第4部 翻弄される運命と巡り逢う魂の章

第71話 遠征訓練 ①

 タイピング講座の講師姿も板についてきた華子であったが、この日は違った。見慣れた同僚たちとは明らかに異質な存在が部屋の中に居る。しかも涼しげな顔でヒラヒラと手を振ってみせるので、華子は引きつった笑みをもらすことしかできなかった。信じられないような人が、信じられないことに学士たちに混じって座っている。本人からも学士連に研究室を持っているとは聞いていたとはいえ、まさか本当にいるとは、と華子は手のひらに変な汗をかいた。


「ハナコ先生、今日はよろしくお願いしますね」

「フェリクス殿下……いらっしゃるとは、ぞ、存じあげず」

「ハナコ先生、ここでの私はただの学者です。どうか、他の生徒と同じ扱いでお願いします」


 華子が立つ教壇の真ん前ど真ん中に鎮座する第四王子フェリクスに、華子は口をパクパクさせるも結局何を言うでもなく、しばらくして半音上がった声で講義の開始を告げた。楽しそうに華子の講義を聞き、嬉々としてタイプライターを打つフェリクスの隣にはちゃっかりとガライ室長が座っている。華子の非難を込めた視線に気が付いたガライ室長は、いたずらが成功した時の子供のように無邪気に笑ってみせた。

 そういえば、今日は朝からガライ室長が意味ありげな視線を華子に向けてやけに機嫌がよかったな、と思い出した華子は脱力する。


「ハナコ先生、質問してもよいですか? 」

「はっ、はいぃ! 」


 緊張したくなくてもフェリクスはこの国の王子で、しかもリカルドの実兄だ。粗相しないか心配になった華子は、右手と右足を同時に前に出しながら嬉しそうに華子を呼ぶフェリクスの方へ向かった。



「はぁ……」


 精神的に非常に疲れたタイピング講座の後、学会も間近となり締め切りが迫っていた資料を打ち終えた華子は、この日何十回目かの憂鬱なため息を漏らした。結構な枚数を休みを挟まず仕上げたので疲れたといえば疲れている。しかし、華子のため息は仕事のせいではない。かといって先ほどのハプニング的な出来事のせいでもない。

 フェリクスの突然の参加に度肝を抜かれた華子も、講義の終わりにフェリクスから「とても有意義な時間でしたよ」とのお褒め言葉をいただき、少し誇らしくもあったからだ。


「……はぁ」


 ふと気がつくと眉間に寄っている皺を伸ばしながら、華子はもう一度ため息を吐いた。編纂係の部屋には他にも残業している学士たちも居て、その中でも隣の席のオノーレはそんな華子を心配してか淹れたてのカフェカップを差し出す。


「どうぞ、ハナコ君。一息ついたらどうですか」

「あ、ありがとうございます、オノーレさん」

「ここ最近どこかうかない感じですが、困り事でもありましたか? 」

「そんな風に見えましたか……困り事といいますか、まあ、その」


 もごもごと口の中で呟きバツの悪そうな顔になった華子に、オノーレは首を傾げる。オノーレが参加していなかったタイピング講座に第四王子が出席していたと聞き、さらにそのことを内緒にしていたガライ室長に顔を真っ赤にしながら詰め寄っていた華子の姿を目撃したばかりなのだ。しばらくは第四王子相手に何か粗相をしていなかったか気が気でない様子を見せていた華子も、気持ちを入れ替えて仕事に集中し始めるとやがて落ち着きを取り戻していた。華子の不可解なため息は、今日ばかりではなくここ一週間ほど続いているので、少し気になったオノーレは華子を観察する。華子はカフェカップを両手で持ちながら、中身が小刻みに揺れる様子を見ているようでまったく別のモノを見ているようだった。華子がこんなにまでうれう原因は一つしかない、とカマをかけてみる。


「そういえば明日から遠征が始まりますね。最近夜も遅いですし、今日くらいは帰ってもよかったのでは? 」

「い、いえいえいえいえ、公私混同はダメですから! リカルド様にも迷惑がかかります」


 カップから顔を上げて勢いよくオノーレを見た華子は、やっぱりと言いたげな人の悪い笑みを浮かべるオノーレにしてやられたと思った。別にオノーレは誰が遠征するのか、その主語を言ったわけではない。


「……そんなにわかりやすかったですか? 」

「そうですね。色恋には縁のない僕にですらわかるくらいには」

「……はぁ」


 語尾も小さくがっくりと頭を垂れまたもや溜め息の華子に、オノーレが慌てて慰める。


「そんなにため息を吐くと魂が離れてしまいますよ! ハナコ君はアルマの片割れなんですから、伴侶と長らく離れ離れになる辛さは僕らの比ではないはずです。あまり我慢し過ぎると、暴走しますよ? 」


 コンパネーロ・デル・アルマの魂の暴走は最高学府を卒業した学士であれば誰でも知っている事柄だ。オノーレはアルマについては研究こそしていないが、アルマという存在については神が造りし神秘として非常に興味をそそられていた。しかも華子のように異界の客人まろうどがアルマの片割れというのは前例がなく、それだけで研究意欲が湧いてくるというものだ。


「オノーレさん、そうじゃないんです。なんて言いますか、あの、少し、ケンカを……じゃなくて、幼稚な嫉妬を……」


 あのリカルド殿下とケンカを?


 オノーレは正直驚いた。リカルドの華子に対する溺愛っぷりは局長のブエノから聞いており、また華子が学士連事務局で働き出してからというもの、帰りはここまで馬車を寄越したり自分が迎えに来たりとそれは甲斐甲斐しくも過保護であったからだ。一緒にいるところを直接見たことはないオノーレでも、伝言に使用している白と黒の妖精猫のぬいぐるみが頻繁に行き交う日常を見ている。お互い想い合ってることくらい容易たやすく想像できるというのに。

 華子はカップを机に置き、リンリンと小さな鈴を鳴らす白い妖精猫のぬいぐるみを取り出すと、意味もなくいじり始めた。


 やっぱり、今日くらいは行った方がいいのかな……それとも伝言だけの方が、あ、本部への伝言はできないんだった。


 ギクシャクしてしまった夜からリカルドも遠征の準備に追われ、華子も学会の準備に追われと互いに仕事が忙しくなり、直接会っていない。リカルドに至っては竜騎士団本部で寝泊まりしていて私邸に帰れる状況でなく、やりとりもままならないのが実状だ。

 これも素っ気ない伝言を送ってしまった華子のせいであり、リカルドは悪くない。心なしか白い妖精猫が不満そうにしているようにも見え、華子はため息を吐きそうになる。それからあっと気がついて、慌てて口を押さえた。

 仕事に集中しているときにはモヤモヤした感情も頭から追い払える。しかし、ふとした瞬間 –––– 例えばお茶を入れに行ったりお昼ご飯を食べたりと、心に隙ができたときに必ずリカルドのことを無意識に考えている自分がいるのだ。

 あの晩、リカルドの華々しい過去を本人の口から聞いてから、どうも気分がスッキリしない。これが幼稚な嫉妬だということを理解していても、リカルドの隣に侍っていたであろう顔も知らない貴婦人たちを想像してしまうと、どうにもイラっとくるのだ。


「私、大人のはずなんですけど……これもアルマだから、なんでしょうから」


 アルマはその性質上、大変嫉妬深いのだと、同じアルマ持ちである警護騎士のイェルダも言っていた。


「す、すみません。恋愛そちらの方面はとんと疎くて……あの、アルマでなくても、流行りの読み物では恋を煩うと寝ても覚めても相手のことが頭を離れないとかなんとか。いや、僕は何を言っているんでしょうね」


 他人の恋愛話に興味はあるものの、オノーレ自身は今まで恋愛よりも研究が第一である。アルマである華子が身近な存在になったことで知識欲が湧いた程度で、基本的に自分が主体となるような色恋沙汰とは無縁だ。的確な助言どころか見当違いなことしか言葉にできず、オノーレはしどろもどろになった。


「とにかく、人間『嫉妬』は多かれ少なかれ必ずある感情だと思いますよ。僕だって、僕が研究している分野で僕より凄い功績を残した先人たちや研究の好敵手に少なからず嫉妬を覚えます。なんで僕より先に答えを見つけたんだーって、意味もなくむしゃくしゃしたり」

「そ、そういうものですか? 」

「恋愛と一緒にするのもおかしな話なのかもしれませんけど、ハナコ君が殿下の何かに嫉妬したのであれば、少し距離を置いて冷静になるのも大切かと」


 偉そうにすみません、と頭を掻いて誤魔化したオノーレも「はぁ」と溜め息を漏らした。そんなオノーレに申し訳ないと思いながらも、華子は思ったことを口に出す。


「冷静に考えたら、私が悪いんだってわかってるんですよ。ちょっとしたことでギクシャクして。リカルド様は謝ってくださいましたけど、どうしても意固地になってしまってあーっ、ダメダメ、明日から遠征なんだから、普通にしないと!! 」


 華子はカフェをぐっと飲み干して白い妖精猫のぬいぐるみを仕舞うと、椅子をひっくり返しそうな勢いで立ち上がった。拳が力一杯握られいるように見えるのはオノーレの気のせいではないだろう。


「考えてもどうしようもありませんね! ここは大人として、潔く、スパーッと謝罪して、スッキリするしかない……かな? うーん……」


 今度はオノーレそっちのけでうんうん唸り始めた華子に、オノーレは「力になれず申し訳ありません」と謝罪すると空になった華子のカップを手に退散した。


 恋愛は、いや人の心はやはり不可解だ。


 確かな正解のない事柄を理解するのは僕には難しい、とこぼしたオノーレは、それでも悩み続ける華子の姿に羨ましいと感じた。そして、自分が持ち得ない経験を積む彼女らに少しだけ嫉妬する。


 まあしかし、今の状態では総務庁の面談は難しいかな。


 彼らの前でアルマを暴走させてしまえば、華子に不利益になるだろうことは一目瞭然だ。総務庁からは再三、華子に面接させろとせっつかれているが、学士連としてはその必要性はないと回答していた。「客人がより健康的に生活を送れるように」という名目上の面接は、実は華子の粗探しであるから接触は控えさせて欲しい、とリカルドから直々に言われているのだ。さらには、ここに在籍する第四王子フェリクスからも、くれぐれもリカルドの言う通りにしてあげて欲しい、とお願いされている。表向き学士連も中立の立場を取りつつも、内情は反客人派を快くは思っていなかったので、願ったり叶ったりとブエノ局長以下客人に友好的な学者たちでリカルドが不在の間、華子の周囲に目を光らせることを約していた。

 とはいえ、学士連にも良からぬ研究を行っている者も少なからずいる。客人の持つ不可思議な力や知識を悪しきことに使おうとする輩は、昔から一定数いた。フロールシア王国では客人の権利を保障する法により、何も知らない客人を悪しきことに利用する者には重い処罰が課せられることになっている。人身売買の対象にすらなり得る客人は、利用価値が高いとみなされると様々な犯罪に巻き込まれる可能性がある。公にされていないとはいえ、華子の噂は闇市場にも既に流れているだろうことは容易に想像がついた。


 ハナコ君は常識人だから無茶なことはしないと思うけど、一応報告しておくか。


 華子の憂鬱の正体が痴話喧嘩だとは思いもしなかったオノーレは、同じく華子を心配している室長のガライの元に向かった。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 翌日。

 初秋の高い空の下、ラファーガ竜騎士団本部前の広場では、遠征演習の出陣式典がしめやかに行われていた。今回の遠征には団長自ら参加するので、リカルドは式典用の正装ではなく竜騎士の戦闘服を着用している。リカルドが騎乗するドラゴンは赤銅色のヴィクトルであるため、艶消しを施した金属の胸当てに黒を基調とした戦闘服が少しばかり禍々しくさえある。

 先の戦で『冥界の使者』と渾名されたのも頷ける姿だ。

 一糸乱れぬ隊列で団長であるリカルドの訓示を聞く竜騎士たちも、皆一様に同じ黒い戦闘服であり、その姿は壮観であった。


「–––– 此度の遠征はかつてない厳しいものとなるだろう。しかし諸君らは数多の竜騎士の中から選ばれし精鋭である。我らラファーガ竜騎士団の先達に恥じぬよう、立派に務め上げて貰いたい!! 」


 リカルドの朗々たる重低音の声が集った竜騎士たちを叱咤し、鼓舞すると、竜騎士の後方に待機しているドラゴンたちも興奮しているのか、しきりと首を上下させて足を踏み鳴らす。近付き過ぎると危険なので、市井の民たちはその遥か後方から式典を見ている状態で、華子もその中に紛れて必死にリカルドを見ていた。


 結局、昨晩も伝言が届かなかった。

 情報が漏れてはいけないので、リカルドが竜騎士団本部にいるときは伝言ができなかったのだ。気まずいまま、これから二週間も離れているのは不安だ。堂々たる姿を見ているとリカルドが気持ちを切り替えているのは明確であり、くよくよしているこちらが情けなくなってしまう。馬鹿みたいに拗ねて嫉妬して意地を張っていた自分に説教したいくらいだ。でも、なんとかして今の気持ちを届けたい、と華子はジッとリカルドの姿を見続けた。


 リカルド様、どうかお気をつけて!!


 遠征は実戦に即して行なわれ、毎年けが人も出ていると聞いている。この秋の遠征には、ヴェントの森の魔獣を奥地へと追いやる役割もあるため非常に危険だった。リカルドが一瞬でもこちらを見てくれたら、と人垣の中でぴょんぴょん跳ねていた華子の耳に、ドラゴンたちの雄叫びが飛び込んでくる。どうやら出立の時刻になったようで、市井の民たちが間違っても怪我をしないように、と張り巡らされた防御の結界の魔力濃度が一段と濃くなった。

 乗り手の魔力の色に染まった色鮮やかなドラゴンたちが、一頭一頭ゆっくりと空へと羽ばたいていく。一番大きく、そして堂々たる風格のドラゴン –––– ヴィクトルとその乗り手が舞うと、辺りから大歓声があがった。華子も負けじと大声を張り上げ、リカルドの無事を祈るが、その声が届いたのか否か。


 やがて集まった全てのドラゴンが南のヴェントの森へと飛び去った後に、華子の手の中には橙色に揺らめく赤銅色の竜の鱗が一枚、残されていた。

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