第27話 音を探す

 音探しの丘に到着した。リディアさんと私は無言出歩く。不思議な地形だった。前は山に囲まれ、後ろは森に囲まれている。山は遠く、数キロはあるように思うが、幾つか沼が見えるだけで、人の気配は一切ない。足首から膝にかけてくらいの高さの茂みのなかに、獣道のように歩道があり、そこをあるいていく。周りにはほとんど人がいない。観光名所にもなっていないのだろう。

 すれ違った一組の夫婦がいたが、会釈をしただけで声は出さない。それが不思議と神聖だった。


 何キロか歩いた頃だろうか、リディアさんは、突然立ち止まって、目を閉じた。私もそうする。

 なるほど、音探しである。

 はじめは何も聞こえなかった。それは意識してみれば無音であり、ほとんど初めての無音という経験であった。何も聞こえないということは、これほど新鮮なのかと、不思議に感じられた。

 しかし、そのうちに、わずかに葉のかすれる音、おそらく小動物が通った音、森の中で鳥が鳴く音・・・が聞こえた。不思議と、目で見るよりも細部まではっきりと見えるようだった。世界にある本当に細かい砂粒まで見えるような繊細さを持ち合わせたようだった。

 なるほど、世界の美しさは、目の前に広がる雄大さ、精緻に複雑に入り組んだ造形もあるが、このように耳で聞く美しさもあるのだ。このような美しさに与えられた名前は私は知らないが、それでもなお普遍的に人間が感じられるであろう美しさであることは明白だった。

 いつしか時間をわすれ、場所をわすれ、私が生きていることもわすれ、感覚というそれのみに浸っていたとき、私が世界というものを感じていることそれのみが在って、普段の喧騒、焦燥、義務、競争、その他の人間として社会に生きる為に必要なあらゆる不快な感情から解き放たれていたのであった。

 私は私を失ってからどれほど時間が経ったのかわからないが、ふと自分の意識が戻ってきて、それはいつもの思考であった。インスピレーションを強制される仕事をしている私は、半ばインスピレーションというものが技術によって生み出すことができるということを識っていた。それは思考に思考を重ね、経験と洞察から得られる可能性の選択であった。私は気付かないうちにその思考の音量に圧倒され、次から次へと湧き出る選択肢を必至に確認していたのであった。そのとき、私は長い間感覚と時間を失っていたのであった。

 私が感覚を失って、またどれほどの時間が経ったのかわからないが、その感覚を取り戻すべく私の脳は耳に集中した。

 そしてそれを何度も繰り返した・・・。


 私の手に、人の手が触れた。リディアさんだ。私はそれもとても自然なものとして受け入れて、目を開く。眼前に広がる眩い景色はあまりにも色彩が豊かで、私は初めて人間の四感に視覚が備わって五感を手に入れたのだ、と錯覚するほどだった。人はだれでも世界の広がりを認識しているが、それは感覚というものによって認識しているのだ。もし、感覚を全て失えば、人は考えることしかできないであろう。考えるということも感覚だとするなら、それもできなくなってしまうけれども。

 リディアさんは耳元で囁いた。

「グッドさん、そろそろ行きましょうか。私もグッドさんに見せたいものがあるのです」

 そして、私たちは音探しの丘から出た。


「それで、リディアさん、見せたいものとは?」

「ええ、このノートを見てください」

 リディアさんがノートを開くと、木の枝のような模様がたくさん書いてあった。これは・・・

「これはヒドラゲームですね」

「その通りです。ヒドラゲームは、グッドスタイン数列に非常に似た構造を持っています。どちらもその根本にあるのは、順序数との対応ですが、別の見方をすると、フラクタルにも似た構造になっています。グッドスタイン数列もこのようにフラクタル似せた書き方ができるでしょう」

 リディアさんは、底を2として、100を遺伝的記法の過程を書く。

 100=2^6+36

「今、100が二つの枝に別れました。こうです」

 ┃━┓

 ┃ 36

 64

「計算を進めます」

 =2^(2^2+2)+2^5+4

「これは、二つの枝から、さらに二つに分かれて四つの枝になっています」

┃━┓

┃ ┃━┓

┃┓┃ 4

┃ 2 5

2


「さらに計算を進めるとこうです」

 =2^(2^2+2)+2^(2^2+1)+2^2

┃━┓

┃ ┃━┓

┃┓┃ ┃

┃ 2 ┃┓ 2

2  ┃ 1

  2


「これが、100の遺伝的記法の構造になっています。底の2と指数の2の区別は大事です。遺伝的記法の底の2を■で消すと、この木の構造がわかるでしょう」

 ■^(■^2+2)+■^(■^2+1)+■^2


「グッドさんの強関数同調グッドスタイン数列は、この末端に複雑な葉をはやしたように感じられました。これが、私の聞こえた音です」


 数式を読んでいるとき、計算をしているとき、そこには直接書かれていない想像上の構造が見えることはたまにある。リディアさんは、ずっとそれを考えていたのだ。そんなことを考えていると・・・


 私に何か電撃が走ったように感じられた。


 何かわからない・・・もう少しのヒントがあれば・・・


「グッドさん。もう夕方だから、星を見に行きませんか?」

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