第65話 週末の通い婚 ②
翌日、南地区の交易品を取り扱っている市場へと足を運んだ二人は、香辛料や調味料を取り扱っている店を見て回った。華子の嗅覚と味覚を頼りに探すも、和食で使われている醤油や味噌といった独特の調味料は発見できない。魚醤らしきものもあるにはあったので試しに味見をしてみると、ナンプラーのような味で癖があり過ぎ、到底和食など作れそうにもなかった。一応購入してみたのだが、使い道はあるのだろうか。
店主に聞いてみたところ、華子が探している種類の魚醤は少量しか生産していないので、フロールシア王国随一の港街であるエスプランドルであれば見つかるかもしれないと言われた。
「あっちの世界でも、私の国で普及していた調味料って限られた国でしか見かけないものばかりでしたから、やはりこっちでも見つけるのは難しいみたいですね」
「その、ショウユとはダイズという豆を発酵させたら作れるものなのですか? 」
「麹という菌が必要なのですけど、作り方は私も詳しくわからなくて……この分だと無理みたいですね」
そんなに特殊な調味料なのかとリカルドも驚くと同時に、是非見つけてあげたいとエスプランドル旅行を具体的に考えることにする。コウジとはどの様な菌なのかは検討もつかないが、暇さえあれば学士連に入り浸っている次兄のフェリクスあたりに詳しそうな研究員を紹介してもらうのもいいだろう。ショウユとは先ほど味見をした魚醤とは似てもにつかない、もっと香ばしい香りのまろやかな調味料です、と力説した華子の様子からしても、大変なこだわりがあるらしい。
「秋になって環境が落ち着いてきたらエスプランドルに行きましょう。そのショウユやミソという調味料、私もかなり興味がありますし、是非食してみたいものですな」
「私の我が儘に付き合わせてしまってごめんなさい」
「故郷の味を懐かしく思うのは誰しもあることですから気になさらないでくだされ。さあ、気を取り直して魚介類売場へ参りましょう」
魚介類は華子の好物だ。魚介類と聞いて、今日は無難にフロールシア風魚料理でも作ろうと考えた華子は、タクパと呼ばれる白身魚と貝類や甲殻類を数種類購入し、野菜とあわせてアクアパッツァを作ることにした。パンにしようか米にしようか迷いに迷い、結局アクアパッツァがイタリアンだからと香草を効かせたピリッとした辛味のソースで絡めたショートパスタとみずみずしい青菜のサラダ、スモークされたハムとチーズなどを付け合わせにして、是非作って欲しいとリクエストされた豆のポタージュスープも用意する。
リカルドの私邸の台所にはたくさんの調理器具が揃えてあったが、華子は最低限のものしか使わないようにした。片付けが大変ということもあるが、勝手にあれこれ使ってはこの台所の主に悪い気がしたのだ。
「お待たせしました」
最後に作ったショートパスタを手押しの配膳台に乗せ、湯気が立っている間にリカルドの待つ食堂へと運ぶ。
「少し作り過ぎたかもしれません」
「いい匂いのおかげでいい具合にお腹が空いておりますので大丈夫ですぞ」
先に前菜のハムやサラダ、スープを食べてもらっていたので、メインディッシュを食べる準備が整っているようだ。特に豆のポタージュスープはかなり好評で、華子も苦労して作った甲斐があったと小さくガッツポーズを作る。実はこれ、ブルックスにも大層好評だったものであり、リカルドより先に誰かに振舞ったのは内緒の話だ。
「西の地方の料理ですな。この辛味、初めて食べましたが癖になります」
「実は数滴ですけど、あの魚醤を隠し味に使ってみたんです」
「あれをですか? なるほどこうやって混ぜるとあの独特な臭みも気になりませんな」
華子はリカルドの反応にホッと息を吐き、鍋ごと持ってきたアクアパッツァを高価そうな深皿に注いでいく。調理器具もそうだったが、この家にある皿も宮殿で使用している物のように透し彫や緻密な絵付けがなされており、取り扱いには十分注意しなければならない代物ばかりだ。洗うときは細心の注意を払わなければならない。
「華子も席に着いてください。それくらい私がやりましょう」
「ですが今日は私が……」
「華子との食事にすっかり慣れてしまいまして、一人で食べるのがさみしいのですよ」
鮮やかな水色の瞳でじっと見つめられてしまっては華子が折れるしかない。確かにこうして二人きりで取る食事は約一週間ぶりだし、それに実を言えば華子もお腹が空いていた。リカルドに促されて急いで台所から自分の分の料理を持ってくると、リカルドの向かいに座りショートパスタから口にする。
「そういえばこれに粉末ケソをかけても美味しいんですよ」
「これに粉末ケソですか……ふーむ、ハナコの世界の食文化は豊かですなぁ」
粉末ケソはいわゆる粉チーズにあたるもので、こちらではスープに散らしたりドレッシングに入れて食べたりするのが普通だった。元々パスタは西の大陸にあるマーレドーロという国が発祥の地とされており、西の大陸と盛んに交易しているフロールシア王国は様々な文化が交じり合って成り立っている関係から根付いた食材である。この世界ではかなり豊かな食文化を誇っているフロールシア王国は、美食の国としての一面も持ち合わせていた。
「六十年生きてきて様々な経験を積んできたと自負しておりましたが、まだまだ知らないことがたくさんあるのですな。おかわり、いただきますぞ」
二度目のおかわりをしたリカルドは、アクアパッツァの白身魚に舌鼓を打ちつつ、すごい勢いで料理を平らげていく。そんな姿を見ながら華子は初めて振舞ったにしてはまずまず成功かな、と思いながら自分も残りの料理を胃の中におさめていった。
すっかり食べ終えた二人は一緒にと後片付けをし、食後のお茶を飲みながらお互いの近況を話し合うことにした。昨日は結局そんな余裕はなかったので久々にゆっくりとした食後のティータイムだ。毎晩伝言で大まかには話しているが、やはり直接話すと話題がたくさん出てくるので思ったより込み入った話になる。
「今月末から二週間遠征訓練に参加する予定でして、来月上旬までは王都を不在にすることになるのですが。華子もその頃は秋の学会の準備で忙しくなるとか」
「多分そうなるかと。女性は優先的に帰してもらえるみたいなんですけど、そうも言ってられそうにありませんから」
「暗い夜道を一人で帰宅するより泊まり込んだ方がよいかと。私が居れば迎えに行けますが、生憎遠征訓練の日程は変更できませんからなぁ……あぁ、冗談です」
たかが華子の残業のために国家行事を変更するなどと思わず、ついリカルドをまじまじと見やると、リカルドが真顔で冗談ですがそれくらい心配なのです、と返してきた。王都でも中央地区は他の地区よりも格段に治安はいいが、やはり夜道は危険である。華子もまだ王都初心者なのでどこらへんが危険な地域でどこらへんが安全なのかまだ把握しきれていない。
しかし、夜の十刻過ぎたくらいから人通りが少なくなり、飲み屋街も深夜零刻には店じまいが完了するので、この深夜帯に街を歩いている者といえば飲み屋の関係者か巡回の警務隊士か、後は犯罪者の類であろうことは予想できる。一日中営業しているところといえば、緊急医術院か警務隊関連の施設くらいしかないので、深夜は物悲しくあまり出歩きたい雰囲気ではない。
「わかりました、一人で夜歩きはしませんから安心してください。どうしてものときは馬車を手配します」
「それがよろしいかと。まあ、何もないとは思いますが、やはり心配なのでイェルダと中央地区隊長と東地区隊長には連絡を入れておこうかと」
「いえいえっ、それには及びませんから! 私も子供じゃないんですから、自ら危険に飛び込むようなことはいたしません。それに、集合住宅には一応現役の警務隊士がいますから大丈夫です」
あえて名前は出さなかったが、リカルドにも誰のことであるかは理解できたようだ。アメリカ人のブルックスは優秀な警務隊士であり、リカルドと旧知の仲である東地区隊長のミロスレイの部下である。リカルドが不在の間、万が一華子に何かあった場合にはそちら経由でなんとかしてもらえるのだろう。リカルドは少し考える素振りを示し、瑠璃色のカップからゆっくりとお茶を飲んでいる。
「今のところ不穏な動きをする輩はありませんが、もう少し様子を見ることにいたしましょう」
何かある前に華子を囲いたいのは山々だったが、華子には華子の自由があり、意思がある。それをすべて尊重してあげたいリカルドは、現在華子を政治に利用しようと画策する為政者の見極めを行っている真っ最中だった。華子が市井に降りたと知った数名の高官があの集合住宅に華子を訪ねて行こうとするのを水際で阻止し、さらには学士連事務局でどさくさに紛れて接触を図ろうとする高官たちを職員に排除してもらっているのだ。
無断で華子ぬ追跡の魔法術を使用した宰相の手の者たちの動向も気になる。あくる朝、リカルドが猛然と抗議するも、一人の事務官が独断で行なったこととして処理されてしまった。その者の行方は知れず、正式に抗議する間も無く鮮やかに片付けられてしまったことが、逆に不信感を煽る。宰相たち反客人派の目的もわからず、リカルドは国王の心眼に頼るか否か、まだ悩んでいるところだ。
もちろん華子はこのことを知らない。
集合住宅は要警戒箇所なので、警務隊士の巡回地点になっているとだけ伝えてはいたが、まさか華子を狙う不審者を警戒しているとは思ってもいないはずだった。
「一応まとめ役の夫妻にも伝えておきましょう」
「……はーい」
「安全の為です。向こうの世界ではいざ知らず、こちらの世界での女性の一人暮らしは何かと危険なのですぞ? 」
「よーくわかりましたー」
華子が不貞腐れた子供のような返事をしたので少し厳しめに説教しそうになるが、意外にも目が笑っていたのでリカルドは華子にからかわれているのだと気がつく。
「こらっ、私は真面目に心配しているのですぞ!! 」
「や、やだ、リカルド様っ、やだ、ゆ、許して」
カップを置いて立ち上がったリカルドが、素早い身のこなしでふざけて華子に襲いかかり腰のあたりをくすぐると、耐えきれなくなった華子が身をよじって抵抗する。笑声とガタガタという椅子の音がしばらく部屋に響き、華子が椅子から転げ落ちてようやくごめんなさいと謝ったところで、くすぐる指を止めたリカルドが華子を後ろから抱きしめた。
「ハナコに何かあれば私がどうなるのか自分でもわからないのですぞ」
「ええ。でもそれは私だって同じです。遠征訓練で怪我したりだとかは日常茶飯事なんですよね? ヴェントの森の最深部は竜騎士でも危険なところだって書いてありました」
「ヴェントの森の獣たちが街に降りてこないようにする目的もありますから、多少の危険は承知の上なのです。それが竜騎士たる私の責務です。なぁに、ヴィクトルを連れて行きますから、獣などドラゴンの足元にも及びませんよ」
リカルドのたくましい腕が背後から華子を抱きしめているが、その腕に、そして身体中に無数の古傷があることに昨日気がついたばかりだ。竜騎士はドラゴンを駆るため基本的には軽装で、急所となる箇所にだけ鎧を着けており、後はドラゴンの豊富な魔力を利用して魔法術で防御している。身軽でないとドラゴンの負担になるのだから仕方がないのかもしれないが、それでも重装備の騎士たちから比べるとなんとも心許ない装備である。
確かに今思い返せば、リカルドに助けてもらったあのときも体温を感じられるほどに軽装だった。先の戦争で死と隣り合わせの戦場にいたリカルドのことを思うと、背筋に冷たいものが走るのもまた仕方がないことなのかもしれないが……。
「それでも、気をつけてください。私にはリカルド様しかいないんです……この世界でリカルド様だけなんです」
アルマとしての繋がりを受け入れてからというもの、リカルドがいなくなることを想像するだけで魂が引き裂かれるような悪寒に身震いすることが多くなってきた。逆に一緒にいるとどこまでも安心できて、まるで自分が無敵になったようにも感じられる。そのことがいいことなのか悪いことなのか、華子にはまだわからないことだらけであったが、リカルドという存在を自分から切り離すなど到底できるはずがない。
「不安に思うことなどありませぬ。私はここにおります」
耳元でリカルドの掠れた重低音が響き、抱きしめる腕に力が篭る。その熱いくらいのリカルドの体温を受け止めながら、華子はゆっくりと振り向き自ら唇を差し出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
まだ、帰ってきていない。
どこにいるかはわからないが、誰といるのかは知っている。
いや、あの男じゃないかもしれない……また別の男? それとも王子様と?
なんで皆騙されるのだろう、あの女のどこがいいのだろう、あの女が王子様を騙しているのを誰に伝えたらいいのだろう。
あの女にできるのなら私にだってできるはずだ……そう、私にだって。
いえ、ダメよ、だって約束したじゃない、立派な淑女になるんだって。
そうだ、あの人に、あの人なら私のことを信じてくれるわ。
あの人に伝えよう、運命の相手がいながら不貞を働いているんだって。
あの女は嘘つきのとんでもない女だから騙されないでって!
アルダーシャはうとうとしながら夢うつつで考える。やがて眠りについたアルダーシャの枕元には、甘いお香の煙が漂っていた。
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