第79話 囚われの華子 ①
薄っすらと意識を浮上させた華子は、
–––––– よくやった、と言いたいところだが、片方が余計だな。
–––––– 捨て置けば足が付きます。使えなくても
–––––– それはそうだが、あまり幻薬を使い過ぎるなよ。
–––––– もちろんです。さぁ早いとこ運びましょう。グズグズしていると六ツ脚どもがここを嗅ぎつけます。
高値で売れるってなんだろう、とぼんやりとした頭で考えるも、何かを思い出そうとした華子は漂う甘い香りに気を取られて再び微睡みに沈んでいく。
ここ最近、疲れていたからかなぁ。
何で疲れているのかよくわからないけれど久しぶりに惰眠をむさぼっているような、ふわふわとしたいい気分にどうでも良くなる。どうにも気持ちよくて睡魔に身を委ねることにした華子は、何か大事なことを忘れているような気がしたものの、深く考えずにもう一度意識を手放した。
「ここ、どこなの」
次に華子が目を覚ましたのは、どこかの倉庫のような場所だった。荒縄や木箱が雑多に積み上げられていて、床板が剥き出しの狭い部屋た。何故か華子はその床に横たわっているのだ。思考がはっきりとせず、前後の記憶もあやふやな華子は、起き上がろうとしてその腕に力が入らずに崩折れてしまった。まるで身体を誰かに操られているような、拘束されているような変な感覚に、顔を上げるだけが精一杯である。
「あたま……痛い」
二日酔いのように頭がガンガンと痛むので、一瞬お酒を飲み過ぎて変なところに迷い込んだのかと考えた。昨日の夜もその前も、そもそもここ最近は泥酔するまで飲んだことがないのでよくわからない。しかも、リカルドが遠征訓練に出発してからはお酒を一滴も飲んでいなかった。と、そこで一気に意識が覚醒した。
そうだ、リカルド様!
意識がはっきりとしてくると、とんでもない状況に華子は嫌な予感を覚えて身を震わせる。リカルドは遠征訓練中で、華子は自分の部屋で一人寂しく留守番をしていたはずなのだ。ここは明らかに自分の部屋ではない、どこか知らない場所だった。
「だれか」
掠れたようなか細い声では当然返事などない。しかし、どこかから小さな足音や話し声がしていることから人がいるのだろう。小刻みに下から突き上げるような揺れがして、ガタガタという音が鳴り始めると、華子はこの物置のような部屋が荷馬車の中でであることに気がついた。声を出さないようにしてもう一度目線を上げ、パニックになりそうな心を叱咤する。
大丈夫、落ち着きなさい華子……まずは状況を把握するのよ。
渾身の力を入れて頭を起こし、うつ伏せから横向きに体位を変えてまず見える範囲で自分の身体を確認する。身体に痛むところはなく、着衣の乱れもない。しかし、いつも腰に下げている伝言用の
シエロがないと連絡が取れないのに……どうすれば。
せっかく覚醒したというのに、鼻先にたゆたう甘い香りに意識をもっていかれそうになり、自分の不調はこの香りの所為だと直感する。身の危険を感じているというのに、気を抜くとそんなことはどうでもよく思え、この香りをいつまで嗅いでいたくなるような気分になるからだ。
明かり取りの小窓から溢れる光が薄く、部屋の中がはっきりとは見えないことから夜なのだろうか。ふと、自然光とは別の明かりを感じて胸元を見ると、赤く柔らかな光が漏れていた。リカルドが遠征に出立するの際に華子の手元に残されたヴィクトルの鱗が仄かに赤く光っている。震える手をゆっくりと動かして胸元をぎゅっと握り締めると、ポカポカとした暖かい魔力が華子の全身を包み込んでいくのがはっきりとわかった。
「リカルド様……リカルド様! 」
それは華子を優しく抱きしめてくれるリカルドの魔力そのもので、閉じた目から涙が溢れ出してきた。これを貰った日のように、リカルドと繋がっているという感覚もないし、声が届くわけでもない。しかし白い妖精猫も失ってしまった今の華子にとっては、リカルドと唯一繋がっていると感じられる大切なものだ。
鱗に込められた魔力のお陰なのか、段々と身体の気怠さが抜けていき意識がはっきりとしてきた華子は、自分の置かれた状況がわかってくるにつれて動悸が激しくなる。
私、誘拐された?
しつこい記者から逃れるためとはいえ、ブランディールに半ば押し切られるようにしてギリアムと名乗った青年が滞在する借り上げの屋敷に避難したところまでははっきりと覚えている。豪華な部屋に案内され、質の良い柔らかなソファに座って香り高いお茶を飲んでいるところから記憶が曖昧だ。
自分の身に一体何が起きたのかよくわからない。もしかしたら疲れて眠ってしまっている間に、何者かが屋敷に押し入り拉致されたのだろうか。ブランディールとギリアムは無事なのだろうか。それとも、再びどこか違う世界に迷い込んだのだろうか。
華子はあらゆる可能性を考え、そしてゾッとした。
この香り、あの部屋でも匂っていた。
狭い荷馬車の中に充満する甘い香りが急に鼻につく匂いに変わる。異国情緒溢れる甘いお
私、騙されたの?
ブランディールもグルなのだろうか。ほぼ没交渉で、今の今まで華子のことを嫌っていると思っていたブランディールが、親切にも華子を助けること自体がおかしかったのか。思い返しても、どこが不審なのか全くと言っていいほどわからなかった。
しかし少なくとも、良からぬお香を炊いたギリアムが、華子をどうにかしようとしていることだけは確かだ。華子がよく動かせない脚を伸ばしたところ、たまたま積荷に当たり、大きな音を立てて箱が転がり落ちる。しまったと思っていると、荷馬車が急に止まってガタンという
「おいっ、女が目を覚ましているぞ! 」
「なんだと? チッ……
「あまり使い過ぎるなと言っても異世界人の適量なんてわかんねぇよな」
息を詰める華子の目の前でいきなり扉が開き、二人か三人か、聞き覚えのない声がして口々に不穏なことを言い出した。逆光で顔がよく見えないがギリアムではない。何をされるかわからないので声すら出せず、ただ男があのお香に火を灯して床に固定する様を見るしかない。
何も言わずにいる華子に、相手は起きてはいるものの動くことも喋ることもできないと思ったのか、お腹のあたりを軽く押し蹴ってきた。鈍い痛みに顔を歪ませながらも目を開けると、もう一人の男が漂い始めた甘い香りにくせえっ、と悪態をついて鼻をつまむような仕草をする。
「もう四半刻くらいしたら流石に効いてるだろ……おい、長居はするなよ。お前まで使い物にならなくなるぞ」
「へへへっ、俺は少しは耐性がついつるんだ。仕事じゃなかったらしけ込むのによ、残念だぜ」
「さっさと閉めろ馬鹿野郎」
「へいへい。じゃあなお嬢さん、しばらくおネンネしてろよ」
「そっちの女はどうだ? 」
「こっちは飲んでるから蹴り飛ばしても起きやしないさ」
「客人二人も手にするなんてアイツも運がいいよな」
そんなことを話し、最後には笑いながら再び扉を閉めた男たちの足音が遠ざかる。男たちの話からすると、やはりこの甘いお香は意識を混濁させるような効能があるようだ。
華子は息を止めてよろめきながら立ち上がり、明かり取りの小窓にハマっているガラスを叩く。幸いにもはめ殺しにはなっていなかったのでそのまま窓を押し開けると、お香から立ち昇ったと思われる煙が小窓から外に流れ出ていった。後は身を横たえてなるべく煙を吸い込まないように呼吸を浅くする。
先ほど男に蹴られたお腹が地味に痛い。治癒術など使えるはずもないので、痛む箇所をさすりながらこれからのことを考えてみるも、到底逃げ出せる状況ではないことくらい直ぐに理解できた。
映画でもよくあるじゃない、ここがどこかもわからないのに、逃げたってまた捕まるだけよ。
決して映画ではないのだが、変に動いて殺されたくはない。
そう、殺されるかもしれないという恐怖が華子にまとわりついてくる。大した魔力もないただの華子では、使えないと判断されれば犯されて殺されるのがおちである。それをしないということは、華子に利用価値があると思っているか、華子の能力を知らないか、どちらかであろう。
客人ということはバレているので、身代金を要求するとしたらどこにするのだろうか。華子がフロールシア王国第九王子の客人だとバレていなければいいが、男たちの会話の内容からはどちらとも判断がつかなかった。
さらに客人二人、とも言っていたことが気にかかる。荷馬車に偽装されているのか本当に荷馬車なのかはわからないが、内部は積み上がった木箱で仕切りをされているようにも思える。華子が閉じ込められているこの荷馬車に、ブランディールも一緒に乗せられているのかもしれない。
華子は声をかけてみようとして、やめた。
ブランディールはギリアムの屋敷に連れて行った張本人であり、ギリアムや男たちの仲間ではないのか、という疑念が沸いてくる。客人はブランディール他にもたくさんいるので、華子の知らない客人がどこかで捕まり、同じように囚われていることも考えられた。
あれだけ、客人は異世界の知識を持っているので狙われやすい、と散々聞かされていたというのに、まんまと捕まってしまったことに、歯痒さを覚える。
正直、リカルドが心配症なだけだと思っていた。醜聞記者に見つかってしまっても、リカルドが帰ってくるまで躱せたら後は何とかなる、とさえ思っていた。華子は何も知らない、何もできないと思っていても、相手がそう思ってくれるかは別問題だと、あのときどうして分かろうか。
ここはエル・ムンドにあるフロールシア王国で、日本の常識など、何の役にも立たない。
リカルド様、ご迷惑をかけてしまってごめんなさい……でも、私は絶対に諦めません。
とうの昔にパニックになっていてもおかしくはない状況で、こうも冷静になれるのはリカルドがくれた鱗のお陰かもしれない。華子が触れるとまるで元気付けるかのように仄かに光る不思議なヴィクトルの鱗。遠く離れたリカルドの存在を傍に感じながら、華子は小さな魔法術を使ってタンポポの綿毛のような伝言を作る。
今の自分に出来ることをしなくちゃ。
華子は魔力が少なく、伝言の魔法術もこの綿毛くらいにしかならない。頼りなく、届く前に直ぐに消えてしまうかもしれない伝言でもないよりはマシだ、と細切れにメッセージを込めながら休みなく作っては飛ばす。
ふわふわとお香の煙に混じるそれは、淡い虹色に色付き、華子の状況を伝えるために明かり取りの小窓から外へと飛んでいく。
四半刻もすればあの男たちが戻ってくるだろう。足音が聞こえてくるまでに何個飛ばせるかわからないけれど、どれか一つでも華子を知る誰かに届いて欲しい。
世話役のチャンユラ夫妻に、警務隊士のハリソンに、侍女のイネスに、ドロテアに、ラウラに、フリーデに、学士連のブエノに、ガライに、オノーレに、警護騎士のイェルダに。竜騎士団の留守を預かるフェルナンドに、そして、華子が一番逢いたくてたまらない、リカルドに……。
一見すればただの綿毛が風に飛ばされているようにしか見えない小さな小さな華子の伝言は、夜の空を風に乗っているかのようにふわふわと飛ばされていった。
足音が近づいて来たので華子が気を失ったふりをしていると、荷馬車の扉が開いて男が入ってきた。本当にお香が効いているか蹴って確かめられた後、荷馬車はどこかに移動し始める。今度ははっきりと意識があったため、臀部を蹴られたときには衝撃で息が詰まって声が出そうになった華子は、唇をギリリと噛んで我慢した。幸い臀部だったのでよかったが、多分青あざができることだろう。
蹴り転がされたことにより荷馬車の隅にある隙間を見つけた華子は、今度はそこから必死にタンポポの綿毛の伝言を飛ばし続ける。思いつく限りの知り合いに、助けてくれそうな人に、リカルドに向けて飛ばされた伝言がきっと届くと信じながら。
石畳の音の上を行く小さな音からまだ街から出ていないと思われるも、その前にどれくらいの時間意識がなかったのか想像もつかない。
やがて再び荷馬車が止まったときにはお香の火も消えており、飛ばした伝言の数は百を超えていた。
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