第67話 邪推

 その日の勤務終了後、いよいよ華子によるタイピング講座が始まった。

 新しく用意されたタイプライターは十機。技術的に同じくらいのレベルにある者を二人一組、もしくは三人一組として、一回の講座で合計二十人が受講することになっている。講座は全部で三回で終了するが、約百人ほどが希望しているので、それをあと四セットも繰り返さなければならない。働いて間がない華子にとって責任は重大である。


「速さは必要ありません。より正確に打つためには指の基本的指位置を守ってくださいね」


 触るのも初めてだという人にはまず好きに自分の名前を打ってもらい、簡単な仕組みや用語の説明する。パソコン用語はこちらの世界にはないのでホームポジションを基本的指位置と説明したが、間違いではないだろう。

 さすがは学者というべきか、仕組みの理解は早かった。いずれはブラインドタッチができるように、変なタイピング癖をつけさせないホームポジションを徹底的に覚えさせ、始めから八本の指を使うやり方を説明する。華子の同僚であるオノーレや数名の学者たちは、既に独自のやり方でタイピングをしていたので強制しなければならない。


「ううぅ、もっと早くに教えて欲しかったです……」

「ごめんなさい、まさかこんなことになるなんてあのときは思ってもいなくて。でもオノーレさんはずいぶん慣れてるみたいですから練習すればすぐですよ」

「そうですかね、そうですかね、あ、また間違えた」


 日本語のように漢字変換の必要がないので打ち間違うことがなければ簡単だ。ただしそれはパソコンが普及し、誰もが普通にそれを使用している者がそう考えるだけで、フロールシア人にしてみればそれすらも難しいようだ。元々この世界のタイプライターは、北の大陸のハルヴァスト帝国が考案したのだという。昔の客人が残した手記からヒントを得たという逸話があり、ネーミングからも英国人辺りの客人かもしれない。


「タナカ講師、この場合はどうすればいいのですか? 」

「あ、はい。えーっと、この文字とこの文字の間に空白が必要なんですね。その場合はこのボタンを……」

「講師! 小指が届きません! 」

「ええっ、そんなはずは……ああ、シシィさん、そこから指を外してもかまわないんですよ」

「こっちもお願いしまーす! 」

「はーい! 」


 ワイワイガヤガヤ、不規則なタイピングの音と講師! と呼ぶ声、そしてそれに応える生き生きとした華子の姿。


 第一回目だからと見学に来ていた局長のブエノは、扉の隙間から中を覗き込みながら長いあごひげに手をやると、嬉しそうに口元をほころばせる。


「ほっほっほ、楽しそうですのぅ」

「向こうではこうやって働いていたのでしょうね。うん、いい笑顔です」

「殿下も受講なされたらどうですかな? 」

「そうですね……来週にでも飛び入り参加しましょうか」


 ブエノの隣で腰を屈めながら同じように覗き込んでいた第四王子のフェリクスはクスッと笑い、懐から手帳を出して予定を見た。びっしりと詰まっている予定欄にところどころ研究室と書いてある。これはフェリクスが学士連事務局に持っている個人の研究室のことで、公務がない日はこちらで研究しながらすごしているのだ。


「講座は週三回ですよね」

「第一星日、第二星日、あとは第四星日ですな」

「再来週の第二星日なら大丈夫かな。よし、受講予約しておくことにしましょう」


 もちろん弟のリカルドには内緒だ。もっとも、あちらは三週間後に迫った遠征訓練の準備で忙しいだろうから、こちらの動向にまで目は届かないだろう。何もやましいことをするわけではないが、リカルドのいないところで華子と話してみたかったフェリクスは手帳に『妹』と書き込んでからポケットにしまい込んだ。


「ところで殿下、あの魔法術に関する知識をハナコ殿がお持ちだというのは本当ですか? 」

「あくまで仮定の話ですよ。面白いと思いませんか? 彼女の世界には魔法術がないというのに、想像力だけで魔法術の定義を構築できるのですから」


 華子の国ではそういった想像力の文化が特出して発展してきたらしい。さらには他の国でも魔法使いと呼ばれる仮想の英雄の物語が流行っていたそうだ。そして魔法術がないにもかかわらず、魔法術を『科学』の分野の研究者たちが真面目に研究していたりするのだとも。フェリクスが知りたい魔法術もその一つである。

 先日のお茶会の席で聞いた限りでは『タイムマシン』と呼ばれる時間を自由に行き来できる機械や、物質を空間転移させる装置など、あり得ないような理論を追求しているのだと言っていた。フェリクスですら思いつかないようなことを、当たり前のように語る華子やそんな華子を育んだ国のことをもっと知りたい、と研究者としてのフェリクスがうずうずしているのだ。


「ハナコ殿は自分は専門家ではないと言われておりましたが」

「それでもいいんですよ。我々にはない発想を知りたいのです。研究するのが研究者の役目ですからね」


 そんなフェリクスを尻目にブエノはやれやれといった風に首を振った。立場上外交を担当しているが、この王子は昔から根っからの研究者だ。ブエノがあのバヤーシュ・ナートラヤルガの元で研究していた頃も、まだ子供だというのに研究室へ入り浸り、弟子になりたいと懇願していたのはもう何年前の話であるか。


「わしが言うのもなんですがの、弟君の許可を取った方が無難ではないですかな」

「そうですか? 」

「普通の恋人同士であればいざ知らず、コンパネーロ・デル・アルマですからの」

「なるほど、そういえばすごく警戒していましたね。ご忠告ありがとうございます、先生」


 家族の顔合わせを行った日、リカルドが長兄アドリアンに見せていた嫉妬もあらわな顔を思い出し、フェリクスは溜め息をつく。年老いた王子はブエノに子供の頃と変わらない屈託のない笑顔を見せてから、ちょこまかと動いている華子の観察を再開させた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 アルダーシャは自分の見ているものが信じられなかった。


 今朝方、夜も明け始めた刻にふと目が覚め、何気なくカーテンの隙間を覗いて見ると、ぼんやりと明るい街灯の下であの女が男と抱擁していた。汚らわしい、と小さく口にしたアルダーシャが相手の男の顔をよく見ようと窓に張り付いたところ、男の視線が一瞬こちらを捉える。何故か光っているような眼と、その視線があまりにも鋭くアルダーシャに突き刺さったので、怖くなったアルダーシャばさっとカーテンを閉めて布団に潜り込んだ。


 何、あれ。

 あれは一昨日の男じゃない……何で眼が虹色に光ってるの?


 しばらくしてからもう一度覗いたときには男の姿もあの女の姿もなかったが、アルダーシャはぶるりと身震いして頭を振った。あの女は一体何人の男と関係を持っているのだろうか、とアルダーシャは嫌悪に顔をしかめる。


 やっぱり、早く教えてあげた方がいい。

 あの女のことだけじゃなくて、さっきの男のこともちゃんと伝えておかないと、あの女はもしかしたらよくない客人で、この国や第九王子が危ないかもしれない。


 アルダーシャは自分が知っている唯一の警務隊士の顔を思い浮かべて決心し、身仕度に入る。いつも忙しいので朝ならきっと会えるだろうし、もし忙しくても緊急だと言えば大丈夫だ。この世界に一人でやってきたアルダーシャを優しく世話してくれた警務隊士であれば、きっと話を聞いてくれるはずだ、と考える。初めて出会ったときからずっとアルダーシャのことを気にかけてくれていた彼が、最近になって婚約したと聞いたときは絶望して、そのとき初めてアルダーシャは自分の初恋に気がついたのだ。でも理由があるからまた彼に会える、とアルダーシャは期待する。

 そして着替えを済ませ部屋を出ようとしたところ、あわやあの女と鉢合いそうになり、隠れるようにして警務隊東支所へと急いだ。



 少し離れた先にあの女と根暗男が歩いている。怪しい男と抱擁し、それ以上の汚らわしいことをしていたにもかかわらず、何故なんでもないような顔をして根暗男と話せるのか不思議だった。今夜は根暗男の部屋にでも行くのだろうか。あの女の本性を知らなそうな根暗男は、きっとほいほい部屋の扉を開けるに違いない。

 早く警務隊東支所に行かなければならないアルダーシャはやきもきしながら一定の距離を保って歩く。と、前の二人が立ち止まったので慌てて街路樹の幹に身を隠した。一呼吸おいてからそっとうかがうと、まだ突っ立っているのでイライラしながらじっと待つ。そのまま二十数えてから、もういいだろうと身体を半分出したところ ––––


「なん、で……」


 アルダーシャは愕然として、持っていた鞄を落としてしまった。中身が道端に散らばるが、そんなことよりも目の前の光景の方が衝撃的で一気に動悸が激しくなる。隠れていた木の幹に背中を預け、ズルズルと座り込んでしまったアルダーシャは泣きそうな心に鞭を打ち、そっと顔を覗かせる。


 あの女と、根暗男と、アルダーシャが一番嫌いな女と、そして、あの人。


 その四人が、四つ路の真ん中で楽しそうに話している。しかも、あの女とアルダーシャが一番嫌いな女とあの人は親しそうな雰囲気で、そのことに絶望した。


 どういうこと、あの女を知っているの?

 どうして、どうして……嫌だ、笑かけないで。


 アルダーシャの視線の先では、頼みの綱であるはずの警務隊東地区隊長のミロスレイが、その婚約者である竜騎士のマグダレナを隣に引き寄せ、華子とブルックスと談笑していた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




「最近どうしたの? もしかして残暑にやられちゃった? 」


 メリルはここ二週間ほど様子がおかしいアルダーシャを心配していた。気分転換になればと最近流行りの癒し香を渡してみたところ、よく眠れるようになったと言っていたはずだったのに。当のアルダーシャは遅刻してきたかと思ったら身体がだるいと救護室のベッドで休んでいたのだ。アルダーシャは学校の寮にも入っておらず、一人暮らしをしているので看病してくれる人がいない。集合住宅の世話役に連絡を入れて迎えに来てもらった方がいいのかもしれない。


「熱は大丈夫? きついなら帰った方がいいよ」


 しかし、頭から布団を被っているアルダーシャはもぞりと動き、それから小さく「一人にして」と呟いた。あいにく医術師が外出中なので勝手に薬を飲ませるわけにもいかず、メリルは布団の上からアルダーシャにそっと触れると隙間から体温計を差し入れる。


「ねぇ、とりあえず熱を測ろうよ」


 メリルは純粋にアルダーシャを心配していたのだが、アルダーシャにはその気持ちが伝わっていないようだ。その返事は次第に荒々しいものになっていった。


「先生に言って医術院に行こう? 」

「煩いわね、私は頭が痛いだけなの」

「でも、先生に言わないと、勝手に薬を飲んだら怒られちゃうわ」

「いいの!! 私のことなんか放っておいてよ。可哀想な客人だからって哀れんでもらわなくて結構、そんなのお節介だわ」

「私、私そんなつもりじゃ……」

「ここにいるのだって先生に言われたからじゃない! 」


 慣れないうちは先生から面倒を見てあげてとお願いされたのは確かだ。しかしアルダーシャが徐々にこの学校にも慣れ、一人でも大丈夫になってからもメリルがこうやって気にかけているのは義務ではない。


「ダーシャ、私、と、友達だよ? 」

「嘘ばっかり! 私、知ってるのよ……貴女が院長とこそこそ話してるの、知ってるんだから。私のことを逐一報告してるんでしょ? 得体の知れない客人が、悪いことしていないか、監視してるんでしょっ!! 」

「そんなんじゃないっ、違うわ……ダーシャ、違うの」

「嘘、嘘、嘘、もう嘘はたくさん! 出て行って、出て行きなさいよっ!! 」

「きゃあっ! 」


 アルダーシャは布団を跳ね除けて身体を起こし、手近にあった枕をメリルに投げつける。これまでも感情の起伏が激しく、些細なことで怒り出すことがしばしあった。しかしこんなに酷い言葉を、しかも一番仲が良かったメリルに対して使ったことは一度もないーー今日までは。


「ひ、酷い……なんで」


 顔をくしゃりと歪ませて泣きそうになっているメリルを見たアルダーシャは、今しがた自分がしてしまったことに呆然となる。ついにはらはらと流れ落ちてきた涙を拭うこともなく泣き出したメリルの足下には枕が落ちていて、そしてその枕はアルダーシャが投げつけたものだ。


「あっ、ち、違うの! メリル……違うのよ」

「ダーシャなんかもう知らないっ、ずっと一人でいればいいんだわ!! 」

「待ってメリル!! 」


 ガチャ、バタンッ


 バタバタと足音をたてて救護室を出て行ったメリルに取り残されてしまったアルダーシャは、追いかけることすらできず、ただベッドの上で布団の端をギュッと握り締める。涙染みのついた枕だけがポツンと残された部屋で、やがてアルダーシャの嗚咽が聞こえ始めたが、それを慰める声が聞こえてくることはなかった。

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