第90話 魂を呼ぶ声、リカルドの決断

 狭間に来てもう随分と経った。

 やがて背中の中ほどまで伸びていた髪が腰に届く頃。うとうとと眠り込んでいた華子は、待ち望んでいた懐かしい声を聞いたような気がして窓辺に駆け寄った。夢だったのだろうか、と思うもリカルドの声を華子が間違えるはずがない。確かにリカルドの声が華子を呼んだのだ。


「リカルド様? 」


 エル・ムンドと繋がったのかと目を凝らすも、ぼんやりとした世界が二、三個浮かんでいるだけでリカルドの魔力は感じ取れない。元々魔力の扱いなど知らない華子は、それでも必死になって虹色の魔力を出そうとお腹の真ん中に集中する。


 リカルド様、私はここです!


 どれくらいの間そうしていたのだろうか。華子はナートラヤルガから毛布のような布を肩にかけられ、脱力した。


「何か感じたのか? 」

「……リカルド様の声がしました」

「そうか」

「確かに、私のことを呼んでいたんです」


 あれは夢ではない、夢なんかじゃない。

 

 華子がいくら言い募ってもナートラヤルガには何も感じられないようだ。

 この日から、ただ待っているだけでは駄目だと、華子は積極的にナートラヤルガの記録を見始めた。エル・ムンドの歴史から魔法術に至るまで、役に立ちそうなありとあらゆる知識を欲したのだ。理解できないところは遠慮なくナートラヤルガに教わり、初めは恐ろしくて見られなかった始まりのアルマの話も最後まで見た。自分とリカルドを繋ぐものは魂だ、とコンパネーロ・デル・アルマの話のみならず、他の国に伝わる魂の伴侶の話にも興味を持った。新しい知識を手に入れては、外に見える世界を見つめる日々は瞬く間に過ぎていく。

 次にリカルドの声が聞こえたのは、味気のない干した肉のような物を齧っている時だった。弾かれたように窓辺の定位置に立った華子は、制止するナートラヤルガを振り切り窓を開ける。その途端に部屋の中に嵐のような風が吹き荒れたが、その風に混じって微かに「華子」と呼ぶリカルドの声がした。


「リカルド様、リカルド様、リカルド様! 私はここにいます、もっと呼んでください、私を呼んで!! 」

「華子、窓から離れなさい! ここから落ちれば二度と戻れなくなるぞ!! 」

「だって、リカルド様が……」

「リカルドはいない、私にはエル・ムンドの気配は感じられない」

「嘘よ、だって、華子って呼ばれたもの! 」


 錯乱状態に近い華子はナートラヤルガによって強制的に眠らされた。華子がアルマの暴走を起こしていると思われたからだ。精神的に不安定で、いよいよ危うくなってきており幻聴まで聞こえ始めたのか、とまで思ったようだ。

 目を覚ました華子はあれは幻聴ではないとわかっていた。その証拠に、華子の両手が薄い虹のような色に光り、沈黙していたヴィクトルの鱗が淡いオレンジ色に輝いている。


「ナートラヤルガさん、エル・ムンドが近いの。どうすればいいの? どうしたら帰れるの? 」

「…………それは、アルマを呼ぶ印か」


 信じられないものを見たとでも言わんばかりのナートラヤルガが華子の両手を掴む。それから小さく何かを呟くと両手から虹色の糸のようなものが何本、何十本、いや何百本も伸びていった。


「華子よ、このえにしの魔力が繋がる先にリカルドが居るはずだ……私がかつて、幼きリカルドを使ってお前を探し出したように、今度はお前が、リカルドを見つけるのだ」


 窓から外へとキラキラと光る虹色の糸が飛び出し、それはどこまでもどこまでも伸びていく。魔力を消費するのか、少し貧血のような立ちくらみを覚えた華子は、椅子に座って糸の行方を見守った。

 この先に繋がる世界がリカルドへと繋がる場所。リカルドの鮮やかな水色の瞳が脳裏をよぎり、華子はこの魔法術を絶対に成功させてやると気負い込んだ。



 やがて、一本、また一本と切れていく糸に華子はあせりを感じていた。寝て起きてを繰り返しながら、どんどん糸が少なくなっていく。


「リカルド様……どこにいるんですか? 」


 今までとは違い明らかに衰弱していく華子に、ナートラヤルガは何も言わずに世話をする。狭間では珍しい新鮮な果物や冷たい水、華子が少しでも口にできそうな物をナートラヤルガはこの部屋を出て、狭間の中を探し回って集めてきているようだ。


「華子よ、少しでも長く眠るのだ……私がずっと起きていよう」

「でも」

「リカルドを見つけた時にそんな様子では心配されるぞ」

「……少しだけ」


 やがてすぅすぅと言う小さな寝息を立て始めた華子にナートラヤルガは安堵する。眠る華子の腰から尻の辺りにまで伸びきった髪は、になっていた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 それは華子を失った日から数日後のこと。


「レオカシオから報告をお受けになられたと伺っております。知っていること全てを話していただきたいのです、陛下」


 リカルドは鮮やかな水色の瞳はそのままに、しかしそこに宿っていたはずの親愛の情など初めからなかったかのように冷ややかな目で国王 –––– クリストバルを見据えた。

 ここは謁見の間ではなくクリストバルの私室に近い執務室だ。いるのはクリストバルとリカルド、王太子アドリアンと孫にあたるレオカシオだけである。いつもなら「親父殿」と、少し畏まって「父王」と呼んでいたリカルドがとまるで他人のように呼んだことに、クリストバルは決断しなければならないときがきたと悟った。我が子相手に心眼など使わなくとも、リカルドの心情は痛いほどよくわかる。


「シルベストレの言ったことにほぼ間違いはない。あれの父ミケーレを助けるために私がバヤーシュに相談したことも、バヤーシュがお腹に宿ったお前のアルマを利用したことも、全て事実だ」

「バヤーシュ・ナートラヤルガの秘儀とは何です? 」

「その点についてはシルベストレは勘違いをしておる。バヤーシュの秘儀とは魔法術で人工的にアルマを造ること……あのときはまだ理論上のものでしかなく、それを初めて実践して、バヤーシュは失敗したのだ。十四年前に厄災デサストレをいくつかにわけて封印した術は、バヤーシュがいなくなってから後に研究を継いだフェリクスと学士連のブエノが完成させたものでな。最上級の極秘事項であったが故に、錯誤したシルベストレも都合のいい解釈をしたのだろう」

「フェランディエーレは異界へ飛ぶ魔法術に固執していたようですが、それは完成していないということですか」


 旅立つ者は、発現から消えてしまうまでほぼ一日かかると言われているが、華子は数刻で旅立つことになってしまったのだ。あのときフェランディエーレが構築した魔法術が助長したのだと推測されるも、当のフェランディエーレは切り落とされた手首からの出血が思いのほかに多量で、治療のために強制的に眠っている。覚醒するまでは真実は分からないのだろうし、真実を語るとも限らない。捜査はフェランディエーレ家が所有する全ての屋敷や施設など広範囲に及び、学士連に所属しない研究員を囲って、『転移』や『召喚』といった神々の秘儀を研究させていた形跡があった。次兄のフェリクスが警務隊士とともにその施設での捜査に加わっており、いずれどのような魔法術だったのか判明するだろう。

 フェランディエーレを支持し、支援していた者たちもこれから捜査対象になる予定であり、既に反客人派の何人かは客人売買に加担したという証拠を掴まれ逮捕されていた。


「それができているならば、この世界は今頃消滅しておろうよ。リカルドよ、異界を渡るつもりか? 」

「ええ、もちろんでございます、陛下」


 何の感情も見せずに淡々としているリカルドは、レオカシオの報告通り、あまりにも感情がなさすぎた。アルマを得ることを諦め、戦場に身をやつしたときと同じように、生きながら死んでいるのと同じだったあのときのように。あのときは皮肉にもリカルドの母、王妃フロレンシアの死によって血を分けた家族としての絆が再構築されたのだが、リカルドの最愛の者を喪失したことにより、再び深い亀裂が入ったというのか。


「フェランディエーレ家の悲劇はわしの所為でもある。リカルドよ、お前にばかり苦行を強いることになり申し訳ない……いつぞやのお前の望み、全て承諾しよう」


 クリストバルには今さら謝罪などできなかった。起こってしまったことを巻き戻す魔法術などない。だからせめて、とリカルドの望むことを叶えてあげたいと思うのはクリストバルのなけなしの親心だった。


「それは、恐悦至極」

「父上! リカルドも、冷静にならんか」


 それまで黙って聞いていたアドリアンが声を荒げて静止する。他人行儀のようなリカルドの態度に長兄として叱責した。


「王太子殿下、貴方はもちろんご存知だったのでしょう」


 まだ八歳だったリカルドと違い、アドリアンは十八歳で大人だった。まだ王太子ではなかったものの、次期王太子としてクリストバルに付いていたので、バヤーシュが突然失踪した原因も始めから知っていたのは本当である。


「……それももう、どうでもいいことです。それでは竜騎士団長選出はひと月後に。明日、許可をいただきに参りますので決裁をよろしくお願い申し上げます」

「リカルド! 勝手はならん……王族としての責務を放棄することはならんのだ」


 アドリアンとリカルドの視線が交わる。ギリギリと握り込まれるアドリアンの拳と、受けて立つと言わんばかりに右脚を引いて構えたリカルドの一触即発の空気を割って入ったのはレオカシオだった。


「アドリアン伯父上、リカルド伯父上を行かせてください! 」

「レオカシオ、お前まで……なんと浅はかな! 」

「アドリアン伯父上は正しい。王族の責務から逃げる事は王族の罪です……しかし、リカルド伯父上をこれ以上死に追いやらないでください! リカルド伯父上をいつまで竜騎士として死の淵に立たせておくのですか? このままリカルド伯父上を一生王族として縛り付けて、さらにはアルマを諦めろと? 」


 幼少期をリカルドと過ごしてきたレオカシオだから知っていることもある。リカルドはお飾りではなくだ。レオカシオが幼い頃から、リカルドは王族として与えられる財産には一切手をつけずに竜騎士として得た給金で生活していた。それはいつか、アルマを探しに自由に世界を巡るための布石だったから。アルマを得ていない自分が死ぬはずがない、と言いながら戦っていたことも、竜騎士団長として腐りきったラファーガ竜騎士団を再編成したことも。


「リカルド伯父上はもう十分、この国のために尽くしてきたではないですか……魂が前に、行かせてあげてください」


 レオカシオのその言葉を聞いて、アドリアンはリカルドがアルマを暴走させる寸前のところで耐えていることに初めて気がついた。感情がなくなってしまったのではない、感情を制御するために無心を貫こうとしていたのだ。リカルドの魔力は桁外れに強大なもので、だからこそあのヴィクトルを制御できるのである。もしそれが解放されるがままになったら、宮殿の一つや二つくらい簡単に火の海と化すだろう。


「レオカシオ、ありがとう……アドリアン兄上、貴方の弟としての最後の願いを聞いてはくれまいか」

「今はならん、国を揺るがす不祥事なのだぞ。せめて、治めるまでは」

「でも、呼ぶ声が聞こえるのです」


 リカルドがポツリと呟いた言葉に、今度はアドリアンも反論はできなかった。


「幻聴でも、何でも、呼んでいるから、行かなければ」


 リカルドはどこまでも真剣そのもので、心眼の力がほぼ目覚めた右目でリカルドの深淵を覗くと、様々な葛藤の末に下した決断だと理解できた。人生を賭けてまで追い求める者がいるリカルドに、アドリアンは少しだけ羨ましい気持ちになる。


「リカルド…………わかった、明日、詳しい話を聞こう」


 アドリアンは弟の要求を飲み、それからひと月半後には南地方の副団長であったシモン・ソレールが新たな竜騎士団長として選出され、リカルドは正式に竜騎士団を辞した。

 

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