あなたに障害が見えるか

赤キトーカ

あなたには、みえますか。

 エス氏が時計を見ると、11時30分だった。

 今日は平日。

 バス停。

 バスストップ。

 停留所。

 時刻表を見ると、11時32分着とある。

 鍛冶屋橋バス停から、江戸川橋まで。

 天気は、とてもよく、エス氏は、心地よかった。

 やがて緑色のバスが到着し、PASMOをかざして、バスに乗り込んだ。

 踊り込んだわけではない。

 今日も、エス氏はお気に入りの傘を右手に持ち、空いている席を見つけようとする。始発のバス停ではないので、乗客率は、70%といったところか。

 立っている乗客も何人かいたが、優先席は空いていた。

 エス氏は、遠慮がちに、その席に座り、傘を両手で杖のように掴んだ。


 あまり来ることのない場所である。

 だから、これからどれだけ込んでくるのか、わからない。

 エス氏は、優先席という席をやや気にしながら、座っていた。

 やがて、いくつかの停留所を通過したところで、JRの駅前の停留所に、バスは止まった。

 行列ができているのが、エス氏からも、窓から、見えた。

 子供連れの女性、サラリーマン風の女性や男性、多くの人たちが乗り込み、バスの中は乗客であふれ返るほどになった。

 バスは駅を出発し、走り始める。

 ふと顔を上げると、女性が連れている子供が、こちらを見ているのがわかった。

 凝視している。

 凝視されている。

 しばらくして、その子供は、母親と思しき女性にこう言った。

「ねえ、なんで、このお兄ちゃんはこの席に座っているの?」

 女性は、「やめなさい」と、慌てたように、子供の口をふさいだ。

「ねえ、お母さん。ここは、お年寄りや身体の不自由な人が座る場所じゃないの?どうしてこのお兄ちゃんは座ってるの?」

 女性はややうろたえたようなそぶりを見せるが、子供は率直で純粋で素直な気持ちを女性にぶつけている。

 エス氏はじっと、身じろぎせずにいる。

 バスの中の乗客も、子供の言葉を聞き、エス氏のほうに顔を向けている。それがエス氏にも、わかった。

「ねえ、おかあさん。どうして?」

 よほどしつけが行き届いている母親なのだろう、とエス氏は思った。

 と。

 それを聞きつけた初老の男が、近寄ってくるのがわかった。

 エス氏は、その男性の顔を見た。

 俳優か、お笑い芸人か、何かわからないけれど、見たことがあるかもしれないと思った。芸能人かもしれない。

「なあぼうや。この青年はな。ぱっと見ただけじゃわからないけど、悪いところがあるんだよ。だから、この席に座ることは、ちっとも悪いことでもないし、恥ずかしいことでもないんだよ!」

 バスの乗客は、何事かといぶかしげにエス氏たちに視線を寄せる。

 彼は言う。

「なあぼうや。ここにはっきりと書いてあるだろう?ここは優先席だ。この青年は、どうもこれが読めないらしいな」

 エス氏はじっとそれを聞いている。

「なあぼうや。この青年はな。頭が悪いんだ。『頭』だよ。だから、席も譲ることもできずに、こうして座っているんだ。な?だから、この青年を、許してあげなさい」

 と、「どうだ」と言わんばかりに、子供の母親や、乗客のほうに笑顔を向けた。

 乗客も、「さすがだ」といわんばかりの表情を彼に向けているようだった。

 バスは、揺れている。

 揺れている、バス。

 エス氏の心も、揺れた。

 そして、エス氏は、持っている傘で身体を支えて、席から立ち上がった。

「ほうら、席が空いたぞ。ぼうや、ここに座るといい。ここは、身体の悪い人や、お年寄り、子供が座る席なんだからな!」

「うん、ありがとう、おじさん!」

 乗客の大勢が、その様子を見て、うなずいているようだった。何人かは、拍手をしているようだった。それをエス氏は聞いた。確かに聞いた。

 エス氏は、ポケットから紺色のカードを取り出した。そして、子供と、母親のそばにいる、初老の男性にそれを見せた。

 男性は、はっとした表情を見せた。

 エス氏は、そっと彼に呟く。

「私は、右脚がありません」

 そのつぶやきは、子供や、母親には、聞こえなかった。

 エス氏は、バスの降り口へと向かった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 まもなくバスは止まり、エス氏は傘を手に、バスを降りた。

 乗客の多くが、エス氏の方を見ているようだったし、初老の男性に笑顔を向けているのがわかった。

 エス氏は、手にしている紺色の障害者手帳を、ポケットにしまい、晴れた空の下を、ややよろめきながら、歩き出した。

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