びをするのが上策である。紅蘭も、王族である自らに
「わかったわ」
「姫様ならそうおっしゃって下さると思っていました」
そう言って、伯龍は唇の
かつて物言わぬ人形にしか見えなかった少年は、いつしか自在に表情を
父王が「兄と思え」と言ったのだから、ある程度の身分を持つ者であろうことは推測できた。ただ、それを明らかにすることは、伯龍を悲しませることになるのではないか。かつての、世界をすべて
「では、
「
「本日は先ほどの宴の件が最後です」
すべての上奏文に目を通した最後の最後、「これは何の宴なの?」と問うことも忘れてしまう気が
下唇を
紅蘭自身、いま、我が
白蓮宮に戻ると、待ち構えていたといった顔で伍会が紅蘭に告げた。
「見合いの宴は、十日後を予定しております」
「十日後!?」
あまりにも急な展開に、紅蘭は思わず大きな声を上げて、聞き返した。
「ええ、十日後にございます。いえ、私は最初、反対したのですよ。なぜ、わざわざ婿君選びの宴など開くのか、と」
「え? 伍会は反対してくれたの?」
予想外の言葉に、紅蘭は問い返した。
紅蘭が小さな頃から、後宮で身の回りの世話をしていた伍会は、宦官の中でも古参中の古参で、いまは宦官すべてを束ねる最高位、
「はい。いまは戦乱の世。
「たとえ、花国がなくなってしまったとしても、
自らが姫様とこの国の一番の幸せを考えているのです、とでも言わんばかりの顔で、胸を反らしながら伍会は話を
なるほど、そういう考えで反対したわけね、と、紅蘭は
「私はけしてそうは思わないわ。幸いにも、この王都まで
紅蘭の答えを聞き、今度は伍会の方が溜息を吐く。おそらく、
(また、女性らしからぬお
とでも言いたいのであろう。見なかった振りをして、紅蘭は先を続けるよう
「それで?
「はい、宴を開くとなったならば、どこの馬の骨とも知れぬ身分の男性を婿殿として
伍会の最後の一言に、紅蘭は
「伯龍がすべて考えたことなの?」
「ええ、ほぼ朱宰相殿のお考えにございます。私は先ほども申しましたように、董国の後宮に上がる方が姫様にとっては幸せだと思っておりますから。とはいえ、決まってしまったことですから、仕方がありません。この伍会、見合い当日までに、
そう言って伍会が立ち去ると、入れ
董国とは、花国の北東に位置する新興国家である。
周囲の小国を
これにより、花国の王族は紅蘭を残すのみとなったが、董国は花国を滅ぼすことはせず、その代わり、
「公主・紅蘭を太子の後宮に入れるべし」
と、言ってきたのだ。
そして、矢のような
紅蘭は、長いこと無視を決め込んでいたが、外交上、そんな子どもだましが通らないこともわかっていた。
花文王が
それでも国家としての存続を許されたのは、花国の姫を後宮に迎えることで、この件は手打ちにしたいという董国側の
ここで、紅蘭が女王として立てば、それは董国の後宮入りを
確かに伯龍の考えた策なら、董国を
その
「
いま花国が置かれている
「『花国の王族の女性は〝
紅蘭は、尚桜の声に
この華の大陸には、昔からある神話が伝わっている。
太古の昔、
華の地は
山も
華の地に残されし者はただ二人
二百日が過ぎ、二人は
三百日が過ぎしとき伏羲は湿地に
ぐるぐる杖をかき混ぜて、そこに大地を生み出せり
女媧は大地に子を産み増やす
伏羲は
女媧は花国の女王となりき
女王の
その隣に立ちし者こそ華の地を
つまり、花国の王族はこの
「私は女神様の子孫だなんてまったく自覚はないけれど、まだ信じている人たちはいるのでしょう? そんな理由で、
「いっそ、伏羲の子孫が作った儀国の公子様がいらっしゃればいいんでしょうけれど……」
「儀国は董国に滅ぼされてしまったのよね。見合いの宴も、創世神話を信じ、野心を持った者たちが集まるだけじゃないのかと心配だわ。伍会は、
紅蘭は、見合いの宴に対しての最大の不安を口にする。
「そうですね、神話を信じている国は多いかと思います。特に、古い王家の方々なら。しかし、董国は……姫様が先ほどからご心配しているような野心を持っていないかもしれません」
「どうして?」
尚桜は、冷静に
「いまの
「そうね。そのときに国号もいまの董に変えて──我が国や周辺諸国に、
「はい。しかもその侵略の仕方が──滅ぼした国が
「なるほど、確かにそうね。では、天下一統のために伝説を信じて私を
「ええ、本当に」
尚桜は、紅蘭の言葉に頷く。
董国は、中原の
(そんなことの
紅蘭は、思案しながら再び羹を口に運ぶ。
尚桜と二人話し込むうちに、夕の
「ああ、今日もまた何品も
「どうもありがとうございます、姫様。下働きの者たちは、いつもとても喜んでおります」
礼を述べる尚桜に、紅蘭は本音を
「話は
「そうですね。この国と民を愛して善政を行ってくださる
尚桜は、半分からかうような口調で、紅蘭が
「ちょ、待ってよ、尚桜! そうじゃなくて、国を託すのに
「はいはい、姫様。わかっておりますよ。でも、私は宰相様と姫様がご結婚されたら、と本気で
気心の知れた者だからこそ
紅蘭は照れ隠しのように、話を伯龍のことから、見合いの
「そんなことより──私もただ黙って見合いを受け入れるつもりはないの。表向きは物わかりよく
「さすが、姫様。姫様はお小さい頃から、私たちが考えも
尚桜は、幼い頃の事を思い出して
紅蘭は尚桜に
(それに、いろいろ理由を並べ立ててみたところで、理由はしごく単純。私には、伯龍と作るこの国の未来しか考えられないから)
最愛の父を
父の後を追うように病で母后が
「国を
そう言って、泣き
泣いて泣いて、
彼がいなかったら、紅蘭も、花国も、ここまで生きながらえていたかどうかわからない。
「尚桜、後で久しぶりに
「かしこまりました、
「そうね、今日は剣を」
そう言って、紅蘭は
翌日の朝。
紅蘭は、
「姫様、まるで男のような身なりでどこへいらっしゃるのですか! それに、今日は見合いの宴用に準備した
「衣装合わせなんて、どうでもいいわ。衣装の良し
紅蘭は、それだけ言うと、
その後ろを、伍会が追う。しかし、大長秋としての立場ゆえ、
伍会は他の宦官の目を気にしているのかもしれないが、華安城の王宮は残念ながらよその
その
華安城の北側、白蓮宮は王族が
花文王は、皇后以外に
そのため、後宮のほとんどの
花文王が
たとえ自国が平和主義であっても、他国から
そんな不条理な世の中、
王族が紅蘭だけとなったいまも相変わらず、後宮のほとんどの宮舎は閉ざされ、紅蘭は紫微宮で政務を行い白蓮宮で食事と
そして、いまや一人しかいなくなった王族をせめて見合いの宴のときぐらいは美しく
「姫様! 走るだなんて公主として大変はしたのうございます! どうか、お待ちください」
「待てないわ、伍会。今日は、
そう叫ぶ紅蘭の
「ああもう、王族ともあろう者が、そのように身分の低い者のごとき身なりで外出されるなど……伍会は情けのうございます!」
「いつものヒラヒラとした裳では、いくらたくし上げても、畑仕事ができないでしょう!」
「ですから、王族の
伍会の言葉に、紅蘭は
「
「ですが、姫様は女性でいらっしゃるのですから、お城で大人しくなさっていても民も不平不満は言わぬでしょう。花文王も許してくださるはず」
「あのね、伍会。女だから、男だから──なんて関係ないのよ。民のために何もせず、民が必死に
言いながら、紫微宮正面の石段を
「お待たせ、伯龍。出してちょうだい」
「姫様~!」
伍会の叫びは
「まったく相変わらずですね」
「姫らしくないかもしれないけれど私をこう育てたのは伯龍よ」
紅蘭は
伯龍も、紅蘭に満足げな笑みで
「人の上に立つ者は、
言葉少ない伯龍ゆえ、面と向かって「よくできました」と
しかし、十年も共にいるのだ。たとえ呆れた声を出していたとしても、その表情から、伯龍が何を考えているか、紅蘭にはわかる。自分に対して心底呆れ困っているのか、それとも心の中ではそれでいいと背中を押してくれているのか。紅蘭は、自分にはわかると自負していた。
そして、自分がこのような公主として育ったことを、古いしきたりに
伯龍は、紅蘭が
「では、出発しますよ」
「はいはい、待ちくたびれましたよ、
のんびりとあくびをしながら、馬に
本来、公主の
しかし、護衛は大将軍という禁軍の頂点に立つ人物とは言え、季雲ただ一人。
「そのような軽装で、いつも兵士も連れず──少しは体面もお考え下さいませ! 姫様~!」
「見て、伯龍! 船がたくさん!」
「何か新しい穀物が手に入るといいですね。水害にも
馬車の横に掛けられた
華安の港。
華の大陸、中央やや北よりを流れる江華は、今日も
対岸は
この江華に多くの支流がぶつかる位置に、花国はあった。華安城のすぐ南を流れる
江華はどこを
水平線の
遠く下流で
幼い
「黄色の河ばかりではない」と聞いて、ひどく
しかし、紅蘭にとっては、この黄金色に輝く水面こそが、河なのだ。
父に手を引かれ、伯龍と並んで、たくさんの船が出たり入ったりするのを
上流から押し流されて来た
しかし、江華は花国に
暴れ
おそらく、花国の始祖とされる
それでも、江華はまだ人には
そこで紅蘭が力を入れているのが、農業であり、
そう考え、収穫時期や栽培に適した
今日、港を訪れたのも、
「
見知った顔を見つけ、紅蘭は馬車を降りて走り寄る。伯龍と季雲も、後を追った。
「これはこれは、
「
「公主様は相変わらずでいらっしゃいますなぁ。さて、北の方は夏になっても気温が上がらず、江華の上流では夏前に長雨が続いたせいか、いまは
「ありがとう、後で
「ええ、手に入りましたとも。ムギという穀物は、花国では栽培されたことはありませんでしたね」
「……ムギ? ええ、聞いたことのない名前だわ」
「さようでございますか。それでは、現物を持って参りましょう。おおい、ムギを持って来てくれ」
呂才は、積荷を運ぶ労働者に声を掛ける。
「季雲、手伝ってあげて」
紅蘭の
「これは何と
「気にしないでくれ。うちのお
穀物のつまった
「俺がふだん使ってる
「いえいえ、これ以上は──」
「俺は、大将軍って言ったって、まだ名前だけの青二才。いくらでも使ってくれてかまわない。今日は、そのつもりで姫様に付いて来たんだからな」
「
伯龍も、呂才に気さくに応じ、笑みを浮かべた。
季雲が、大将軍に就任したのは、先の董国との大戦の後のことである。董国との戦により、花文王に仕えた忠臣たちの多くは、王と共に命を落とし、花国の家臣団は若い世代へとやむなく
季雲自身が言うように、大将軍の位を
紅蘭が父、花文王を
多くの家臣たちが、紅蘭と同じような立場にある。自らの意志にかかわらず、若くして家名を
しかし、不幸中の幸いとでも言うべきか。
「姫様とてお
と、家臣たちが皆、同じ方向を向いて、未来に向かって歩み出すことができたとも言える。
花国はいま、紅蘭を中心とした次世代の若者たちによる新しい体制で、まさに船出を始めようとしているところなのだ。
新しい花国という船は、
それでも、このように紅蘭や伯龍から命を下されると、かつての身軽だった頃を思い出す。人に指示されて動く方が、やはりまだ気が楽なのだった。
季雲が、麻袋を紅蘭の
「これがコムギです」
黄金色の種が、袋の中にぎっしりと
「これはまた
季雲は袋の中から、
「ああ、将軍、無理です。コムギの外皮は硬いので──」
「じゃあ、どうやって食うんだ?」
「西域では、
「季雲、取って来てください」
伯龍の言葉に、季雲はまたも労働者より
呂才が袋を開くと、そこには白い粉が詰められていた。
「これは……いったいどうやって食べているのかしら? こんなに細かく挽いた粉だと、
「西域では水で
「ふうん……なるほど。
紅蘭は
どうやって料理してみようか──紅蘭は、コムギを眺めながら
「それに、コムギは秋に
「それは──冬の間、輪作に使えるわね!」
紅蘭は、大きな声を上げ、興奮のあまり思わず
目を見開いた伯龍に見下ろされ、思わず気まずくなりそっと手を放す。
「確かに、いまは夏から秋に
「ええと……た、確かにそうよね、伯龍」
上ずりそうな声を
手を
視線がさまよい、あちこち見回しているうち、紅蘭の目は一人の青年の姿を
荷札をひとつひとつ
「あれは──何をしているのかしら、呂才」
振り返った呂才はしたり顔で頷く。
「ああ、彼は、暗算の達人なのです」
「暗算の達人?」
紅蘭は、そのまま呂才の言葉を
「ええ、ただ荷札の文字を写して歩いているわけではないのです。荷の数を計算しながら、書き付けているのですよ」
「あの速さで!」
「はい、あれはなかなか
(世の中には、いろいろな才を持った人物がいるのね。身分や出自にかかわらず、あのように
暗算の達人を見つめながら
「そういえば、今回持って来たムギはもう一種類あるんです」
手持ち
呂才の手で開けられた袋の中には、先ほど見たコムギとそっくりな穀物の種が詰まっている。
「これは──コムギではないの?」
「はい、これはオオムギという種で、コムギより冷害や
「それは、助かるわね。両方植えておいて──もしその年の冬が寒くてコムギがダメになったとしても、こちらは収穫できるかもしれない──ということね」
「その通りです、
「なるほど──ということは、花国の食生活を考えると、まずはこちらの方が受け入れやすいかもしれないわ」
「そうですね」
呂才も頷く。
「とりあえず、両方とも馬車に積めるだけ
「毎度ありがとうございます」
呂才は
「季雲、もう一仕事だ。姫様の命で、これらのムギを馬車に積めるだけ積んでくれ。といっても、我々も乗るから人が二人乗る場所は確保しておいてほしい。──おそらく後でまた荷を取りに来てもらうことになるかと思うが
「この後は、確か黍の収穫に井南の
「そうだ、できるだけ郷に持って行きたい」
支払いを済ませた伯龍は、紅蘭の考えていることを先回りして季雲に
「わかりましたよ、そいじゃ、ちょっと待っててくださいな」
そう言って季雲は、再びムギの
「今日は大きな収穫があったわ」
紅蘭は、
「もったいないお言葉です」
「それに、さっきの──暗算の達人。ああいった異才を持った人物も、世の中にはいるのね。いまは貴族しか
「そうですね、それにはまず法を変える必要があるかと」
「国を安定させるために、ゆくゆくは、新しい法を考えていきたいわ」
紅蘭の言葉に、伯龍は満足そうに頷きながら、顔をほころばせた。
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