第75話 華子と記者

「害悪の書物、か。フリーデさんの言うことって本当なのかなぁ」


 華子はフリーデに言われたことを反芻しながら、赤い革表紙の本をぱらぱらとめくる。異界の客人まろうどにとってのバイブルとも言える『この世界に来たすべての客人たちへ』は、客人が不安に思うことや客人としての心構えが書いてあり、大体の疑問はこの本によって解消されるように書かれている。それは、本の著者であるバヤーシュ・ナートラヤルガ自身も客人であり、魔科学の研究者であった彼が、客人として感じた疑問を研究した成果をまとめたものでもあった。

 リカルドからこの本を渡されてから、華子は事あるごとに読んできた。言葉、魔力、生活、生殖行為にまで言及されており、幾人かの客人の人生を例に挙げながら、謙虚にあれと説かれている。大いなる力を持ってこの世界に降り立ったある客人は、その力で人々を救い、ある客人は身を滅ぼし。持ち得る知識と技術は、良きもののみをこの世界に根付かせるように、とあるこの本のどこが害悪なのだろうか。


 リカルド様が帰って来たら、聞いてみよう。


 リカルドが子供の頃まで実在していたというナートラヤルガのことを、華子は今までほとんど何も知らなかった。学士連で働き始めてからも特に気にしたこともなく、フリーデに言われて始めて、そういえばこの学士連に所属していて研究していたと聞いていたことを思い出したのだ。新しい生活に慣れることに精一杯で、そこにまで意識が回らなかったとも言える。リカルドの兄の第四王子フェリクスも、お茶会のときにナートラヤルガの話を嬉々として話してくれたので、そちらを通じて話を聞くのもいいかもしれない。そう考えた華子はしかし、フリーデの注告を思い出して困惑した。


『貴女の持ち得る知識は、この世界にとってまさに神の叡智に等しいものだと言うことを今一度自覚なさいませ。ここにも、貴女をいいように使おうと考えている者もおりましょう。頼るべき者を見極め、貴女を利用しようする者には近寄らないように 』


 監視されているからと、耳元で囁かれた言葉は思いのほか衝撃的な内容だった。

 一体、華子の知らないところで何が起きているのだろう。今朝方も総務庁の事務官から近況を聞きたいという伝言を受け取ったばかりだ。今は学会の前で忙しいので学会が終わったら、と返信したものの、こうなれば全てが疑わしくなってくる。親切にしてくれている人たちを疑いの目で見たくはない華子は、フリーデが本当に伝えたかったことは何なのだろう、と頭を悩ませていた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 リカルドが遠征に出立してから八日目。


 華子は集合住宅からほど近くの食堂で、客が語るラファーガ竜騎士団の話を興味津々で聞いていた。と言っても話に加わるわけにはいかないので、もっぱら客同士が話す内容を一言も漏らすまいと耳を澄ませているだけだ。漏れ聞こえる「団長」「殿下」リカルド」の名前にどうしても反応してしまい食事が疎かになってしまう。


「我らが竜騎士団長様にアルマが現れたってのは本当なのかね」

「ヴィクトルで迎えに行かれた姿が目撃されてんだから本当だろ。なんでも異界の客人まろうどだって話だしよ」

「醜聞紙じゃあ、ご成婚も間近だってよ。いやぁ、まさか今んなって見つかるとは、驚きだよな」

「リカルド殿下のアルマ様かぁ……やっぱりお年を召しておられるのかねぇ」

「産まれたばかりだって話もあるし、そうなりゃ祖父と孫だぜ? 」

「ばっか、失礼なこと言うんじゃねーよ! 正式発表はまだあってないんだからよ」

「俺の知り合いが城に出入りする業者なんだけどよ、遠征が終わったらお披露目って聞いてるぜ? 」

「そりゃ本当か?! だったらめでたいな! 」


 サルーーーーーーッ!!


 ワイワイと盛り上がっていた一団が一斉に乾杯の音頭をとると、周りの陽気な客たちがはやしたてる。彼らの話の渦中の人物たる華子は、顔が見えないようにそっと横髪をおろすと、味がしなくなったスープをひたすら口に運んだ。


 やっぱり大人しく部屋に戻るんだったわ!


 家でひとり食事をするのが味気なくて、思い切って一人で店に入ると、意外なことに華子のようなお一人様の女性の姿がちらほらと見えた。竜騎士団のマグダレナから行っても大丈夫な店だ、と聞いていたこともあり安心した華子が席に着くと、丁度背後のテーブルの団体がラファーガ竜騎士団の話をしていたのだ。

 男女問わず人気がある南地方の副団長シモン、女性に人気なテオドル、ロッシオ、マグダレナ。暴れん坊なドラゴンが竜舎を壊したから遠征中に修理しなければならないことや、そのドラゴンが来春のドラゴンレースの一番人気なこと。竜騎士に憧れる息子に稼業を継いで欲しい親心。

 最初はまだ聞いたことのない竜騎士団の内情を楽しんで聞いていた華子も、話の内容が段々とリカルドの話題になり、さらにはコンパネーロ・デル・アルマの話にまで飛躍してからは、正体がバレやしないかと心配になってきた。特別に隠してはいないと言ってもまだ公式発表はされていないので、関係者以外に顔が割れていないのが幸いである。華子の顔はフロールシア王国においては少々珍しい部類の平面顔で、それだけでも目を引くため公式発表されたら間違いなくすぐに特定されてしまうだろう。今でさえ見る人が見れば異界の客人まろうどと勘付かれるかもしれず、早く立ち去った方がいいと判断した華子は、もっちりとしたパンを口に詰め込むと残りのスープを一気に流し込んだ。


「おばさん、支払いをお願い」

「あいよ! あんた、ここいらでは見ない顔だねぇ」

「ひ、引っ越してきたばかりなんです」

「へぇ、そうかい」

「美味しかったです、ありがとうございました」

「どうも、これからもご贔屓に! 」


 客の喧騒に負けじと声を張り上げる店の女将にヒヤヒヤとしていた華子は、愛想笑いを浮かべながらジリジリと後退る。何人かが女将の声に顔を向けたところで、一人の男が華子に反応した。奥のテーブルから他の客を掻き分けてあっという間に華子の前にやって来ると、人懐こそうな柔和な表情で矢継ぎ早に話しかけてくる。


「 やあ、君。ここいらじゃ珍しい顔立ちだね。どこから来たの? もしかして客人じゃないかい? 」

「い、いえ」

「やあやあ、本当に客人? いつこっちに来たの? はははっ、そんなに警戒しないで、僕は怪しいもんじゃないよ」


 こういう者で、と言いながら懐から出してきた小さな紙には、ガルシア出版社・記者ホセ・ナバーロと書いてある。


 今ここで、記者にあれこれ聞かれるのはまずい。


 華子はどうにかして誤魔化さないと、と色々考えるも相手は記者。華子の僅かな動揺に気がついたようで、いい獲物を見つけたとばかりに食いついてきた。


「もしよければ少しだけ話を聞かせて欲しいなぁ……客人の話、人気があるんだよね。あ、いやね、何もただで聞こうってわけじゃないよ。きちんとお礼もするし、なんなら会社の方に来てもらってもいい」


 ガルシア出版社は大きな会社なので華子でも知っている。一時期はタイピングの技術を活かして出版社関係の仕事も探していたので、あのことがなければ仕事を斡旋してもらっていたかもしれない会社なのだ。だが今は、リカルドの魂の伴侶という身分があるので、華子が一番避けなければならない職種の人だった。


「違います。急いでますので、ごめんなさい、失礼します」

「あ、ちょっと! 待って」

「あっ!! 」


 踵を返した華子は記者に右手を掴まれ、振り払おうとしたところ、右手甲に何故か客人証明書となる紋章が浮かんでいた。はっとして記者を見ると、意地悪そうにニヤッと笑った記者と目が合った。


「当たり! 記者の勘ってやつ。隠すことないじゃない、別に悪いことじゃないんだから」

「やめてくださいっ、手を離して」


 勝手に魔法術で確認するなど、失礼にも程がある。なんとか手を振り払った華子は、ヘラヘラと悪びれない記者をキッと睨んだ。それから出口を確認すると、これ以上は何も話すこともないので記者を無視することにした。


「ねぇ、待って! 話をするだけだから」

「お客さん、シータのお誘いは支払いを済ませてからだよ!」


 華子を追いかけようとした記者が女将から引き止められたことを幸いに、立ち去る方が得策と考えた華子は、記者と女将の間をすり抜けて小走りに店を出た。あの記者が店を出る前に視界から姿を消さなければならない、と華子は通りを駆け抜ける。


 本当に、何してるんだろう。


 気を抜いているわけではなかったと思っていた華子は、自分の軽率さにほぞを噛む。リカルドが遠征に行ったことで心細くなり、自分が不安定になりつつあることに気がついていただけに、今夜の失態はいただけない。リカルドのコンパネーロ・デル・アルマの話や、客人の話を聞いた時点で席を立つべきだったのだ。あれほど一人では行動するなと言われていたのに、と落ち込むも後の祭りである。学士連のガライ室長や、わざわざ訪ねて来たフリーデからも散々言い含められていたはずだと言うのに、日本での習慣が中々抜けない。


 もう一度気を引き締めないとリカルド様に呆れられちゃう。


 それだけは絶対に嫌なので、集合住宅までの帰り道を一気に駆け抜けた華子は、もう少し慎重にならなければと自分に言い聞かせる。

 フリーデが華子を心配していたのはこういうことだったのだ。毎日が新鮮で楽しくて、どこかふわふわと浮ついた華子が、こういった予期せぬことに巻き込まれることを見通していたのだろう。ナートラヤルガを悪くいうのも、華子を余計なトラブルに首を突っ込まないようにということなのだ。ナートラヤルガは客人研究の一任者で、彼の研究を受け継いだ者も少なくはなく、迂闊にもすぐに人を信用してしまう華子が、研究材料にされないように。

 客人であることは、思いのほか華子のフロールシアでの生活の重荷になるようで、心細さから首に下げたヴィクトルの鱗をぎゅっと握り締めた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 翌夜、そんな華子の決意を嘲笑うかのような出来事が待ち受けていた。学士連での仕事を終え、昨夜の失態を教訓に寄り道もせずにきちんと町馬車で帰宅したところ、あの記者がいたのだ。しかも客人が暮らす集合住宅の、華子の部屋の前に。集合住宅にはちょっとした目くらましの魔法術がかけてある、と説明を受けていた華子は、何故バレたのか驚くとともに、日本の同業者にも負けず劣らずな執念の記者に有名人の苦労を少しだけ理解した。


「ちょっと貴女、こんなところで何してるわけ? 」

「あ、ブランディールさん……ごめんなさい」


 どうしようかと思案していると、不機嫌な声が背後から聞こえた。記者が二階の通路に陣取っているため、部屋に戻ることができずに階段の途中で立ち止まっていた華子は、今しがた帰ってきたばかりであろうアルダーシャ・ブランディールと鉢合わせした。久しぶりに姿を見る彼女は前見たときよりも溌剌としており元気そうだ。階段を塞いでいたことに気がついた華子が端に寄ると、華子の挙動に不審な表情を浮かべながらも横をすり抜け、最上段まで登ったところで呆れたような顔で振り返る。


「貴女、ご自分の立場を考えたことあるのかしら……ここで騒ぎを起こしたらあのお方の評判にも繋がるというのに」


 どうやら、一番奥の華子の部屋の前にいる人物が記者だと気がついたようだ。


「それは、反省してます」

「まぁいいわ。でも、この状態で戻ると私まで巻き込まれるし、そんなのごめんだわ」

「私は少し様子を見てほとぼりが冷めたらこっそり戻りますから、ブランディールさんは先に……」

「そんなことで記者が諦めるはずがないじゃない。貴女に会うまで何回でも来るわよ」


 そんなこともわからないの、と言いたげなブランディールに華子は情けなくなる。まだ十代ではあるが、客人としては華子よりも先輩のブランディールの方がしっかりしている。もしかしたら客人ということで彼女も記者に悩まされたのかもしれない。


「ここに居ても仕方ないわね……そうだわ、ここから近いところに私の友人がいるの。そちらでしばらく匿ってもらいましょう」

「えっ? 」

「なによ、文句あるわけ」

「い、いや、その」


 どうやらそれは独り言ではなく、華子に向けて提案したらしい。初対面からしてもあまりよろしくない印象で、しかもその後も華子をあからさまに避けていた節のあるブランディールが、まさか助けてくれるとは思わなかった。


「管理人には後で伝言を飛ばせばいいのだし、行くわよ」


 華子の返事を聞かずしてさっさと階段を降り始めたブランディールに、華子もここにいても仕方がないと足音を立てないようにして着いて行く。さきほど助けを求めて訪ねたブルックスの部屋にはまだ明かりが灯っておらず、どうやら今日は遅くなるようだ。このままブランディールの提案に甘えるにせよ、はたまた侍女三人組を頼るにせよ集合住宅には居られない。ブランディールの後をとぼとぼと歩きながら、華子は溜め息を吐いた。

 それにしても昨日の記者はどうやって突き止めたのだろうか。背後を気にしながら帰宅した昨晩、後を付けられていたとは考え辛いが、もしかしたらうまく巻けなかった可能性もある。

 そうこうしている内に通りまで出たブランディールが、町馬車を止めて華子に乗るように促した。


「馬車? ど、どこまで」

「……私の事情を知っている友人のところに行くだけよ。早くして頂戴」

「あ、ごめんなさい、ありがとう」


 少々気まずいものの、ブランディールなりに華子に歩み寄ってくれているのかもしれない。仲良くなれるチャンスかも、と思い直した華子はブランディールに甘えることにした。ツンケンしていても、案外、面倒見がいいのかも知れない。


「こんなことをするのは今回だけよ。後は私に迷惑がかからないように自分でなんとかなさいよ」

「ええ。ありがとうブランディールさん」

「ふん」


 それにしてもとんでもないことになったわね。


 ゴトゴトと走る町馬車の中で華子は短く溜息をついた。今日はこれでいいのかもしれないが、明日からはどうすればいいのだろう。記者が華子のことをどれだけ把握しているのか見当がつかないけれど、もしかしたらリカルドのコンパネーロ・デル・アルマだと知っているのかもしれない。仕事場まで突き止められていたらさらに厄介である。

 明日朝一でまとめ役のチャンユラ夫妻と学士連、そして警務隊に連絡しておかなければならない。総務庁の事務官にも話しておかないと、他の住人の迷惑になる。寝袋もあるので学士連に泊まってリカルドの帰りを待つ方が皆に迷惑をかけないかも、とあれこれ悶々と考えていると、町馬車が止まった。


「ここは……」

「宿場よ。色んな国から来た人が出入りしているから、身を隠すのにちょうど良いでしょう」


 口を開けてぽかんとしている華子に、ブランディールは得意そうに告げる。

 ブランディールが開けた扉の向こうには、花の形を模している凝った飾りが施された幻想的な街灯が通りを彩っていた。宮殿よりも華美な五、六階建の建物には、どれも『宿』と表す文字を記した看板が掲げられ、様々な飲食店が立ち並んでいる。フロールシア式の服装ではない装いの人々が楽しげにお酒の杯を掲げ、活気溢れる歓楽街のような雰囲気だ。


「ここに、ブランディールさんの、友人の方が」

「そうよ。彼がいるのはここじゃなくて、もっと奥の高級貸し宿だけど」


 そこは様々な人種の者が行き交う、華やかな宿場街であった。


 


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