第88話 生きていた賢者


「あの子がね……どうやら呼ばれて行ってしまったようなんだ」


 娘がいなくなってしまってから五ヶ月、ようやくその事実を受け入れつつある僕は妻の墓前に語りかける。

 患っていた病気により、僕の妻は娘を産んでからたった四年で他界してしまった。いや、四年間生き長らえたと言うべきか。僕たち家族にとって、その四年間は奇跡だったのだ。


 ある日、子供を持つことすら叶わないと言われていた僕たち夫婦に舞い込んだ朗報は、すぐに悲報へと変わった。妻の妊娠とともに重大な病気も発覚したのだ。すぐにでも治療に入らなければ命の保証はなく、極めて厳しい現状というギリギリの状態。治療のために子供を諦めなければならない、と聞かされても分かりましたと言えるはずもなく。

 時間は待ってはくれず、明日には決断を下さなければならないという日。病気が発覚して絶望する妻の夢枕に、『神先生』は神々しく輝く光を手に現れた。そう、まるで神様のようだったと妻は語っていた。その不思議な夢の中で神先生は妻にこう言ったらしい。


 この魂を育むための母体となるか?


 せっかく授かった命をどうしても失いたくない、と藁をもすがる思いで、神先生に子供を産みたいと願った妻は、夢の中でその神々しく輝く魂を受け入れたのだと言う。翌日、僕にそう話してくれた妻は子供の命を取った。医者や両親や、そして僕の必死の説得にも首を横に振り絶対に大丈夫だ、と昨日までの絶望が嘘のように晴れやかな表情で必ずこの子は産む、と宣言し、断固として譲らなかったのだ。そしてその日から、今までの不調が嘘のように元気になった妻は大晦日に娘を産んだ。

 不思議なことに妊娠中は病気の進行もなく、医者は妻の強靭な精神力がいい方向に向いているのだと言い、正直僕もそう思っていた。それを妻は神先生が授けてくれた魂のお陰だとことあるごとに言っていた。妻がそう思い込むことにより元気になるのならば、と妻がその話をする度に曖昧に相槌を打っていた僕が、妻の言うことが真実であるかもしれないと感じたのは出産の時だ。

 そう、僕は妻に奇跡をもたらしてくれた、妻が『神先生』と呼んでいた存在に一度だけ会ったことがある。妻が娘を出産するとき、血圧が低下して危険な状態に陥り、本来入れないはずの分娩室で妻の手を握って必死に呼びかけていた僕の前に、神先生は現れた。

 光と共に現れた白い髪と髭の学者のような出で立ちの老人が、驚く僕の横に立って妻のお腹に手をかざす。すると妻のお腹が虹色の光を放ち始め、意識を取り戻した妻が神先生、と呼んだのだ。

 後のことはぼんやりとしか覚えていない。

 しかし気がついたときには娘が元気な産声を上げていて、妻がその娘を抱いて微笑んでおり、僕は声を上げて泣いた。神先生と虹色の光を見た、と泣きながら話した僕に、妻はほらね、私の言った通りでしょ、と笑っていたのに。

 それから幸せな生活を送れたのはたったの三年。再び病気が進行し始めた一年後、妻は僕と娘を残して旅立った。神先生は、再び妻に奇跡をもたらしてはくれなかった。


 残された僕は一生懸命に娘を育て上げた。いや、育て上げたつもりだった。幼い娘を保育園に預け、妻を失った悲しみを紛らわすかのように働いて、働いて、働いた。保育園の先生に抱き上げられたまま泣きじゃくる娘を、僕に向けて伸ばされた手を振り切って、娘のためだと働いた。

 いや、それは言い訳だ。娘のためだと言いながら、僕は妻の死から逃げ、娘からも逃げたのだ。それが証拠に、僕ら家族のアルバムには妻の死以降の写真がほとんどない。娘の入学式も、運動会も、卒業式も、娘と一緒に写っているのは僕ではなく、数少ない写真を撮ったのも僕ではない。

 娘が社会人になった日、家を出た日。優しい妻に似た娘は、ことあるごとにひとりになった僕を心配してくれていた。そんな娘が、何も言わずにいなくなるなんて信じられない。


「神先生、あの子は、幸せになるんですよね」


 妻は生前、生まれてくる娘は魂の伴侶に巡り逢うためにいつか旅立つ日が来る、と言っていた。娘の魂の半分を持つ者がこことは違う世界にいる、と神先生が言っていたらしい。


「惹かれ合う二つの魂は必ずひとつに寄り添うって君は言っていたけど、あの子は、運命の魂に出逢えたのかな? 」


 どうしてもっと娘と向き合わなかったのか、どうしてもっと父親らしいことをしてあげられなかったのか。僕の中の娘はいつだって寂しそうな笑顔で独りぼっちだ。後悔したって遅いのに、娘のことを考えると後悔しかない。

 もし再び娘に会うことがあったとして、僕は何と言って謝ればよいのか、わからなかった。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 黒いが華子を包み込み、リカルドの姿が見えなくなっていく。声も届いていないのか、フェランディエーレと対峙するリカルドは華子を振り返らない。


 リカルド様、ヴィクトルを連れて逃げて!

 その人はリカルド様とヴィクトルの力を使って何か企んでいるの!


 華子が必死にリカルドを呼び、ようやく振り返ったリカルドの虹色の瞳が華子を見つめる。逢いたくて逢いたくて魔力の限り飛ばした伝言が届いたのか、それとも警務隊から伝令が行ったのか、どちらにしても報せを受けて直ぐに助けに来てくれたのだ。

 泣きそうになりながら、華子はリカルドに手を伸ばす。なのに、伸ばした手は触れられず、抱き締めてきた腕の温もりは阻まれてしまった。

 やはり華子をつつむ繭は、身の安全を守るものではないと悟る。


 嫌よ、ここから連れて行かないで!

 私はここにいたいの、リカルド様の傍に居たいの!

 お願い、私を、消してしまわないで!!


 華子が発する虹色の光の繭にフェランディエーレが仕掛けた魔法術が忍び寄り、黒いが一気に華子を覆い尽くす。リカルドの悲痛な呼び声が聞こえたのを最後に、華子は背後に突然開いた穴にずるりと吸い込まれていった。


「リカルド様っ、リカルドさまぁーーっ!!」


 真っ暗な視界の中で前後左右すらわからずに落ちていく感覚は、華子がフロールシア王国に落ちて来た時と同じだった。背筋がゾクゾクとするような、お腹がキュッと引きつるような不快感に襲われた華子は、身体を丸め歯をくいしばって耐える。どこまでもどこまでも落ちていく感覚に絶望しかない華子は、胸元に下げたヴィクトルの鱗を握り締めてリカルドの元に帰りたいと強く願う。

 先程まで華子を包み込んでいたリカルドの魔力も感じらない。ヴィクトルの魔力すらも失ってしまった冷たい鱗が、華子にもう二度と再びあの世界へ、フロールシア王国へ、リカルドの元へと帰れないと言っているようだ。

 何故自分ばかりがこのような目に遭うのか、神とやらを呪いたくなる。あれほど強烈に輝いていた虹色の魔力がもうほとんど消えかかっている事態に、リカルドとの絆が断ち切られてしまった、と茫然とする。


 帰らせて、お願い……リカルド様の元に帰らせて!


 何度も何度も心の中で唱え、声に出しては願う華子がそうしてどれくらい落ち続いていたのか。未だに真っ暗な視界の中で、華子は誰かの低いしゃがれ声を聴いた。



「お前が何故ここにいるのだ、華子よ」



 はっとしてあたりを見回すと、いつのまにか華子は狭い部屋の中に立っていた。そこは暖かな色合いの木の部屋壁と、同じ色味の絨毯が敷いてある床の部屋で、木でできた小さな丸いテーブルと揺り椅子が揺れている。魔法術によるものと思われる丸い光球が部屋の中にいくつか浮かんでおり、華子と呼んだ声は、たった一つしかない窓辺に立っている老人が発したようだ。華子を知っているということは、ここはまだあの世界なのだろうか。


「貴方は、誰ですか? ここはどこなんですっ! 」


 一刻も早くリカルドの元へと戻りたい、という華子の願いと焦りと哀しみの所為で声が震える。老人にしてみれば部屋の中に不審者が突然現れたのだから、普通であればさぞかし驚くことだろう。しかし、老人ははっきりと華子の名を呼び、まるでこちらを知っているかのようだ。一方で、華子もこの老人に妙な懐かしさを感じ取った。特にこの声は、いつかどこかで聞いたことさえあるような気がする。老人を凝視すると、向こうから近寄ってきて、数歩前で立ち止まる。


「お前はエル・ムンドに呼ばれたのではないのか? あの子は、王子はどうした、何故一人なのだ」


 華子の方がそれを知りたいというのに、目の前の老人はしゃがれた声で矢継ぎ早に問い詰める。


「お前は魂の伴侶と出会ったのではないのか? まさか、あの王子に何かあったというのか? 早く戻りなさい、ここに居てはならない」


 興奮のためか、老人の声が段々と大きくなり、それに合わせたかのように浮かんでいた丸い光球が激しく点滅する。枯れ木のような手をした長い白髪に長い白髭の老人は、フロールシア王国の魔術師が着ているような深緑色のローブを羽織っていた。


「私はだって来たくて来たんじゃありませんっ! 貴方は私のことやリカ……私の魂の伴侶のことを何故知っているのですか? 貴方はフロールシア人なんですか? 貴方が私をここに連れて来たの? 」


 すると老人は嗚呼、と小さく呻き、よろよろと揺り椅子に近づくと深い溜め息と共に腰をおろしてしまった。節くれだった指で眉間を揉み、再び顔をあげて華子を見据える。


「なんの因果か、まさか再び私の元に戻って来るとは……長い話になる、座るといい」


 老人がついっと指を振ると、華子の横にクッションが敷かれた座り心地の良さそうな椅子が現れた。


「そう警戒しなくても何もしない。ああ、そうだ。お前も私の名前くらいは聞いたことがあるかもしれんな。私はバヤーシュ・ナートラヤルガ。異界の客人にしてフロールシア王国の顧問魔術師だ」


 もっとも魔術師としての席などとっくの昔になかろうよ、と自嘲気味に笑った老人に、華子は目を見開いた。フロールシア王国の発展に貢献し、華子も事あるごとに読んだ『この世界に来たすべての客人たちへ』という本を書いたバヤーシュ・ナートラヤルガ。フェランディエーレが語った、悲劇の元凶にしてその『秘儀』を得んと華子を誘拐することになった一因。その人が目の前にいることが信じられない。


「だって、貴方はもうずっと前にいなくなってしまったと……」


 華子は緊張の糸が切れたかのように、嗚咽を漏らして泣き出した。後から後から流れ伝う涙を優しく拭ってくれた、大切な存在はもういない。優しく抱きしめてあやしてくれるリカルドには、もう逢えない。

 立ち尽くしたまま、泣きじゃくる華子の前に一切れの布がひらひらと飛んでくると、華子はそれを掴んで止まらない嗚咽を必死に堪えた。そう、ここにはリカルドはいないが、バヤーシュ・ナートラヤルガという魔術師がいた。


「もうどれくらい経つのか覚えておらんが、私はかつてフロールシア王国で世界の真理の研究をしておったよ。お前の魂を庇護し、しばらくの間共にいたこともあるのだが、まぁ覚えてはおるまい……座りなさい、お前にはすべてを話さなければならない」


 泣き止んだ頃を見計らい話し始めたナートラヤルガの灰色の瞳が華子を捉えると、華子は色々と言いたいことをグッと堪えて椅子に手をかける。思うように四肢に力が入らず、背もたれに寄りかかるようにして座り込んだ華子は、ナートラヤルガが話し出すのをじっとして待った。


「まずは謝罪をせねばならんな……華子よ、リカルドの魂の伴侶よ、お前たち一家を哀しみの底に突き落とした張本人が私なのだ…………すまなかった、すまいことをしてしまった」



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