第66話 旅立つ者
週末をリカルドの私邸でのんびりと過ごして心身共にリフレッシュした華子は、今日から始まるタイピング講座の準備のために早めに家を出ることにした。たった一刻早いだけで、まだ日差しが強くなる前の空気が冷たく清々しい。一階に降りたところで丁度出勤するブルックスと鉢合わせする。
「おはようございますブルックスさん。この間はどうもありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。ミズハナコ、今日は早番ですか? 」
「色々と準備がありまして、今日は特別なんです。ブルックスさんはいつもこの時間に? 」
朝六刻半から仕事とはかなり早いと思う。ブルックスは警務隊士なので普通の役所と同じに考えてはいけないのかもしれない。
「東支所へは歩いて三十分弱ですから夏は早朝が一番涼しくていいんですよ。そういえばブランディール嬢には無事会えましたか? 」
「まあ、会えたんですけど、どうも嫌われてしまったみたいで避けられてるんです。育った世界も違う若い子のことはよくわかりませんね」
華子とすれ違いたくもないのか、姿を見ればさっと隠れてしまうのを見ると、何だがこちらが悪いような気がしてならない。華子とブルックスは話しながら一緒に行くことにした。職場へは同じ方向で、ブルックスも歩いて出勤するのであれば丁度良い。
勤務で忙しいブルックスともあれからタイミングが合わず、試作料理の器はあくる朝、華子の部屋の前に箱に入って置いてあった。しかも律儀なブルックスは、料理の感想と一緒に甘党な上司お墨付きのお菓子を添えてくれていたりもした。
「そう気にしなくていいと思いますよ。無理に仲良くならなくても、挨拶を交わす程度、顔見知りくらいの間柄で十分じゃないですか」
「それもそうですね」
もっとも嫌がらせを受けたというのであれば由々しき問題だが。しかしあちらが避けているというのであれば放っておいても大丈夫だろう、とブルックスは思う。それでも警戒は怠らないようにしておかなければならないが、とりあえずドロテアが酷く心配しているので、後で大丈夫そうだと連絡することにした。
「そういえば今更ですけど、出勤のときは私服なんですね」
「制服で出勤してもいいんですけど、公私を分けたくて。ああ、ちなみにあそこの人はいつも制服ですよ」
ブルックスの視線の先の四つ路で、お馴染みの黒い制服を着た人物が背の高い女性と仲睦まじく腕を組んで歩いていた。よく見ると女性の方は離れたがっているようで、朝からトラブルか何かと華子はギクリとして、立ち止まる。
「あれって……ミロスレイ地区隊長? 」
「お恥ずかしながら。毎朝あれですから気にしない方がいいですよ」
微妙に視線を逸らしたブルックスの顔は仄かに赤くなっている。警務隊東地区隊長であるミロスレイの隣にいる人物は、嫌がりながらも最終的には手を繋いぐことを了承したようだ。歩幅を合わせピタリと寄り添って歩く二人は、親密な雰囲気を醸し出している。
「あ、朝から熱烈ですね」
人がまばらとはいえ、朝からイチャイチャとは。できれば見ないことして別の道を行きたい。そうこうしている内に、華子とブルックスに気がついた女性が悲鳴を上げてミロスレイの手を強引に振り払い、目にも留まらぬ速さで飛び退いた。
「マグダレナ、まだいいだろう」
「駄目、無理、もう行かなきゃ遅刻するからっ! 」
と言いつつも華子の視線から隠れるようにミロスレイを盾にした女性 –––– 竜騎士のマグダレナがああっ、見られてしまった、と言いながらポカポカとミロスレイを叩いている。
「隊長、毎度のことながら制服でそれはマズいのではないですか」
「俺の国では普通なんだよ……って、華子殿ではないですか」
「おはようございますミロスレイ地区隊長、と、マグダレナさん」
冷静に突っ込みを入れたブルックスを振り返ったミロスレイが、隣にいる華子を見て少しだけ慌てる。そしてマグダレナはというと、華子に小さくおはようございます、と挨拶を返してもじもじとしていた。
「いくら隊長の国の習慣でもここでは刺激が強過ぎますよ。せめて朝の口付けだけにとどめておくべきかと」
「おま、それの方がやらしくないか? 」
アメリカンな発想のブルックスが言うのは多分頬にする口付けか、バードキスと呼ばれるライトなものなのだろう。もっとも、華子からしてみると路上で軽く口付けするのも恥ずかしい。なるほど、文化や習慣の違いの問題というのは思っている以上に根深いものなのかもしれない。
「キス……口付けは私の国では挨拶ですよ」
「俺の故郷じゃ、婚約したら将来の伴侶と仲が良いことを見せつけるんだよ。牽制の意味と、周知させる目的があってな。婚姻を結ぶからには好き合っていることが前提だからよ」
「そういえば、求婚するために全身全霊をかけて尽くして全財産を伴侶に捧げるんでしたっけ? 」
「おう、よく覚えていたなハリー」
何故か話が盛り上がる男二人を尻目に華子とマグダレナは微妙な気持ちになる。
「愛されるって大変ですね」
「……最近感化されてきた自分が怖いです」
そう呟いたマグダレナに、リカルドと自分はどうなんだろうかと思い返した華子であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その後、ブルックスとミロスレイとマグダレナから見送られ、予定より少し遅れて学士連事務局に着いた華子は、編纂室の自分の机でタイピング講座の資料を揃え、冷気対策にカーディガンを羽織る。本日の作業は局長のブエノの研究資料の編纂であり、急ぎのものがない限り当面はこの作業に従事することになっていた。
華子はあれこれと書き込みがしてある資料を見ながらカタカタとリズムよくタイピングしていく。
「局長の書く文字で解読できないものがあったらこの一覧から探してみてくださいね」
そう言われて同僚のディエゴから渡された表には難解な文字の下に正しい文字が点々と並んでいた。
「略字というか、もうブエノ文字と言った方がいいくらい見事にわからないでしょう? それは大体五年くらい前の文字で、今はもっと進化してるんですよね」
直属の先輩にあたるオノーレが年代ごとの一覧表を出してきて華子に見せてくれたが、どれも同じ文字とは思えないくらいに崩れている。聞けば、あの賢者バヤーシュ・ナートラヤルガと共同研究をしていたというブエノは、見た目以上にすごい人物なのかもしれない。縁側に座布団を敷いて座りながらお茶をすすっているかのような外見だが、人は見かけによらないものだ。
「ハナコ君には理解できないところがあるかもしれないから、まだ僕が仮編纂したものだけでいいからね。まあ、いずれは魔法術の仕組みやこの世界の法則を勉強してもらって、自分で編纂できるようになってもらうけど」
「ガライ室長……それって仕事を押し付けたいだけじゃないんですか? 」
「何を言うんだディエゴ君! ハナコ君にはこの国の最高学府を卒業した者たちと同等以上の教養があるんだよ? もったいないじゃないか」
ガライからはゆくゆくは勉強してみないか、という打診を受けていたので、華子は是非やってみたいと返事をしていた。勉強することは嫌いじゃないし、何よりスキルアップに繋がるのなら話を受けるべきだ。それに魔法術や世界の法則を知ることは、この先の人生の役に立つだろう。
「ありがとうございますガライ室長。生活の基盤が出来上がったら是非お願いします」
「ほらっ! ハナコ君も僕らと同じ研究者の志を持った同志なんだよ。いいねー、これから楽しみだ」
「室長が暴走したら私たちが止めますけど、ハナコさんも無理しない程度にしてくださいね。うちの室長って自分を基準にしがちなんですよ」
「そんなことはないよ。君たちが優秀だからつい多くを望んでしまうだけなんだよね」
ガライは会話をしながらも資料に目を通し、作業を続けている。その作業スピードは落ちることはなく、むしろノリに乗っているのか手は休むことなく動き続けていた。
「すごい……」
「室長は実は頭が二つか三つあるんじゃないかって思えるんですよね」
オノーレの表現が言えて妙だと思いながら、華子も自分に与えられた作業を片付けることにする。
カタカタカタカタ、カタタ、タン……カタカタカタカタカタカタカタカタ…カタカタ……
「……うん、ハナコ君も間違いなく同類だね」
タイピングする音が規則的で、さらにブラインドタッチをしているので初心者からしてみると神速とも呼べる作業速度だ。そんな華子を見て、よし僕も頑張るぞーと意気込むオノーレだった。
昼休みになりお弁当を食べ終えた華子は、気分転換に先週末に発見した
華子が今読んでいる書物は客人を研究したもので、持ち出し禁止の書物ではある。これは許可がなければ読めないような重要なものではない。しかも客人といっても華子のようにこの世界にやって来る者たちのことではなく、この世界から他の世界に客人として飛ぶことになった者たち –––– 『旅立つ者』について考察したものだ。
実は華子はこの世界に来たときにどんなことが自分の身に起こったのかまったく覚えていなかった。隣の部屋の住人がたてる騒音が頭にきて、思いっきり壁を蹴ろうとしたことまでは記憶にもあるのだが、その次の記憶は落下している最中からしかない。そのため、何らかの予兆があったものなのか、穴が空いて落ちたのか、魔法陣のようなもので召喚されたのか、知りたいと思った。それがわかればもしかしたら元の世界に帰る術のヒントになるかもしれないと思い立ち、昼休みを利用して客人に関する書物を探していたところ、この本を見つけたというわけだ。
リカルドと想いを通わせた今となっては、元の世界に帰れるとして再びこちらに戻って来れるという保証がない限りは帰らない、と決めてはいても、残してきた父親のことが気になっていた。華子はせめて声だけでも、手紙だけでも届けたいと思っている。
この本は七年前に発行されたもので、三十人の旅立つ者について考察されており、華子は年代の古い人の頁から順番に読み進めていくことにする。
『彼は魔力で形成された糸のような光で全身を包まれ、まるで赤子のように丸くなって目を瞑っていた』
今から五十七年前に異界に行ってしまったらしい人物は当時二十六歳になる男性で、特出すべきことがない普通の商人だった。
『発見から五刻、光の繭の中で眠る彼の姿が透けてきていることが確認された。さらに彼の身体の下に黒いもやがあることが確認される』
自分もそうだったのだろうか。記憶がないし、多分目撃者もいないはずなので真相は闇の中だ。しかし、身体が透けるとは見つけた人はさぞかし驚いたことだろう。
『身体が透け始めてからさらに三刻、彼の輪郭がぼやけ始め、ますます薄くなっていく。こちらの声にはやはり反応を示さず、触れることすらできない。彼の魔力を測定したところ、微弱な反応をとらえることしかできなかった。このとき黒いもやがわずかに広がっていることも確認された』
光の繭が結界の役割を果たしているのではないかという注釈がある。そしてその光の繭を構成するのに自らの魔力を急激に使う為、一時的な昏睡状態になるのではとも書いてあった。しかしそれならば、魔力を持たない者はどうやってこの世界に来たのだろうか。華子には微量の魔力があるが、アメリカ人のブルックスにはない。
『彼を発見してから二十三刻、光の繭が強い光を放ち、中にいる彼の身体はもう微かにしか見えない。黒いもやは彼の身体をほぼ包み込みつつある』
たんたんと書いてあるが、現場にいた人はさぞかし無念だっただろう。消えていく人を助けられないなど、もし華子が彼の家族だったらと考えるといたたまれなくなる。そして黒いもやとは何なのだろうか。いつだったか、リカルドは世界と世界が接触したときに穴が空くと表現していた。黒いもやはその穴かもしれない。
『発見から二十三刻十四節、光の繭が突如消え去り、それと同じくして彼の姿も消えた』
そこまで読み終え、華子は本を閉じた。もうすぐ昼休みが終わるタイミングであったしキリがいいというのもあったが、なんとなく読みたい気分ではなくなってしまったのだ。
リカルド様に会いたいな……。
昨日会ったばかりだというのに、今は無性にリカルドが恋しくて仕方がない。会って抱き締めてもらえば、この漠然とした不安から解放されるのに、と華子はポケットに入れている伝言用の妖精猫のぬいぐるみをギュッと握った。
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