第89話 世界の狭間

 ナートラヤルガが語ったことは、フェランディエーレが空中庭園で語ったことと同じだった。到底信じがたいことだったが、華子はフェランディエーレの妹として生まれるべき人物で、その昔、ナートラヤルガが施した魔法術に巻き込まれて命を落としてしまったらしい。華子の本当の父親になるはずだった人物は旅立つ者としてどこか別の世界に飛ばされ、それに引きずり込まれる形でここに取り残されたのだという。生身の身体ではなく、魂の状態でナートラヤルガと共に『狭間』と呼ばれるこの空間にいたというのだから、既に華子の理解の範疇を超えていた。

 エル・ムンドでは、アルマとして生まれた者は、必ず自分の片割れとなる魂に出会い安寧を得るまで死ぬことはない、とされていて、ナートラヤルガの見聞きしてきた範囲でも、魂の伴侶を得ずに死んだ者は知らないらしい。だからこそ、強制的にアルマを作ることで異界へ飛ぶことを阻止できると思っていたのだ、とナートラヤルガは疲れたように語った。


「神が何故神たるか、その時にやっと理解したのだ。人ごときが神になれるはずもない、すべてを解明しようなど愚の骨頂……私さえ関わらなければ、お前はもっと早くにあの子に出会い、幸せに暮らしていたはずだ」


 実際にはフェランディエーレの妹として生まれてはいないので何とも言えない。確かにリカルドと早くに出会えたかもしれないけれど、それは『今の華子』ではない。それに、日本で本来華子として生まれるはずだった魂と融合してしまった、と言われてもピンとこないのだ。とても複雑な心境だった。


「私は、私でしかないとしか思えません。貴方に謝られたって……正直よくわかりません。どうしても謝りたいというのなら、フェランディエーレ、さんにでも謝って下さい」


 ナートラヤルガから説明されて幼かったフェランディエーレの境遇に同情はしても、華子を誘拐してこんなことに巻き込んだことを許す気にはなれない。華子やヴィクトルの力を利用してまで成し得たいことが何だったのか、分かりたくもないけれど何となく理解できることに、苛立ちを覚えた。


「私が知りたいことは、エル・ムンドに戻れるのかと言うことです。リカルド様の元に帰れなければ、私は魂の安寧なんて得られません」

「……魂の安寧というものが何を指すのかわかりようもないが、アルマたるお前がそう言うのであれば、それがすべてなのだろう」

「ここには、貴方が呼んだのではないのですね? 」

「幼きフェランディエーレが言う私の遺した『秘儀』は失敗に終わっているのだぞ? その結果がお前であり、私である。考えられるとすれば、お前の自己防衛本能が発動したのではないか、ということだな」

「自己防衛本能? 」

「魂が覚えている、ということかもしれん。お前は短くない間ここで時を過ごしたのだ。生命の危機に瀕して逃げ込んできたとも言える。何せ、お前は既に何度も世界を行き来している……そういう体質になっていても何らおかしくはない」

「だったら、また……」

「その可能性もあるということだ。これは私の贖罪だ。お前が望むところへと帰れるように私の持てるすべての知識を捧げよう」


 こんな場所で押し問答する時間さえ惜しい華子は、はやる気持ちを抑えて辛抱強く待った。ナートラヤルガの話は突拍子もなく、信用に値するのか分からない。簡単に人を信じた結果、リカルドと引き離されてしまったのだから、とナートラヤルガの動向を静観する。

 ナートラヤルガがくるりと指を回すと、もやもやとした煙のようなものが指先から沸いて出る。それは段々と形を成してぷかぷかと浮かんでいる光球に触れると、光球がナートラヤルガの手元まで移動してきた。小さな惑星のように浮いている光球を指先で弾くと、記号のような見たこともない文字が、まるでプラネタリウムのように部屋中に広がる。それは、思わず見とれてしまった華子の周りにも集まってきた。


「綺麗……」

「一つ一つが私の研究の成果なのだ。うっかり触ると膨大な量の知識が頭に流れ込むから気をつけてくれ」


 そっと手を伸ばして触れてしまいそうになる華子を制したナートラヤルガは、ある一つの記号を華子の目の前に持ってくる。それは一本の木をデフォルメしたような記号で、木の根元には手を取り合うような形の二人の人も表されていた。


「魂の伴侶……フロールシア式に言えばコンパネーロ・デル・アルマの物語。最初のアルマと呼ばれいる、今はもう滅びてしまった国の王女と蛮族の戦士の話だ。興味があるなら覗いてみるといい」


 本当なのだろうか。ナートラヤルガとキラキラと輝く記号を交互に見た華子は、結局好奇心に負けてしまった。恐る恐る指先で触れると、華子の目の前の景色がおびただしい血と死体の山で埋め尽くされる。ひっと息を飲んだ華子が記号から指を離すと、また静かな部屋に戻っていた。幻にしては生々しい情景に、華子はくるくると回る記号から距離を取る。やはり、騙されているのだろうか。


「ああ、刺激が強すぎたか」

「あれは、何? たくさんの人が傷ついていた、あれは……今度は私をあそこに送るつもりなの? 」

「信用ならんか、無理もない。これは私の見聞きした記憶と資料や物、土地に残された記憶を再現したものだよ。今はもう滅びてしまった過去の話だ」

「あれが、昔に実際にあったこと? 」

「そうだよ。最初のアルマの話は戦争に次ぐ戦争により失われた多くの命の話でもある。愛し合うが故に引き裂かれた二人が「生まれ変わるときに再び出会いたい」と死をもって神に願った悲しい話だ。フロールシア王国の闇の鐘楼塔に納められている聖遺物から引き出した記憶でな、あまり良い話ではない、半分以上は凄惨な死の話だな」


 興味はあるもののあまり見たい光景ではなく尻込みをする華子に、ではこれはどうか、といくつか示された記号の一つは明らかに日本語だった。田中頼子という漢字がくるくると回っている。間違いなければ、華子が幼い頃に他界した母親の名前と同じだった。


「おかあ、さん? 」

「それは私の記憶の話だ。お前の魂が彼女の母胎を選んでから、エル・ムンドに落ちた時までの記録でもある。世界と接触できぬ私が断片的に拾い上げたもので到底不完全だが、気になるか」


 記憶の片隅にしか存在しなかった母親の話がある。それに、自分の出生の秘密でもあり気にならないと言えば嘘になる。華子は最初は覗き見をするようで迷ったが、散々迷った挙句に漢字に触れた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 どれほどのときが過ぎたのか、華子は窓辺に寄せた椅子に座り、ぼんやりと窓の外を見ていた。


 何もないと思われた真っ暗な空間によく目を凝らすと、薄っすらと人ひとり通れるくらいの大きさのシャボン玉のようなものが幾つも浮かんでは消えていく。ナートラヤルガが言うにはこのシャボン玉のようなもの一つ一つが『世界』なのだそうだ。

 ナートラヤルガが『狭間』と呼ぶこの空間には、数えきれないほどの世界が繋がっては離れてを繰り返し、ごくたまに世界同士が重なる時があるのだと言う。その重なった時に世界を行き来する者のことを、エル・ムンドでは『異界の客人』と『旅立つ者』と呼んでいるのだ。

 魔法術の失敗によりエル・ムンドから弾き出されてしまったナートラヤルガは、あの日からずっとこの狭間に取り残され、数多の世界から同じように弾き出されてきた物を拾い集めながら暮らしていた。 何となく懐かしいような気がするのは、華子も魂の状態でここに居たからで、この一つしかない窓辺も華子のお気に入りの場所だった、と話してくれた。


 ここにたどり着いた日、華子はナートラヤルガから見た母親の記録を垣間見た。母親が患っていた病気のこと、妊娠と治療の葛藤、華子の魂を受け入れてから出産までのこと。どうやら華子とナートラヤルガの間にはえにしがあるようで、母親が出産するまでは頻繁にこの狭間に世界が接触してきていたという。

 お腹にいる華子に嬉しそうに語りかける母親の顔は今の華子にそっくりだった。若い頃の父親とも似ており、間違いなく二人の子供なのだと感じられる。母親がナートラヤルガのことを神先生と呼んでいたことには微妙にもやつくものがあったが、母親からしてみればお腹の子を助けてくれたナートラヤルガのことが神様のように感じられたのだろう。お腹に向かって語りかける母親の顔は、それは幸せそうだった。華子が見たこともないような笑顔を見せる父親もいて、二人から望まれて生まれてきたのだ、と確かに感じられる。

 無事に生まれた時、虹色の光を発していたことには驚いた。虹色の光はアルマを呼ぶ印で、華子は無意識のうちにリカルドを呼んでいたのだ。

 生まれてからは、華子が成長していくにつれて世界の接触の回数が減ったので、本当に断片的にしか記録がなかった。小さなころは父親が仕事で忙しく、いつも保育園か祖父母の家に居た記憶のある華子は、あのころは独りぼっちで寂しかった覚えがある。それでも、母親の墓前に手を合わせる父親の姿がチラリと見えた時には、今も日本で暮らしているはずの父親のことを思い涙した。


「お前の母親は強い人だった」

「ええ、とても強く、優しい人だったんですね」

「父親を恨んでやるな……大切な者を救えなかったという絶望は乗り越えることが難しいのだ」


 ナートラヤルガはまるで思い当たることがあるかのように、どこか遠くを見るように目を細めた。


「父を恨んでなんかいません。ただ、独りになってしまった先のことが心配なんです」

「娘も、そう思ってくれているだろうか」

「娘? 」

「私の娘だ。結婚もして子供までいたが、私の所為で辛い目に遭ってはおらぬか、な」


 娘がいたとは知らなかった。そもそも研究ばかりで家庭を持っていたとは思いもしなかったが、考えてみればナートラヤルガにも家族が居たはずである。


「ナートラヤルガさんの母国のことですか? 」

「いや、フロールシアだが、ラシュタという娘で、お前の魂の伴侶の乳母となった子でな。子供はマルシオとフリーデと言ったか……昔の話だ」


 何かを懐かしむようにポツリと零した声が、華子には泣いているようにも聞こえた。ラシュタという名前は知らないが、リカルドの乳兄妹であるフリーデならよく知っている。フリーデを初めて見た時に「どこかで見たことがある」と既視感を覚えのはそういうことだったのだ。魂の状態とはいえ、ナートラヤルガと三十年近く一緒に居たのだから、それこそ魂レベルで覚えていたのだろう。そう思って見れば、ナートラヤルガとフリーデは確かに似ている。


「ラシュタさんのことは知りませんけど、フリーデさんならお元気ですよ」

「知ってるのか?! 」

「国賓として宮殿に居た時に、散々お世話になりました。侍女長を務めておられまして、ご結婚もされてましたね。リカルド様とは、良き義兄妹の間柄で、私のことを親身になって心配してくれて……」

「そうか……そうか」


 そう呟いて俯いてしまったナートラヤルガは、それ以上言葉もなく物思いにふけってしまったようだ。そんな姿を見ながら、華子は言えなかった言葉を胸のうちにしまい込む。

 フリーデがわざわざ学士連事務局に出向いてくれた日に言われた注告の意味が、今やっと理解できた。フリーデは祖父ナートラヤルガのしたことに責任を感じていたのだ。でなければ、客人のバイブルと言える本を『害悪の書物』などと言うはずがない。

 リカルドはナートラヤルガが姿を消した理由を知らないようだった。空中庭園でフェランディエーレと対峙していた時に断片的に聞こえてきた会話から推測して、多分リカルドには秘されていたのだろう。自分のアルマが失敗により失われたというショッキングな出来事など、知らない方が身のためだ。国王陛下は依頼した側なのだから当然知っていて、だから息子に秘密にしていたのかと思うといたたまれない。

 華子はフロールシアに残してきてしまったリカルドのことが心配でならなかった。華子もリカルドも、お互いが少し離れるだけで不安定になるのだ。今だって心が血を流していて、逢いたくて逢いたくて、抱き締めて欲しくてたまらない。悲痛な声で名前を呼んだリカルドの顔が、脳裏から離れてくれない。


「リカルド様……私はここに居ます。逢いたいです、逢いたい、なんで、こんなところに、リカルド様、帰りたい、帰りたい」


 はらはらと零れ落ちる涙が乾いてしまうまで、華子は窓の外をずっと見つめていた。


 

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