第13話 カッコウ
雨は何日も降り続いていた。優衣は自分の部屋の窓から雨のしずくを見つめる。
――今日も学校休んじゃったな。
頭が痛くて一日休んだ。まだ痛かったからもう一日休んだ。そうしたらなんだかずるずるして……雨が降り出してからずっと学校へ行っていない。
――なんか、もう、面倒くさい……。
優衣がふうっとため息をついたとき、家のチャイムが鳴った。
――お母さん?
ふとそんな気持ちがよぎり、二階の窓から下を見下ろす。すると黒い傘の影から、裕也が顔を出して優衣を見上げた。
「なんで学校来ねぇんだよ?」
裕也がふてくされた顔で、玄関に立っている。優衣はなんとなく、裕也の持つ傘から滴る、雨の雫を見つめていた。
「俺はちゃんと行ってるんだぞ? お前に言われたから」
――ああ、そういえば、そんなこともあったっけ。何年も前の話だけど。
「聞いてるのか?」
「なによ、たまに真面目にしてるからって、えらそうに」
するとそんな優衣の腕を、裕也がぎゅっとつかんだ。優衣は一瞬息をのむ。
「な、なに?」
「俺が連れていってやるから。早く支度しろ」
優衣はぼんやりと裕也につかまれた腕を見る。
「ほら! 早くしろよっ!」
裕也は腕から手を離すと、ぽんっと優衣の肩を押した。
雨は小雨になっていた。学校はもうとっくに始まっている時間だ。
――もしかして裕也、登校してからわざわざうちに来たの?
優衣は水たまりをよけながら、隣を歩く裕也の、雨に濡れたスニーカーを見つめる。
そしてふと、小学生の頃の裕也の姿を思い出す。
傘もささず、雨に濡れながら、裕也は泥で汚れた靴で水たまりを蹴飛ばしていた。
あの頃から、優衣は裕也を気にかけていた。自分とは全く違う生き方をしていた裕也のことを、気づくと目で追いかけていた。
やがてどんよりとした雲の隙間から、かすかな光が漏れてきた。裕也が傘を閉じたから、優衣も同じように傘を閉じる。すると裕也は学校への道ではなく、左に曲がって坂道を上り始めた。
「裕也?」
優衣があわててついていく。その道は――あの『お化け屋敷』へと続く道だった。
裕也が住んでいたあの家に、今は誰も住んでいないようだった。壁を伝う緑のつたは、より一層絡まり合い、雑草の生い茂った庭は、うっそうとした気配を醸し出していた。
「ちょっと、裕也。やめなよっ」
優衣の制止も聞かないで、裕也はつたの絡まった門を乗り越え中から鍵を開ける。
「学校行くんじゃなかったの?」
「うるせえなぁ、お前は」
裕也がそう言って笑いながら、濡れた草をふみしめ玄関へ向かう。優衣も恐る恐る裕也の後を追いかけた。
「やっぱ開かねーや」
「当たり前でしょ?」
裕也が玄関のドアをガチャガチャとひっぱる。そして開かないことがわかると、草の生い茂った庭へ回った。
――あそこにシロがいたんだよね。
裕也の背中を見ながら、シロのことを思い出す。今にも先だけ白いしっぽを振りながら、シロがワンワンと吠えてきそうだ。だけどもう、シロには二度と会えない。
そんなことを思った優衣の前で、裕也が窓ガラスを乱暴に足で蹴りつけた。
「な、なにやってんの!」
優衣の叫び声と同時に、何かがはずれたような音がして、裕也が窓ガラスをガタガタと動かす。
「開いたよ」
「えっ」
「この窓の鍵、壊れてんだ」
そう言って、裕也が家の中へ入り込む。
「ちょっと……ダメだよ! 不法侵入だよ!」
「誰も住んでないんだから、大丈夫だって」
裕也は笑って、優衣に向かって手を伸ばす。
「ほら、早く入れよ」
優衣はそっとその手に触れる。初めて触れた裕也の手は、思ったよりずっと温かい。裕也は優衣に小さく笑いかけると、ぐいっと力強く、その体を引っ張り上げた。
裕也に手を引かれるまま、階段を上る。二階のあの部屋に着くと、裕也がベランダの窓を開けた。
「わあっ」
優衣は思わず声をあげる。窓から雨上がりの風が吹き込んで、優衣の前髪がふわっと揺れる。ベランダに出て柵から身を乗り出すと、あの日と同じ景色が広がっていた。
「変わってないね」
「変わるわけないよ」
眼下に見える家並みも、その先にある学校も駅も、この狭くて小さな町も……何も変わらない、変わっていない。そしてそんな変わらない世界の中で、自分たちは今日も生きている。
「七瀬さぁ」
裕也の声がすぐ隣から、風と一緒に流れてきた。
「お前、女子にハブかれてんじゃね?」
「え……」
心臓がとくんと音を立てる。手すりにもたれかかった裕也は、なんでも知っているような顔をして優衣に笑いかける。
「な、なによ。あんたのせいなんだからねっ」
「俺のせいー?」
裕也がそう言いながら、空を見て笑いだす。
「なんで俺のせいなんだよ? 女ってわっかんねー!」
優衣はぼんやりと、そんな裕也の声を聞く。その横顔にある、新しくできたあざを見つめながら。
「……裕也は、強いよね?」
いつかの、ランドセルを背負った裕也の言葉が浮かんでくる。
『殴られたんだ、お母さんに』
裕也は平気な顔をしてそう言った。
「強い? 俺が?」
「うん。裕也は泣かないもん。いつも」
優衣はそうつぶやいて前を見つめる。庭の茂みから一羽の鳥が飛び立って、晴れ間ののぞきはじめた空へ、翼を羽ばたかせて飛んでゆく。
――鳥になれたら……。
優衣の胸にその想いがよみがえる。
――自由に飛んでいけるのに。
空を見上げる優衣の耳に、裕也の声が聞こえてきた。
「七瀬。カッコウって鳥、知ってる?」
「カッコウ?」
優衣が視線を裕也にうつす。裕也はいつものように少し笑って優衣を見る。
「カッコウの親ってさ、他の鳥の巣に卵産んで、どっか行っちゃうんだ。自分は子育てしないでさ」
優衣の胸がきゅっと痛む。
「しかも産まれたヒナは、巣の持ち主の本当の卵を、下に落として割っちゃうんだぜ?」
裕也がそう言って冷めたように笑う。
「ま、俺はそんなことはしないけど。慎吾のやつ、けっこうかわいいし」
優衣はそんな裕也に向かってつぶやく。
「裕也は……本当のお母さんに会いたいって思わない?」
「思わないね」
裕也の黒い髪が風に揺れる。
「向こうだって会いたくないだろ? せっかく邪魔な子供を捨てて、のびのびと飛び回っているってのに」
「そうかな……」
「そうだよ」
優衣から顔をそむけた裕也の声が、いつも以上にかすれていた。
――あたしは……会いたいな……お母さんに。
だけどそれは叶わない願い。
――あたしも、お母さんに捨てられたんだ。
優衣は唇をかみ締め、その言葉を胸に押し込む。裕也は黙って空を見つめている。
「でも俺……いつか絶対、この町出るから」
裕也がひとり言のようにつぶやいた。
「そしたら、どこまでも飛んでいく。親も、家も、学校も、全部俺が捨ててやる」
優衣はぼんやりと裕也の横顔を見る。裕也はそれ以上なにも言わずに、ただ空を飛ぶ一羽の鳥を目で追っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます