第15話 どこにも行けない

「キャー! 裕也っ、スピード出しすぎだよぉ!」

「だいじょうぶだって! ビビりだなぁ、七瀬は」

 雨で濡れた町を裕也の自転車で走る。渋滞の車のライトを、町に灯った灯りを、自転車でぐんぐん追い越していく。いつの間にか、空から落ちていた雨はやんでいた。

「あぶないよっ! こわいってば!」

「じゃあ、しっかりつかまってろ!」

 裕也の右手が優衣の腕をつかみ、ぎゅっと自分の腰に巻きつける。優衣の濡れた体が裕也の濡れた背中にぴたっと張り付く。優衣は思わず目を閉じて、その体のぬくもりを感じ取る。

 そしてその時ふと、小学生の頃の裕也の姿がまぶたに浮かんだ。


『殴られたんだ、お母さんに』

 あの雨の日。裕也は傘もささないで、ひとりで水たまりを蹴飛ばしていた。さっき、雨に涙を洗い流してもらった優衣のように……。

 ――もしかしたら、裕也も泣いていたのかもしれない。

『裕也は、強いよね?』

『強い? 俺が?』

『うん。裕也は泣かないもん。いつも』

 優衣の胸にいつかの会話がよみがえる。

「どこ行きたい?」

 風に流れて裕也の声が聞こえてきた。優衣は少し考えて答える。

「……どこでも」

 ――このまま、裕也と一緒なら……。

 背中を向けた裕也が小さく笑って、自転車のペダルをぐんっと踏み込んだ。


 本当は優衣もわかっていた。自分たちはまだ中学生で、大人がいなければ生きていけなくて……本当はどこにもいけないってこと。鳥みたいに飛んでいくことなんて、できないってこと。


「腹減ったー」

 川沿いの土手に自転車を止めて、裕也がごろんっと草むらに寝転ぶ。優衣は隣にしゃがみこんで、そんな裕也の顔をのぞきこむ。

「ご飯食べてないの?」

「うん。お前は?」

「あたしも」

 優衣はそう言うと、ごそごそと制服のスカートのポケットをあさって、小さなキャンディーをふたつ取り出した。

「さっきもらったんだ。亜紀ちゃんに」

「亜紀に? お前あいつと最近しゃべってないだろ?」

「でも今日一緒に帰ったの。久しぶりに。嬉しかったぁ」

 優衣はキャンディーのひとつを裕也に差し出す。

「あげる」

 裕也は「サンキュー」と笑って、優衣の手からキャンディーを受け取った。

 空には、さっきの夕立が嘘のように、こぼれ落ちそうな星空が広がっている。川から吹いてくるおだやかな風が、心地いい。

 優衣はキャンディーの包みを開けて、口の中に放り込む。そして濡れた草むらの上に座って、裕也に言った。


「けど裕也。どうしてあたしが亜紀ちゃんとしゃべってないとか、女の子たちにハブかれてるとか、知ってるのよ?」

 裕也は寝転んだまま、キャンディーを口に入れる。

「どうでもいいだろ? そんなの」

「よくないよっ。どこであたしのこと見てるのよ? やらしー」

 裕也がおかしそうに笑って、草むらの上に起き上がる。横を見ていた優衣の視線が、ちょうど裕也の視線と重なった。

「うるせーな。誰だって好きなやつのことは気になるだろ?」

 ――好きなやつ?

 裕也は優衣から目をそらすと、立ち上がって大きく伸びをした。

「あーあっ! 飴玉一個じゃ、足りないっつーのっ!」

 ――好きなやつって、好きなやつって……もしかしてあたしのこと?


「行く?」

「え?」

 裕也が優衣のことを見下ろして言う。

「もっと遠くに行く?」

 ――もっと遠くに……裕也と一緒に……。

 優衣は黙って顔を上げる。薄暗い中で裕也の真っ直ぐな目を見たら、心臓がおかしいほどドキドキしてきた。

「……もういい」

 そうつぶやく優衣の髪を、風がそっと揺らす。

「もう……帰らなきゃ……」

 父と知らない女の人がいるあの家に。母と妹のいないあの家に。

 ――そしてあたしは家を出て、おばあちゃんのいる遠い町に行かなきゃいけないの。

「ごめんね……裕也」

 優衣はそう言って立ち上がる。雨で濡れた制服がずしりと重い。

 顔を上げて裕也を見た。裕也は何も言わずに優衣のことを見つめている。

「裕也……あたし……」

 その時、ふたりの姿をまぶしいライトが照らした。

「君たち! そんなところで何をしているんだ?」

 土手の上からパトロール中の警官が、優衣たちのことを見下ろしていた。



 駅前の交番を出て、優衣は父と一緒に歩いた。

『中学生がこんな時間に、こんな川原で何をしていたんだ?』

 優衣と裕也は警官に問い詰められ、交番まで連れて行かれた。そしてすぐ親に連絡されて『迎えにくるように』と伝えられた。

 十分もすると優衣の父が迎えに来て、優衣はすぐに帰されたけれど、裕也の親が来る気配はなかった。


「優衣」

 隣を歩く父がつぶやく。

「悪いのは全部父さんだよな」

 優衣は何も言わずに、ぼんやりその声を聞いていた。低くて頼もしいと思っていた父の声。でも今はその声を聞きたいとは思わなかった。

「もしおばあちゃんちに行くのが嫌なら……」

「嫌じゃないよ」

 優衣がつぶやく。

「あたし嫌じゃないよ?」

 父が自分を見ているのがわかる。

「あたし、おばあちゃんちに行く」

 自分はまだ中学生で、少し遠くに行っただけで、すぐに連れ戻されてしまう子供で……大人がいなければ生きていけない。

 ――鳥になんて、なれるわけない。

 優衣は顔を上げて星空を見る。そして交番を出る自分の姿を見つめていた、裕也の目を思い出し、そっとまぶたを閉じた。

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