第91話 世界の涯へと続く旅路〜リカルド ①
秋の終わりのある夜、すっかり旅装束に着替えたリカルドが馬に荷物を積んでいると、背後から聞き覚えのある声がリカルドを呼び止めた。
「リカルド様、何も言わずに行くなんて水臭いですよ」
「これはサルディバル近衛騎士団長、どうなされましたか?」
優男風な顔立ちのエメディオは首を横に振ると、単なる見送りですよ、と答えてリカルドを手伝い始める。よそよそしいのはリカルドの方で、エメディオはそんなリカルドを哀しそうに見ている。無言になった二人の間に気まずい空気が流れ、流石に居たたまれなくなったリカルドは小さく咳払いをすると、荷積みをする手を止めてエメディオと向かい合った。
「こんな夜更けに身重の奥方を一人にするものではない」
「安定期に入りましたから大丈夫です。それに、イェルダからも見送りくらい行ってこいと蹴り出されましたので」
華子が消えたあの日、イェルダは勤務中に宮殿で倒れ、報せを受けたエメディオ共々医術室に詰めていたのだ。リカルドから華子のことを頼まれていながら結局何の役にも立たなかった、と夫妻が悔いていることを知っているリカルドは、何も言わずに黙々と作業を再開する。
「スルバラン警務隊総司令からです。男の居場所を突き止めたそうですよ」
エメディオから差し出された紙を見たリカルドはスッと目を細め、暗記し終わると小さな火を灯して紙を燃やした。出立前に間に合ってよかった。あの出来事に関わった全ての人物をあたるつもりでいたリカルドは、まずは逃亡した始末屋の男を追う計画に変更する。季節的には厳しいが、そこに手がかりがあるならば、東の同盟国より先に北の帝国に行くしかない。
「……待て、それは何だ? 」
少しの間思案していたリカルドの隙を突き、エメディオが馬に大きな革袋を二つも括り付けていた。流石に重かったのか、ギュルルと不満そうに鳴いた馬は立派に成長したピノである。華子の匂いを覚えていたので、役に立つと考えたリカルドはピノを買ったのだ。にやにやと笑うエメディオに不審なものを感じて袋を掴んだ。
「嫌ですねぇ、フェリクス殿下からです。なんでも『ネブクロ』という不思議な青い布でできた筒状のものらしいんですけど、きっと役に立つからと仰せつかりました」
リカルドが革袋を開けると、そこにはあの青い布地が見えた。それは華子がこの世界に落ちて来た日、リカルドがいも虫と勘違いしたあの布袋であった。
「この中に入って寝るものなんだそうです。野営にぴったりですね」
革袋の中には他にも細々としたものが入っていたが、セレソ色のドレスが入っていることには驚いた。これは最初に着ていた華子のドレスであったか。初めて出逢ったあの日、確かに華子がこれを着ていたことを思い出す。もう遠い昔のことのような気もするが、まだ一年も経っていなかった。
「ハナコちゃんがフェリクス殿下に提供したものを、そのまま保管していたそうですよ」
「そうか」
「それから、ミロスレイ東地区隊長からの餞別です」
エメディオは背負っていた長い物を降ろし、リカルドに向かってひょいと放り投げてきた。黒い布が巻いてあるそれはズシリと重く、慌てて中身を確認したリカルドは思わず舌打ちをする。四十年来の付き合いであるミロスレイは、リカルドに槍術を教えてくれた師匠でもある。そのミロスレイが客人としてこの世界に来たときに持っていた魔槍が餞別だというのだろうか。見るからに禍々しい色あいの
「これは、危険だからと封印されたはずだぞ? 何故ここに」
「そんなの、神に挑むんですから何でもありなんじゃないですか? こっちは侍女たちからハナコちゃんに宛てたものです。厳選された服一式。刺繍は護りの魔法術式になってるみたいですね」
華子のために仕立てられたそれは、旅の道中を考えて装飾は控え目だったが、侍女たちがひと針ひと針縫ったという魔法の紡ぎ糸の刺繍が施されていた。あの日、華子の伝言は侍女たちにも届いており、思わぬ形で友人が誘拐されたことを知った彼女たちは、しばらくは仕事を休むくらいに落ち込んでいたと聞いていた。リカルドが竜騎士を辞することの意味を知っていたのか、華子を取り戻した後のことを考えてくれたようだ。
「最後にフリーデ様からです」
「これは、どこで? 」
最後に渡されたものは、古い革表紙の日記のようなもので、中を見たリカルドは目を見開いた。それにはリカルドの最終目的地に関する情報がびっしりと書かれており、見覚えのある特徴的な筆跡だった。
「フリーデ様のお祖父様のものだったそうで、旅の道しるべになるものだと説明を受けました……重要参考文献ですからくれぐれも失くさないでくださいね」
確かに、今からリカルドが向かおうとしている場所への道しるべになるだろう。こんな重要なのものをほいほいとただの人である自分に渡してしまっていいものなのだろうか、とリカルドは片眉を上げてエメディオに確認する。
そう、今やリカルドはただの市井の民の一人になっていた。竜騎士団を辞すと共に王位継承権も返上したうえに、臣下に降り、貴族でもなんでもない、ただのリカルド・フリオになったのだ。これは私事を優先させたリカルドなりのけじめだった。国も名前も捨てて、ただ一人の男としてフロールシア王国から旅立つというのに、これではあまりに仰々しい。
「フリーデ様の私物でもありますからねぇ。必ず返してくださいと言付かりましたよ」
「これ以上はやめてくれ……世話になったな、いつかまた会おう」
「あ、ちょっとまだ」
まだ何か言いたそうなエメディオを制し、ヒラリと馬にまたがったリカルドは手綱を握る。それから一呼吸置いて、振り返ることなくエメディオの元を後にした。
「あーあ、せっかちなんだから……竜騎士たちからの餞別、どうしよう」
ひとり残されたエメディオは、ヒラヒラと舞い上がった馬の羽根をパシッと掴んで肩をすくめる。最後にして最大の餞別は、離れた城郭の上で不満げに待機していた。
リカルドが王都セレソ・デル・ソルを出立してまもなく、聴き慣れた滑空音に夜空を見上げると、大きなドラゴンの影が降りてきた。竜騎士団を辞すまでに何度も何度も宥めすかしてきた長年の相棒ヴィクトルが、鼻息も荒くいささか乱暴に着陸すると、二頭の馬たちが怯えてギュルルルと鳴きわめく。
「竜舎から勝手に飛んできたのか? もうお前には乗れないとあれだけ言ったはずだぞ」
不満そうにリカルドを見つめるヴィクトルは、甘えるようにクー、と喉を鳴らした。ヴィクトルが産まれたときから世話をしてきた仲である。別れは辛いが、厄災デサストレの封印でもあるヴィクトルを置いていく他ない。
「自分で戻れるな? 」
「……リカルド様は案外、薄情……ですね」
リカルドがヴィクトルの鼻先に手を伸ばしかけたとき、弱々しい第三者の声がどこかから聞こえてきた。うっぷと口を押さえながらヴィクトルから降りてきたのはフェルナンドだ。
空を飛ぶと酷く酔ってしまうフェルナンドが、何故ヴィクトルに乗ってきたのか疑問だ。余りにも青白い顔なので心配になったリカルドが、馬の手綱を近くの木に結びつけて戻ってくると、地面に手をついてうずくまるフェルナンドの背中をさすってやる。
「見送りなどいらんと言ったはずだがな」
「見送るつもり、なんてありませんでっ、したよ……はぁ、ありがとうござい、ます、だいぶ楽になりました」
よろめきながら立ち上がったフェルナンドが、睨むようにしてリカルドを見る。その恨みがましい目付きは、見送りもまともにさせて貰えないとはどういうことだ、と語っていた。
「まったく、リカルド様が餞別を置いて行かれるから私がこんな目に遭ったんです」
「餞別ならサルディバル近衛騎士団長から受け取った」
たっぷり二袋分もあったというのに、まだあるのか。これ以上はいらないと断わろうとしたリカルドに、フェルナンドがずれた眼鏡をかけ直しながらヴィクトルを見上げる。
「ヴィクトルの飼い主はリカルド様なのですから、責任持って最後まで面倒をみてください」
「飼い主……なのか? いや、ヴィクトルはラファーガ竜騎士団所属のドラゴンだろう」
「うちの竜騎士の誰がヴィクトルに騎乗できると思っているんですか? 今だって貴方の元に行くという条件を根気よくヨンパルトから伝えて貰って、かろうじて乗せてもらえたというのに。働かない、新団長の騎竜コルミージョとの相性も悪い、よく食べる……それもこれも貴方が散々甘やかしたことが原因かと」
リカルドとて甘やかしたつもりはないが、リカルド以外を騎乗させない、コルミージョと喧嘩して竜舎を破壊する、苛々が募って暴食気味なのは事実だ。誰か新しい竜騎士の騎竜にもならず、ドラゴンたちの和を乱す今のヴィクトルは、はっきり言ってお荷物もいいところかもしれない。リカルドが仕方ない奴だ、という目でヴィクトルを見ると、何を勘違いしたのか嬉しそうに頭を上下に振って四枚の羽を誇示するように広げている。
「オルトナ共和国との協定は……」
「制御できることが条件ですね」
「戦力が」
「たかがドラゴン一頭です。それに、食料代も馬鹿にならないので、連れて行って貰えると国庫が助かります」
「……」
「まあ、幸いヴィクトルは体力もありとても利口ですから、どうぞ旅の足としてお使いください。私どもからの餞別です」
なんやかんやと理由をつけて、リカルドにヴィクトルを押し付けることで暗に連れて行け、というフェルナンドに、リカルドは折れることにした。辛辣な物言いのフェルナンドの目の端に、光るものを見たのだ。文官長という立場やお目付役としてだけではなく、リカルドのことを真摯に支えてくれたフェルナンドには感謝しかない。
「すまない……いや、ありがとう、フェルナンド」
「…………礼なんかいりませんよ。貴方が結婚しないと私が先に結婚するわけにはいかないんですから……必ず一緒に戻って来てください」
素直じゃないフェルナンドは、そう告げるとふいっとそっぽを向く。本当はもっと色々と言いたいことがあるのだろう。その頬には月明かりに光る筋が見えた。
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