第73話 それぞれの思惑

 リカルド様、ごめんなさいっ!

 離れている今こそ、きちんと感情をコントロールして、ひとり立ちの基盤を強固なものにしなくちゃならないのに。


 よく考えたらリカルドは訓練中で自分と会話している場合ではなかったのだ、と気がついた華子は、沈黙した鱗を手に盛大なため息を吐くことになった。上がっていた息は普通に戻っているが、別の意味で顔が熱いのできっと真っ赤になっているはずだ。

 アルマのせいなのか、生まれて初めて本気の恋愛をしているせいなのか、自分が思いの外嫉妬深かったという事実に身悶える。この世界に来てリカルドと出逢ってからというもの、感情の起伏が激しくなる一方で、そんな自分を持て余している現状は芳しいものではない。せっかく仲直りもできて『行ってらっしゃい』も言えたというのに、冷静になった途端に華子の脳裏によぎったのは後悔の一文字だった。ただ、アルマのせいであるならば何か対処法があるはずだ。


 イェルダ様に相談してみようかな。


 警護騎士のイェルダもアルマ持ちで結婚までに紆余曲折あったと聞いている。戦争中で離れ離れになっていたときに、どういうふうにして耐えていたのか教わるのもいいかもしれない。

 汗が引いて微妙に寒くなった華子は着替えようと立ち上がる。明日は第七星日で休日でも、学会までのラストスパートで普通に仕事があるので色々とやってしまわないとならない家事用件がある。とりあえず、受け取った鱗を身につけるための御守り袋を用意しよう、と考えた華子は拳を握り鱗に話しかけた。


「リカルド様、私、頑張りますね! 」




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 第七星日の早朝。

 始業前の静かな編纂室で朝のカフェを作っていたガライの耳に、どこからともなく鼻歌が聞こえてきた。それは聞いたことのない曲調の鼻歌で、異国の音楽は嫌いではないガライは楽しそうな軽快な鼻歌に微笑む。それはだんだん近づいてきて、編纂室の前で止まった。


「おはようございます」

「おはよう、今日はご機嫌だねハナコ君」

「え? 」

「聞いたことのない歌だったけれど、ハナコ君の国のものかい? 」

「あっ、すみませんっ」


 扉を開けて入ってきたのはガライの予想通り華子であった。先週末までのどこか浮かない表情から一転、晴れ晴れとしていて活気さえ見てとれる。明るい鼻歌が出るということは、精神的にも落ち着いている証拠だろう。最も、当の華子はまさか鼻歌を聞かれていたとは思ってはいなかたようで、恥ずかしそうに頭を掻いていた。


「何かいいことがあったみたいだね」

「いいことといいますか、心のモヤモヤが晴れまして、ご心配おかけしました」

「いや〜、心配はしてないよ。アルマ持ちの恋愛を間近で見られるいい機会だし。まあ、僕の知識欲が刺激され過ぎて困ることはあるけれどね」

「……私って研究対象だったんですね」


 ガライの笑いを含んだ言い様に、華子の目が半眼になる。仕事をしている姿は大人で、ひとたび恋愛になるとお子様になるのが面白い、とは本人を前にしては言えないガライは口元を隠すように手で押さえた。

 先週頭からケンカをしていたようで、仕事の合間に華子から虹色の魔力が立ち昇ることが数回確認されているというのに、本人はそのことを自覚していなかった。大方、リカルドとのやり取りを思い出して、本人曰く『モヤモヤ』していたのだろう。

 ブエノ局長にも頼まれているので、そろそろ魔力を使いこなす訓練を始めた方がいいかもしれない。華子の魔力は微々たるものだ。しかし、アルマが呼び合うために発動する虹色の魔力は何かと目立つ。リカルドが不在の今、華子が目立つと状況的に良くなかった。


「アルマの実態はあまり解明されていないんだよ。謎に満ちた神秘の存在であるコンパネーロ・デル・アルマであるうえにハナコ君は客人まろうどだ。そっち系の学者たちにしてみれば垂涎ものだからね。気をつけないと拉致されるかも」

「拉致ってそんな、ここの学士さんたちがそんなことする筈ありませんよね? 」

「全ての学者が学士連に在籍しているわけではないからね。つきまとわれたりしたらちゃんと報告するんだよ」

「は、はいっ! 」


 ガライの忠告に、華子はびっくりしたのか怒られた学生のように背筋をピンと伸ばし、緊張したような硬い声返事をした。脅かし過ぎかと少し気の毒になったガライは、出来たてのカフェを華子のカップに注いでやると安心させるようにへらっと表情を崩す。


「でもまあ、これから学会の準備が佳境に入ることだし、遅くなったときはいつでもここに泊まっていいからね」

「……そ、そうですか」

「ハナコ君が教えてくれた『ネブクロ』もみんなから好評だし、仕事がはかどって最高だね!」

「……ははははは」

 まさかこの世界でも寝袋の世話になるはめに陥るとは。どっちに転んでも修羅場な予感に華子は乾いた笑いを漏らす。


「おはようございまーす。ガライ室長、ハナコ君も早くないですか? 」

「オノーレ君、君も絶賛してたよね」

「は? 何がですか? 」


 出勤早々意味不明な質問にオノーレが頭に疑問符を浮かべる。


「ネブクロだよネブクロ。狭い場所でも野外でも、敷き布団も掛け布団もいらない合理的な寝具のことだよ」

「ああ、ネブクロですね! いやー、あれいいですよね。先週の泊まり込みの時にお世話になりました。今はまだ暖かいのであれくらいでいいですけど、寒くなったら綿の量を増やしたいですね」


 泊まり込みの多いオノーレにとって寝る場所の確保は重要なことだ。寝る前に大量の資料を片付けて掃除して、起きたら資料を元に戻すという非効率的な行為をしなくてもよくなったのは歓迎すべき事柄なのだ。オノーレ同様、資料や研究器具で狭苦しい部屋に敷き布団を敷くスペースを確保するため苦労している学士たちの姿を見た華子が「私の世界に寝袋という便利なものがありまして」とある学士に教えてあげたところ、すぐさま試作品が出来上がりあれよあれよという間に学士連中に広まった。まだまだ改良の余地はあると、現在も暇な学士が作っているらしい。


「そういえば私の寝袋どこに行ったんだろう? 」


 華子と一緒にこちらに来た青い寝袋は今まで一度も見たことがない。確かリカルドが拾って持ってきてくれていたはずだ、と思い出した華子はリカルドが帰ってきたら聞いてみようと思う。


 初めて役に立った知識が寝袋とか……最悪。


 寝袋談義に花を咲かせるガライとオノーレを、華子は微妙な目で見ていた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 濃紺の絨毯に紫檀の机、暖かみのある橙色の照明が柔らかくなめされた革のソファでくつろぐ男を包み込む。灯りを反射して輝く黒い癖のある髪は無造作に首元で束ねられ、着崩した柔らかい白いシャツに広がっている。

 そこに、コツコツという木を叩く音が五回響く。


「旦那様」

「入れ。何だジェームズ」


 男に促され、年の頃五十を過ぎたくらいの細身の男が神妙な顔つきで部屋に入ってきた。ジェームズと呼ばれた男は執事のような出で立ちであるが、別に『旦那様』に仕えているわけではない。ジェームズは雇い主に対して伝えるべき事を速やかに伝えるためだけの仕事を請け負う、密偵と呼ばれる職業の者だ。

 深夜を大幅に過ぎ、後数刻もすれば朝になろうかという刻にも関わらず、気が引けるような素振りさえ見せないジェームズが差し出すのは一通の黒い手紙。


「あちらから、旦那様への伝言にございます」


 ジェームズの差し出した銀の盆の上には、禍々しく黒い手紙が乗っている。


「また呪いまじないの手紙か。お前も物好きだな」


『旦那様』は閉じていた目を開き、その鋭き眼でまるで生ごみでも見ているかのように手紙を一瞥した。手紙の宛名はすべて同じ人物宛––––ユリシーズ・ド・レイヴァースとなっているが、これは『旦那様』の本名ではない。もちろん『旦那様』には別の名前があり、別の身分がある。

 呪いの手紙は秘密にしなければならないときによく使用されるもので、紅い蜜蝋に施された呪いにより特定の人物にしか開けることできない仕組みになっていた。


「旦那様……首尾は上々にございます」


 レイヴァースが黒い手紙を受け取ると、手紙から黒い煙のようなものが揺らめき、手紙本来の白い色へと変化する。


「やっとだな……余計な手間はかけたくないんだが。竜の不在の隙を突くとはいえ、懐刀が残っている分慎重にいかなければ」


 手紙の内容はレイヴァースが待ち望んでいたものだったが、眉間に縦皺を寄せたまま面倒そうに前髪をかき上げると、組んでいた脚を解きソファから立ち上がった。


「返事はなんと」

「話を詰めたい、と。それと、連れてくる者次第では顧客を紹介しよう」

「連れてくる者? 」

「そうだ。となってくれる、素晴らしい者だと良いがな」


 レイヴァースが何かをつぶやくと手紙に火が灯り、一瞬の後に燃えかすさえも残さずに手紙が消え去る。


「しかしながら旦那様、六ツ脚の獣はどうするので? 」


 ジェームズはレイヴァースの新しい商品が気になるようだ。長らく付き合いを続けている関係であっても、お互いの仕事の話に首を突っ込むことは滅多にない。珍しいこともあるものだ、とレイヴァースが唇を歪めると、ジェームズが話を続けた。


「……竜がいない所為で動きが活発だ。六ツ脚どもがこうも嗅ぎ回っていると仕事がしにくい。面倒なことになりそうなら俺は抜ける」


一瞬、ジェームズが本来の顔を覗かせた。


「流石の貴様も六ツ脚の獣は苦手か? 心配ない、そのための商品であり、駒だ」


 最高の商品たるその駒を手にできるとは、神の意志か偶然か。先鋒の話では、年若く愚かな小娘だという。随分手懐けているようで、まやかしの恋人と昼となく夜となく、恋に浸るその姿は哀れなほど滑稽なことだろう。


「さて、そろそろ眠らねば。ひとまず帰るとしよう」

「かしこまりました、旦那様」


 ジェームズは足音もなく部屋を出て行き、残されたレイヴァースはしばしの間物思いにふける。

 六ツ脚たちも馬鹿ではない。現に、水面下では取り締まりが厳しくなってきており、今回の取り引きを最後に、今の商品からは手を引く予定である。大規模な摘発は竜たちが帰還した後に行われるという話もあるため、ほとぼりが冷めるまで別の商品を取り扱うつもりだった。

 アリステアの商人から、その商品について打診があったのはレイヴァースにとって好機である。神の叡智という大層な呼ばれ方をしていても、使えない者は使えない。価値のない者に価値を与えてやるのだから、こちらに感謝して欲しいものだ。

 珍しいものを収集する貴族や富豪、研究材料として欲しい研究者、崇拝対象として傀儡にしたい信教者、禁断の秘術のために生贄を探す者。利用価値のない出来損ないであっても喉から手が出るほど欲しがる顧客が、レイヴァースにはたくさんいる。今回の駒は、もっと価値のある商品を手に入れるための大事なものだ。特別を好み、贅沢を愛する駒をうまく調教して活かせれば、放蕩者で一族の爪弾き者だった自分を救ってくれた彼の人に、最大の恩返しができるに違いない。

 レイヴァースは暗い笑みを浮かべると、そのまま目を閉じた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




「どこに行くの? ギリアム」

「起きたのかいダーシャ。いつもの国の仲間のところだよ。ふた月しか滞在しない分、仕事はたくさんあるからね」


 ギリアムと呼ばれた男は眠そうに目をこするアルダーシャに微笑むと、寝台の側にある椅子から無造作に掛けてある上着を拾う。


「お金……足りないなら」

「うん、今は大丈夫だよ」


 寝台の上で起き上がったアルダーシャの身体から毛布がすべり落ち白い肌が露わになると、ギリアムはベッドに近づきアルダーシャの乱れた濃い金髪に手を伸ばす。

 南のスル大陸から行商に来たギリアムの肌はフロールシア人よりも浅黒く、髪の色も濃い。異界の客人であるアルダーシャは、どちらかというとフロールシア人よりの色素の薄い容姿をしているのでギリアムとは対照的だ。


「それよりダーシャ、今夜は取引先の人たちと会食をするんだけど、君も一緒に行かないかい」

「私が一緒に行ってもいいの? 」

「男ばかりのつまらない仕事の会食には君のような可愛らしい女性が必要なんだ。こんなことを君に頼むのも情けない話だけど、僕はこの取引を成功させたい、お願いだよ、ダーシャ」


 ギリアムの端正な顔が近づき、アルダーシャの頬に口付けが落とされた。


「私なんかで役に立てるのかわからないわ」

「大丈夫、君は美しい。それだけで武器になる。だって、僕はもう君の虜だよ? 君さえよければ連れて帰りたいくらいなんだ」


 ギリアムの瞳がキラリと光るとその意味に気がついたアルダーシャが頬を染める。ギリアムと知り合ってからというもの、アルダーシャはみるみるうちに元気を取り戻した。

ギリアムがくれた良い匂いの香は、既にアルダーシャにとってなくてはならないものになった。少し値は張るものの、王国から特別補助金を受けているアルダーシャにとっては容易く買えるものだ。

 ギリアムがアリステアから持ってきた商品なので数は限られているが、取り引きが成功したら、瞬く間にフロールシア中に広まるだろう。自分だけのものではないことにアルダーシャは不満を持ったのも束の間、ギリアムはアルダーシャの気持ちにすぐに気がついてくれた。そして、「アルダーシャのためだけに」と特別に香を作ってくれたのだ。

 そんなギリアムが自分を望んでいる、とアルダーシャは有頂天になった。


「そんな……私は何も持たない客人だし、本当に何もないのよ? 」

「そんなことないよ、アルダーシャ。客人は『神の叡智』と呼ばれる尊い存在なんだ。僕の国では崇める存在だというのに、この国での扱いは酷すぎるよ。君は君であるということ自体が特別なんだ」

「そうかな? そうなのかな? 私ね、この国で一人だったの……ずっとずっと一人だったの」


 震えるアルダーシャをギリアムが優しく抱き締めてくる。異世界に自分が特別じゃなかったという絶望が、ギリアムの一言で昇華されていく。

 自分はきっと間違えた国に来てしまっただけで、自分が行かなければならなかった場所は別にあったのだ、とアルダーシャは涙する。


 私は、私というだけで特別。

 ギリアムの国に行けば特別になれる。


「今は一人じゃない、僕がいる」

「私、貴方と行くわ! 」

「ありがとうダーシャ、嬉しいよ」


 だから泣かないで、と背中をさするギリアムにアルダーシャは涙を拭いながらすがりつく。そんな彼女を、ギリアムはその優しい手つきとは裏腹な、嫌悪すら感じさせる冷たい眼で見ていた。

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