第14話 夕立

 授業の終わった教室は、たくさんの音であふれてかえっている。女の子たちの高い笑い声、男の子たちの低いふざけ声。机と椅子のぶつかり合う音、ドアを開ける音、窓を閉める音。そしてみんな思い思いの場所へ向かって、この教室から出て行く。

 優衣も教科書をバッグに入れると、楽器を持って立ち上がった。恵美が千夏たちとくすくす笑っているのがわかる。

 ――へいき。こんなのへいき。あたしには好きな場所があるから。

 優衣は今日もひとりで音楽室へ向かう。窓からは梅雨明け間近の青い空が見えた。


「恵美、部活辞めるって?」

「マジ? でもありえるかも」

「あの子、最初から、やる気なさそうだったもんねぇ?」

 楽器の音に混じって、部員たちのおしゃべりが聞こえる。優衣はそんな声を聞きながら、フルートに唇を当てる。窓の下からは運動部の掛け声が今日も聞こえてきた。


 部活が終わって校舎を出た。空にはまだオレンジ色の光が残っている。

「優衣」

 突然声がかかって振り向いた。そこには久しぶりに見る亜紀の姿があった。

「亜紀ちゃん……」

「ひとり?」

「うん」

「一緒に帰らない?」

 亜紀がそう言って少し照れくさそうに笑う。

「……うん。いいよ」

 優衣の声を聞いた亜紀が、スポーツバッグを肩にかけ直しながら隣に並ぶ。そしてふたりはゆっくりと歩き出す。


 小学校以来だった。亜紀とこんなふうに並んで歩くのは。あの頃の穏やかな気持ちがよみがえってきて、なんだか泣きそうになる。そんな優衣の隣で、亜紀がつぶやく。

「ずっと優衣と、話したかったんだ。でもいつも三組の子が一緒にいたでしょ? だからなんとなく声かけにくくて」

「亜紀ちゃん……」

 亜紀が優衣を見てにこっと微笑む。小学校の教室で、毎日見せてくれていた笑顔だ。あの頃は学校にいても放課後になっても、亜紀がいつもそばにいた。亜紀といるときは無理をすることもなく、自然なままの自分でいられた。

「久しぶりだね。一緒に歩くの」

「そうだね。なんか懐かしいね」

 ふたりはそう言って笑い合った。夕焼け空の下、ふたりの影が長く伸びていた。


「ただいま」

 家には薄暗い灯りがついていた。この時間に父が帰っているのはめずらしい。

「お母さん?」

 優衣は思わずつぶやいていた。玄関に女性の靴が揃えてあったからだ。優衣は騒ぐ気持ちを抑えつつ、急いで靴を脱いで、真っ先にキッチンへ向かう。

 だけど――そこにいたのは母ではない、見知らぬ女の人だった。母よりも、ずいぶん若い人だ。

「お帰り、優衣」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら父が言う。女の人は椅子から立ち上がり、優衣に向かって頭を下げた。

「優衣、話があるんだ」

 父はテーブルにビールを置くと優衣の顔を見た。優衣は突っ立ったまま、手に持っているバッグをぎゅっと握る。

 なんだかすごく嫌な予感がした。だけどその予感は、きっと当たっている。


「この人は望月さん。父さんの会社の取引先の人で、いま真剣にお付き合いしている人なんだ」

 ――いま真剣に? お母さんと別れる前から、その人と付き合っていたんでしょう?

 黙り込む優衣の前で、望月さんという人が微笑む。

「はじめまして、優衣ちゃん。優衣ちゃんのことは、お父さんからよく聞いてます」

「彼女は優しい人だよ。優衣のお姉さんだと思えばいい。父さんはこの人と、ここで一緒に暮らしたいと思ってる」

 優衣はふたりの顔を、じっと見つめる。

 ――なに言ってるの、お父さん。お母さんがいなくなったからって、さっそくその人と暮らすつもり? ひどいよ。

 父は優衣の顔を見て、困ったように笑った。

「急にこんなこと言われても驚くよな。でもこのままじゃ、食事の支度とか大変だろ? 彼女、料理は得意だし、一緒に暮らせば、優衣にも彼女のよさがわかると思って……」

「……わかんないよ」

 絞り出すように声を出す。

「わかんない、そんなの」

「優衣……」

「あたしは、嫌。お父さんがその人と暮らすなら、あたし、この家を出て行く」

 父も母もわかっていない。今まで一言も文句を言わず、しっかり者だと思われてきたけれど、そうじゃない。言いたくても言えなかっただけなのだ。本当は麻衣みたいに父に甘えたかったし、わがままも言いたかった。母に泣きついて、一緒に連れて行ってもらいたかった。

 黙り込んだ優衣のそばで、父が小さく息を吐く。


「だったら優衣。北海道のおばあちゃんちに行くか?」

 その声にゆっくりと顔を上げる。北海道――ここから遠い町だ。

 父の隣で望月さんが、じっと自分のことを見つめているのがわかる。

「実はおばあちゃんが言ってくれてるんだ。優衣が来たかったらいつでもおいでって。おばあちゃんちで暮らしてもいいって」

 優衣は黙っていた。

「どうする? 優衣」

 ――お父さんはずるい。そんなこと、あたしに聞くなんて。

「あたし……おばあちゃんちに行く」

 父は心なしかほっとしたような表情をした。

「……そうか」

 ――あたし、お父さんにも捨てられたんだ。

 優衣はちらりと望月さんの顔を見る。彼女も父と同じような表情をしていた。優衣は何も言わずに背中を向けると、今脱いだばかりの靴を履き、外へ飛び出した。


 外はもう薄暗かった。優衣はただひたすら通学路を走った。

 ライトをつけて走る車が優衣を追い越し、歩道沿いに立つ木が風に揺れる。蒸し暑い空気が、全身を膜みたいに覆っている。

 気がつくと優衣は、いつか裕也と会った公園に立ち止まっていた。息を大きく吐いて両手をひざにつく。

「裕也……」

 なぜか裕也に会いたかった。

「裕也ぁ……」

 いつもみたいに、ひょっこり自分の前に現れてほしかった。

 ――もう……裕也に会えなくなる。

 そう思ったら涙があふれた。後から後からあふれてきた。そしてそんな優衣の上から、雨がぽつりと落ちてくる。

 突然の夕立に、道路を歩く人たちが早足で通り過ぎる。優衣の足元がみるみるうちに湿っていく。

 だけど優衣はその場を動かなかった。自分の髪を顔を服を濡らしてゆく雨が、涙までを洗い流してくれる気がした。


「七瀬?」

 降りしきる雨音に混じって声が聞こえる。振り向かなくても優衣にはわかった。今一番聞きたいと思っていた彼の声。

「なにやってんだよ! こんなところで」

 自転車を地面に倒して裕也が駆け寄ってくる。優衣は雨に濡れた顔で、そんな裕也のことを見る。

「七瀬? どうした?」

 優衣は黙って首を横に振る。

「なんでもない」

 裕也がじっと優衣のことを見つめる。雨は激しくふたりの上から降り続く。

 ――よかった、雨が降ってて……あたしの涙見られなくて。

 するとそんな優衣の手を、裕也がそっと握った。


「送ってやるよ、チャリで」

「え、いいよ」

「遠慮するなって」

 歩き出す裕也の手を優衣がそっと払う。

「いいの。うちになんて帰らなくて」

 裕也が振り返って優衣を見た。

「うちになんて……帰りたくない」

 ヘッドライトをつけた車が、水たまりを跳ね上げながら、公園脇を走り去る。遠くで救急車のサイレンが、寂しげに鳴り響く。

「じゃあ、どこか行こうか……」

 裕也の濡れた手が、もう一度優衣の手を握りしめる。

「ふたりでどこか行っちゃおうか?」

 優衣が顔を上げて裕也を見る。裕也はいつものように少し笑って、握った手を力強くひっぱった。

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