第16話 絶対行くから

 チャイムが鳴ると同時に、教室中がざわめきだす。明日から夏休みという開放感が、いつもより教室を明るくしている。

 優衣は立ち上がるとひとりで教室を出た。今日は部活もないし、このまま誰とも話さずにまっすぐ帰るつもりだった。

 廊下でバレー部の女の子たちと話している亜紀を見かけて、一瞬立ち止まったけど、やっぱり声をかけずに下駄箱へ向かう。

 そして靴を履き替えたとき、優衣の視界に翔の姿が見えた。男子も女子もグループになって楽しそうに下校する中、翔はひとりぼっちで歩いていた。まるで今の自分のように……優衣は思わず駆け出して、そんな翔の名前を呼んだ。


「え? 転校?」

 立ち止まった翔は、優衣の前で驚いた顔をしていた。

「うん。夏休みの間に引っ越すの」

「どこに?」

「北海道」

「北海道?」

 翔がさらに驚いた顔をした。

「そう、あたし北海道のおばあちゃんちに行くの。親が離婚したから」

 さらりと言ったつもりだった。このまま、他の誰にも言わずに、夏休みが終わったらいなくなっているつもりだった。いつかの裕也が突然いなくなったように。


「だから……いろいろ、ありがとうね」

「……俺、べつに何もしてないし」

「そうだよね……じゃあ」

 優衣はそう言って翔に背中を向ける。そんな優衣に翔が声をかける。

「裕也には言ったのかよ?」

 優衣がゆっくりと振り返る。

「裕也は知ってるのか? お前が引っ越すこと」

 静かに首を振る優衣に、翔が歩み寄る。

「なんで、言わないんだよ?」

「なんでって……誰にも言わないつもりだったから……」

「でも俺には言ったじゃん? だったら裕也にも言えよ」

 裕也に……言うつもりはなかった。

 ――言ったらきっと、あたしこの町を離れたくなくなる。

「ごめんね……裕也には言わないで」

「おいっ! 七瀬!」

 優衣は翔の声を振り切るように、家まで走って帰った。


「明日おばあちゃんちに行きたい」

 その日の夜、優衣は父にそう言った。いくらなんでも急すぎるという父の忠告を振り切って、優衣は夜のうちに身の回りの荷物をまとめた。あとのものは父に送ってもらえばいい。

 とにかく一刻も早くこの町を出たかった。そうしないと、きっと気持ちが鈍る。おばあちゃんのところになんか、行きたくないって思ってしまう。

 優衣は荷物をまとめると、布団を頭までかぶった。外はもうかすかに明るくなっていた。


 朝になり、駅まで送ると言う父の言葉を振り切って、優衣はひとりで家を出た。空は青く晴れ渡っていて、朝から太陽の光が、じりじりと肌を照り付けていた。

 優衣は駅への道をひとりで歩く。その道は、小学校や中学校へ続く通学路。そして途中のT字路にさしかかったとき、優衣はふと足を止めた。この道を左へ曲がれば、あの『お化け屋敷』がある。裕也と一緒にこの狭い町を見下ろした、雨上がりの日を思い出す。

 その時、優衣の耳に自転車のベルが聞こえた。ゆっくりと振り向くと、そこには自転車に乗った裕也の姿があった。


「なんで黙って行くんだよ?」

 裕也が怒った顔で言う。

「翔に聞いたの?」

「今朝、あいつから電話があった」

「言わないでって言ったのに……」

 優衣はそうつぶやくと、歩き出した。

「七瀬っ! 待てよ」

 そんな優衣の前に、裕也が立ちふさがる。

「なんで北海道なんだよ? なんで俺に黙って行くんだよ?」

「しょうがないじゃん! あんただって黙って行ったくせに。あたしあのとき、泣いたんだからね! いっぱいいっぱい泣いたんだから!」

 そう言ったあと泣きたくなった。だから優衣は裕也を振り切り歩き出す。

「七瀬っ!」

 裕也が優衣の前に自転車を止める。

「……駅まで、送る」

 優衣は黙って、自分を見つめる裕也の顔を見た。


 道端に咲くひまわりが揺れている。小学校の裏の林にセミの鳴き声が響き渡る。

 裕也は自転車をこぎながら、ずっと黙ったままだった。優衣も何も言わずに、そんな裕也の背中を見つめていた。

 住宅街を抜けると交通量が多くなってきた。自転車で走れば、駅なんてすぐについてしまう。優衣は唇をかみ締めて、裕也の白いTシャツをそっとつまむ。指先だけにほんの少し力を込めて……。


「七瀬」

 優衣の耳に、裕也のかすれた声が聞こえてくる。

「俺、絶対行くから」

 見慣れた町並みが、優衣の前をぐんぐん過ぎていく。

「俺、いつかこの町出て、絶対北海道に行く。だから……」

 優衣の目から涙があふれた。泣きたくなんてないのに……絶対泣かないと思っていたのに……いつもの景色が、裕也の背中が、ぼんやりかすんでもう見えない。

「だから泣くなよ」

 裕也が前を見たままそう言った。自転車のペダルをぐんっと踏み込み、スピードがかすかに上がる。

 優衣は泣きながら顔を上げた。自転車が風のように、この狭い町を駆け抜ける。緑の丘の上に洋風の建物が、木の隙間から少しだけ見える。

 裕也が右手で優衣の手をつかんだ。そして自分の背中にくっつけるように、優衣の体をぐっと引き寄せる。優衣はそのまま目を閉じて、裕也の背中に濡れた頬をそっとよせた。

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