第86話 運命が二人を分かつとき

 リカルドの目には、遥か遠くで虹色に輝く華子の魔力がはっきりと見えていた。


 リカルド様、リカルド様、リカルド様!!


 怯えた声で必死に呼ぶ華子に、リカルドは奥歯をギリリと噛み締める。高高度から超高速で王都近郊の野っ原に向かって降りている途中、フェルナンドの緊急伝令を拾ったリカルドは、ヴィクトルの手綱を引いて速度を落とし、華子が囚われているという王都郊外の高級住宅街へと転身した。

 そこで見つけたのが虹色の光と、今にも心が張り裂けてしまいそうな華子の悲痛な呼び声だった。縋るようにリカルドの名を呼び続ける華子の声に、リカルドの瞳が益々激しく虹色に輝く。霞みがかったように見え隠れする光がある方向には、ぼんやりとしか認識できない建物がある。

 王都では着陸する際の高速での低空飛行は許されておらず、ゆっくりとしか飛べないことがもどかしい。リカルドは華子に届けとばかりに己の瞳に自分の魔力をのせる。


「ちっ、巫山戯ふざけたことを! 」


 穏やかな顔や雰囲気は一切削げ落ち、残るのは殺伐とした『冥界の使者』と渾名された一人の竜騎士のみ。その昔、ヴェルトラント皇国天涯騎士団から教わった遠見の魔法術を駆使して目を凝らすと、その建物の周りでは警務隊士たちと貴族の私兵、それに茶色の人形のような怪物が入り乱れて戦っていた時々派手に上がる氷の柱や細く伸び上がる竜巻はフェルナンドとレオカシオの魔法術だろうか。窓辺には誰かに剣を突きつけている者も見え、リカルドは最初それが華子かとひやりとする。よくよく見ると華子ではなかったものの、誰かが人質を取って警務隊を牽制しているようだ。

 市街地に入り、リカルドが建物にさらに近づくと、外壁をよじ登って屋根に上がった一人の警務隊士見えた。その手に持っていた何かを投げて強烈な光を放ち、敵が怯んだ隙に縄を伝って降下していく。窓を蹴破ってスルリと部屋の中に入るというかなり手慣れた一連の動きに驚いたリカルドだったが、その警務隊士はその後も二、三個同じような玉を投げて相手の視覚を無力化させたのだろう。あっという間に人質を取っている男の背後に近づき、その首に腕を回して何かやったのか、男がリカルドの視界から消えた。


 人質は助かったか……ならば、後は華子のみ!


 やっとの思いでたどり着いた建物には結界が張られているらしく、竜騎士たちはなす術もなく地上に降りることすらできないでいた。


「団長! 」

「お前たち退がれ! 」


 安堵の表情が見える竜騎士たちにただ一言。そう命令しただけで、結界を破ろうとドラゴンを操っていた竜騎士たちはリカルドのために空間を開ける。

 見据えるのは、華子と華子に詰め寄る男の姿 ––––


『我、その力を誠のために使わん。我が血を巡りしほむらえにしよ、我のために燃え盛り、闇をも滅す、火焔の鉄槌となれ! 』


 リカルドが背中に十字に背負った槍を一本、右手に構えて魔法術を構築し、赤々と燃え上がる炎が槍を覆うとジリジリとした熱波が辺りに広がっていく。しかしリカルドはその灼熱をも物ともせず、ある一点に狙いを定めて構えた槍を頭上に掲げた。リカルドの真下で、華子は必死にリカルドを呼び続けている。


『リカルド様っ、私はここです、ここにいます!! ああ、でも、来ては駄目、ヴィクトルが狙われているの……リカルド様、リカルド様、私、どうしたら –––– 』


 グルウォォォーーーーォォォオオオンッ


 ヴィクトルの魔力が込められた咆哮が槍と重なり、火焔の鉄槌が、さらに激しく燃え盛る。


 華子に、指一本たりとも、触れさせはしないっ!!


「華子、華子ぉぉぉっ!! 」


 建物の空中庭園らしき一画から発せられるアルマの波動は華子もので、リカルドにとっては心地よい、命の源のような魔力だ。

 リカルドが守るべき、いや、命に代えても守り抜きたい大切な人。

 リカルドの瞳が同じ虹色を、その中で震える華子をとらえる。


「お前たち、構えろ!! 」


 リカルドが魔力を込めた命令を出すと、地上で戦っていた警務隊士やリカルドの背後で待機していた竜騎士たちが一斉に防御の姿勢をとった。そして、間髪いれずに全力で槍を振り下ろす。


 バチバチバチバチッーーバリバリッ、ドオオオォォォーーーーォォンッ!!


 容赦のない火焔の一撃が落とされ、結界が悲鳴を上げて弾け飛んだ。結界を張っていた魔法術師もろとも吹き飛ばしてしまったらしい。地上の庭園に無残な姿で落ちた魔法術師が身動き一つしないことを確認する。さらには先ほどまでの苦労が嘘のように、リカルドとともに舞い降りた竜騎士たちが戦意を喪失した私兵たちを次々と捕縛していった。警務隊士たちを苦戦させていた土塊人形は全て崩れ落ち、ヴィクトルが羽ばたく度に生まれる風が空中庭園に吹き荒れるも、リカルドは御構い無しだ。

 華子は虹色の繭のようなものに包まれ、どうやら無事のようである。視線が交わると、華子がくしゃりと顔を歪めて今にも泣き出しそうになるのを必死で堪えていた。今すぐにでも華子をこの腕に抱きたい、無事を確認したいとの気持ちをぐっと堪える。


「……宰相よ、これは、どういうことだ? 」


 華子と対峙していた男は宰相のフェランディエーレで、どう見ても華子を助けに来たようには見えない。リカルドは怒りを抑えきれずに、背中に背負ったもう一本の槍を手に取って構えながらもう一度問うた。


「シルベストレ・ラミロ・フェランディエーレ、貴様は、私の魂の伴侶に、何をした? 」


 抑揚のない問いかけが、リカルドの静かな怒りを表していた。


「これは第九王子殿下、お早いお着きですな」


 どこか人を食ったように芝居掛かったフェランディエーレの言葉にリカルドが片眉を上げる。挑発に乗っては負けだというのに、一々気に障る男だ、とリカルドは歯噛みした。


「フェランディエーレよ、今回ばかりは逃れようはないぞ?」

「逃れる? 私は逃げも隠れもせぬ……私が用があるのは殿下、貴方と –––– 」


 フェランディエーレが顎をあげ、埃で曇った眼鏡をくいっと上げる。


「 –––– そのドラゴンなのだからな」

「ヴィクトル? 」

「我が妹はその秘儀を知らぬと言った。ならばその片割れたる殿下に聞こう。五十二年前、私の父と母と生まれるはずだった妹を巻き込み、異界へと旅立ったあの狂人魔法術師が残した秘儀を、殿下ならばお知りなはずだ」


 狂人とはどちらだ、と罵りたくなるくらいに会話が通じそうにないフェランディエーレの姿に、リカルドは眉をひそめる。ヴィクトルを華子の前に降ろしてフェランディエーレの視界から隠すと、リカルドは槍を構えたまま庭園に降り立つ。


「貴様が何を言っているかわからんな。だがこれだけははっきりしている……私の魂の伴侶たる華子を誘拐し、苦痛を与えた罪、貴様が思うほど軽くはないぞ? 」


 そのまま素早く間合いを詰めて踏み込むとともに、フェランディエーレの喉元に槍の鋒を突きつける。その首を跳ね飛ばしてやろうと考えたが、華子が見ている前ですることでもない。


「殿下もお知りにならないので? そんなはずはないっ、貴方はナートラヤルガの弟子だったはずだ! それが証拠にそのドラゴンに、厄災デサストレの魂を分けて封印したではないかっ!! 」


 槍を突きつけられても動じることもなく、口角に泡を飛ばして喚くフェランディエーレは、槍の鋒を邪魔だと言わんばかりに素手でむんずと掴み、押しのけた。自分の指が切れようとも構わないらしい。みるみるうちに血に染まる鋒から、ポタリポタリと赤い雫が落ち、血溜まりを作っていく。


「血迷ったかフェランディエーレ。デサストレを分けたのはではない、狂人のふりをしてもその重き罪は変わらんぞ」

「そんなはずはないだろう。妹の魂を盾に使い、強制的に魂を結び付けられ、再び別れさせられた私の父と母……あのときは失敗したが、デサストレは成功したではないかっ! 」

「貴様の両親? 妹? 何だ、何を言っている? 」


 リカルドにはフェランディエーレが言っている意味が本当に分からなかった。 妹とは一体誰のことを言っているのか、まさか他界したリカルドの妹姫のことではあるまい。さらに言えば、デサストレを疲弊させたのがリカルドで、封印を施したのはリカルドではなく魔法術師たちだ。デサストレの中の氷の魔力と焔の魔力を、魔術師たちが造った封印の魔法術式を施したヴィクトルと、オルトナ共和国の国宝である聖杯にそれぞれ封印した結果、デサストレの身体は己の強大な魔力に引き裂かれて霧散した。戦争中は宰相という地位にいなかったフェランディエーレも、議会院には所属していたはずなのでデサストレ封印の真相を知っているはずなのだが。


『リカル……様、ヴィク……を連れて……から……て!』


 そのとき、ヴィクトルの背後からくぐもったような華子の声が聞こえ、リカルドは反射的に振り返る。


「華子! その声はどうした? 」


 リカルドの視線を受け、ヴィクトルが華子を庇うように囲っていた太い尾を持ち上げると、虹色の繭に包まれた華子がリカルドに向かって必死に何かを告げていた。


『……カル、ド……駄目で…………いけませ……』

「華子? 貴様フェランディエーレっ、華子に何をした?! 」

「ふふふ、ふははっ、ははははははははっ、そうか知らぬか! 貴方の師の失態を、その悲劇を知らぬのかっ?! 」


 フェランディエーレの血走った目がリカルドとヴィクトルの間を彷徨い、槍を掴んで傷ついた手で口元を覆うと何やらブツブツと不気味に呟き始める。リカルドは突き付けていた槍を下げ、部下にフェランディエーレの捕縛を命令すると、華子の傍に駆け寄った。フェランディエーレの言うことに引っ掛かりを覚えなくもないが、何か変な魔法術をかけられているのであれば華子を救出する方が先決される。


「華子! 」

『リカ、ド、さま』


 リカルドが華子を抱きしめようと虹色の繭に手を触れるも、やんわりとしたに阻まれて直接触れることがかなわない。虹色の魔力はリカルドのことを拒絶しないが、問題は繭のような糸状の魔力だ。これが邪魔をしてリカルドと華子を隔てているようだが……。最初、華子が黒い服を着ているとばかり思っていたリカルドは、華子の胸のあたりまで覆っている黒いもやに驚愕した。


「これは何だ……華子、よく聞こえないんだ、どうすれば……」


 焦るリカルドは魔術師を呼べと命令しようとして、ふと華子の胸元が小さく橙色に光っていることに気が付く。それはリカルドが遠征に出立する前に華子に渡したヴィクトルの鱗だった。


「そうだ、華子……しばし待たれよ」


 ゆっくりと優しく、華子を包む虹色の繭ごとリカルドの魔力で覆っていく。鱗を通してなら会話ができるかもしれない。


『リカルド様! 今すぐにヴィクトルを連れてここから離れてください!! 』


 最初に聞こえたのは華子の叫びだった。


「華子?! どうしたのだ、何があった? 」


 会話ができるようになったとたんに華子の顔が安堵に包まれるが、すぐに気を取り直してリカルドに訴え始める。


『あの人はリカルド様とヴィクトルを利用して何か恐ろしいことを企んでいます! 私もよくはわからないのですが、アルマの魂と、ヴィクトルの封印された力とで、バヤーシュ・ナートラヤルガの秘術を使おうとしているみたいなんです!! 』

「秘術? 何だと?! 」


 華子を抱きしめてやりたい、安心させてやりたいというのに、お互いに触れられないもどかしさで苛立っていたリカルドは、華子の説明に背筋が凍り付いた。


「まさか、この繭は…………この、黒いもやは……」


 リカルドも当然知っていた、そしてやっと思い至った。華子の今の状態が、旅立つ者の状態であることに。まるで心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われた。


「そんな……華子? どうして、そんな」

「もう遅いっ! 私の妹の魂が旅立つときがきたのだ! さあ、早く、早く私を連れて行けっ!! 」

『知らな……リカ…………た、けて』


 竜騎士に捕らえられたフェランディエーレが泡立った唾を飛ばしながら、まるで呪いのように吠える。


「私を連れて行くのだ! 父の元に! さあ飛べっ、憎き仇、狂った魔術師の所へ! 魔力が足りないというのならば、そのドラゴンを贄に、異界への門を開けっ!! 」


 フェランディエーレが垂らした右手の血が禍々しくも赤黒く輝き、空中庭園の石畳に不気味な魔法陣が広がった。驚いた竜騎士や、捕らえられていた私兵が一斉に膝まづき、息を荒げてくず折れる。リカルドも何かが抜けていくような気味の悪い感覚に襲われ、力の入らない身体を必死で支えた。苦しそうな鳴き声を上げるヴィクトルは首を地に着け、その四枚羽が力なくたたまれている。


「華子っ、華子、手を!! 」

『リ……ド…………リカル……』


 華子の繭は益々濃くなり、黒いもやが一気に顔まで覆っていった。いつの間にか這うようにして近づいてきていたフェランディエーレが、その様子を恍惚とした顔で見つめている。


「華子っ、くそっ、駄目だ、行くなっ!! 」

『…………』


 リカルドは必死に華子に呼びかけ、華子もそれに答えようと黒いもやで覆われた手を伸ばす。


「華子、ハナっ!! 私を置いて行かないでくれ、頼む、やめてくれっ!! 」


 繭の中の華子の姿はもう見えない。


「やめろおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!! 」


 リカルドの渾身の一閃がフェランディエーレに届いたのが先か。





「はな…………こ…………」





 虹色の繭がリカルドの目の前から唐突に消えた。今までそこに、確かに居たはずの華子の姿が、ない。いなくなってしまったのは、華子だけだ。リカルドも、ヴィクトルも、竜騎士たちも、私兵も、そして、フェランディエーレも、全員ここに居るというのに。


「何故だ、どうして、どうしてっ、何故私を連れては行かぬのだ、あのときも、今も、何故、何故、何故?! 」


 フェランディエーレは右手を失い、鮮血を撒き散らしながら、先ほどまで華子が居た場所に這い蹲り、狂ったようにその痕跡を探している。だが、リカルドにはそんなことはどうでもよかった。


 華子が居ないのだ。


 どんなに離れようと、どこかで感じていた、小さな魔力が。


 リカルドを愛しいと見つめる、その眼差しが。


 朗らかに笑う、その笑顔が。


 大好きだと言って抱き締めてくれた、その温もりが。


 華子を彩る何もかもが。



 一瞬にして、リカルドの前から消え去ってしまった。

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