第63話 新しい職場
失敗した、不可抗力かもしれないけど、あれはまずかったよね?
昨日は会えずじまいだったブランディールに、十分な時間を置いてから訪ねたつもりだったのだが。しかし昨夜は夜遅くまで起きていたのか、ブランディールは寝起きそのものの姿で玄関に現れ、そしてかなり不機嫌だった。華子も仕事で疲れて寝ているときに、郵便配達人や大家から起こされたら悪態の一つや二つくらいは吐いていたのでブランディールの姿を直視することを避ける。彼女の世界の事情は知らないが、年頃の女の子は得てしてお洒落にうるさいものだ。最初に会ったときも彼女はバッチリメイクをしていたような、と思い返していた華子はあのスッピン顔は忘れようと心に決めた。
ともかく、華子がブランディールを起こしてしまったことは間違いなく、それについては申し訳なさでいっぱいだった。華子は綺麗な紙袋を見て溜め息をつく。賞味期限はまだあるけれど、夏なのであまり長く置いておくわけにはいかないだろう。ブランディールに渡すはずだった菓子折りは受け取ってもらえなかったので、職場に持っていくことになりそうだ。
初対面のときからあんな感じの子だったけど、あれが普通なのだとしたら相当キツい子ね……それとも、私に対してだけなのかな。
見た瞬間から生理的に無理なタイプの人は少なからずいるものだ。華子の前職の同僚や上司の中にもそんなタイプの人はいたし、できるだけ話しかけないように避けていたこともある。アルバイト先の客の中にも相手にしたくないタイプはいた。ただ、だからといって敵視するものでもなかったので嫌でも顔には出さず、無難に関わらない方法を取ったものだ。華子とブランディールに接点があるかと言われてみると、彼女とはただの
◇◇◇◇◇◇◇◇
「やあハナコ! 約束より早いんじゃないかな。ちゃんとお昼は済ませてきたのかい? 」
「こんにちは、カルビノ学士。早めのお昼をいただいてきました。当日に慌てなくていいように仕事道具を持ってきたんです。といってもあまりありませんけど」
「仕事を始めたらいつの間にか増えてるよ。幸いここは学士連だから辞典とか辞書とか文献なんかには事欠かないけどね」
カルビノは華子は個人で購入した文房具と腰痛防止のためのクッション、専用のティーカップとなどの入った布袋をぽんとたたき、それから頭に疑問符を浮かべて華子を見た。
「この柔らかい感触のものはなんだい? 」
「実は
前職ではアルバイトで立ち仕事もしていたので足までぱんぱんにむくみ、腰に足にさらには肩にと湿布は必需品だった。それがこの三ヶ月半ですっかり解消されて身体の調子はすこぶる良くなっており、華子はなんとかこの状態を維持していこうと先に予防策を張ることにしたのだ。
「あーそれわかるわかる。そっか、コヒンね。僕もコヒンを使おうかな」
華子がクッションを布袋から出して見せると、カルビノは硬さを確認しながらこれはいい、と連呼している。同じ仕事をするなら快適な空間で仕事をすればそれだけはかどるというものだ。クッションを返してもらった華子はカルビノと別れ、自分の仕事場になる編纂係の部屋へと歩いていった。
華子が住む集合住宅から学士連事務局まで徒歩で約二十分、のんびり歩いても三十分とかからない距離にあるので運動不足の華子には調子良い距離だ。雨の日は足元が濡れてしまうかもしれないので置き傘も持ってきた。使おうと思えば乗合い馬車だって定期的に出ている。まあ、贅沢は敵なのでそうそう使うことはないとは思う。
冷気の魔法術が効いている建物内は非常に涼しく、背中に流れていた汗がすっかり引いてしまった。華子はまだ魔法術をうまく使うことができないのでとてもありがたい。
でも長居すると逆に冷え過ぎるかも。
特段冷え性ではない華子であるが、上から羽織るものを一つ用意しておいた方がいいかもしれないと頭の中の準備するものリストに加える。
「失礼します」
編纂係と刻まれた金属のプレートが掲げられた部屋の扉をノックすると、華子はできるだけ静かに入っていった。
「ハナコ君、いいところに来てくれた! この資料明日までに打ち直しなんだよー……ちょっと手伝ってくれないかな」
「ガライ室長駄目ですよ、ハナコさんは第一星日から正式採用なんですから」
「じゃあこれを明日までに、君は何とかできるのかな? 」
扉を開けた途端に目の前に広がる修羅場に、華子は扉を閉めることすら忘れて立ち尽くす。タイプライターに向かい噛り付くようにして打ち込んでいる事務官たちが華子の声に一斉に振り向き、まるで天の助けが来たとでもいうような顔をした。
「一体どうされたんですかガライ室長、オノーレさん? 」
「いやね、学会発表の資料の差し替えを依頼されたんだけどねぇ、量が半端ないのよ」
ガライが示した資料の分厚さに華子はこれはまた、と言葉を詰まらせる。
「魔法術式のこの部分とこの部分が間違ってるらしくて。しかもこっちの魔法具の設計図にまで波及してるからそれもやり直して、しかも追加の資料がこんなにあるんです」
手伝いをしていた頃に仲良くなったオノーレが忙しくタイピングしながら資料に目を走らせていた。タイピングする指が一本から三本に増えているところをみると随分上達しているようだ。
「あの、編纂の方はまだできませんけどタイピングだけなら。ひな型を手書きしていただけたら私も打ちます」
期日は明日までというのであれば猫の手も借りたいくらいだろう。しかもタイピングの講義の打ち合わせはどうせガライがいなければできないのだ。
「助かるよハナコ君! じゃあ僕はこっちの手付かずの資料の編纂に専念するよ! ラザロ魔法術師、手が空いたよ! 」
「それはありがたいです! 本当にうちの主任が申し訳ありません」
ガライからラザロと呼ばれた魔法術師が部屋の奥で歓声をあげた。基本、新しい研究資料や学会発表用の資料を編纂する場合は、その研究者や研究室の者が基本的なものを編纂しなければならない。まだ若いので多分研究者本人ではないのだろうが、ラザロも苦労しているようだ。
「さあハナコ君、僕の机を使ってくれたまえ! 君の机は、あの通りだから」
ガライが指差した先にあるはずの華子の机は様々な資料や書き損じの紙で溢れかえっている。
「あはは……すごいところに就職しちゃったかな」
ガライの机の前に立った華子は持ってきた布袋をとりあえず足元に押し込め、椅子に座る。
「すみません、こんな状態で」
「久々にやり甲斐のありそうな仕事で腕がなります」
華子は隣りに座る事務官が差し出してくれた焼き菓子を受け取ると、よしっと気合いを入れて作業を開始した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
華子が去った後のアマルゴンの間から全てのドレスを運び出したイネスは、がらんとしてしまった衣装室を寂しそうに確認してから扉を閉める。この部屋は女性用に作られた部屋だが、次に使う部屋はラバンドラの間と決まっているのでしばらくはここを使うことはない。
「イネス、このドレスは未使用なの? 」
同じく片付けに入ってきた先輩侍女が、未使用の証の魔法術式が書いてあるタグを確認しながらドレスを次々と長持の中に収めていく。
「一度でも袖を通したものは浄化に出してあるから全部未使用ですわ」
「もったいないわねー。私なら全部着るわよ……これとか最高級品じゃないの」
「ほんと、一生着る機会なんてなさそう」
「私もそう勧めましたのよ? でもハナコ様はドレスは着慣れてないから普段着がいいとおっしゃられましたの」
最初こそ華子に似合うドレスや装飾品を揃えてはなんとか着飾らせようと奮闘していたイネスも、途中から思考を変えて見た目よりも質を重視した一見地味に見えるが上品な普段着を揃えるようにしたら、華子はそちらの方を選ぶようになっていった。華やかな装いはイネスみたいな若い子がするものよ、と髪型も化粧も控え目だった華子が唯一自ら身につけていた装飾品も、リカルドからの贈り物だけである。
異界の
「そういえば庶民の出だそうね、ハナコ様って」
「贅沢に慣れなかったみたいだし、いい人そうじゃないの。ちやほやされて勘違いする客人も結構いるけど、さすがは殿下のアルマ様よね」
「でも客人専用の集合住宅に移ったのは意外だったわ。てっきり殿下の私邸に行かれるかと思ってたのに」
「しかも働くんでしょ? それも意外だわ」
「ハナコ様が「働くなんて無理ー」とか言う方じゃなくてよかった」
「そうそう、部屋が小さいとかドレスがダサいとか料理がまずいとか、あと侍女がいじめる、もだったかしら? 」
「やんごとなきご身分の客人様は勘弁だわね」
先輩侍女たちがうんうんと頷き合っている姿を尻目に、ハナコ様はそんな下品なお方じゃありませんわ、と言いたくなるのをイネスはぐっと堪える。イネスより先輩にあたる侍女二人は華子の専属侍女にこそ選ばれなかったが、既に別の客人の専属侍女になったことがある人たちだ。イネスは噂に聞いていただけだったが、先輩侍女の話のように強烈な客人も少なからずいるのだろう。この先また女性の客人が来たとき、そんな人じゃなければいいな、と切実に思う。
「あーあ、殿下も文官長様もこちらの執務室を閉めてしまわれましたし、楽しみが一つ消えちゃったわね」
「フェルナンド様の冷たい視線が受けられないのは寂しいわ」
「一度でいいから罵られてみたかったわ! 」
先輩侍女の興味の対象が今度はリカルドとフェルナンドに移ったようだ。
「フェルナンド様は冷たくなんかありませんでしたわ。使う魔法術も一流で、それによく私を手伝ってくださいましたもの」
兄のセリオが敬愛しているフェルナンドはよく冷静冷徹だと言われているが、実際に会って話してみたらそんな人ではなかった。所詮噂は噂よね、とイネスにとってフェルナンドは侍女を気遣ってくれる優しい人だ。
ラファーガ竜騎士団の文官長という役職は団長と対をなす存在で、文官の団長みたいなものだ。そんなやんごとなきご身分のお方だというのに、フェルナンドは全然偉そうでもなければ怖くて近寄れない雰囲気でもなかった。
イネスが思わず漏らした呟きに先輩侍女はあんぐりと口を開けてこちらを見ている。
「フェルナンド様が?! 何それ初耳! ちょっとイネス、どういう状況だったの? 」
「どういうって……フェルナンド様は殿下とこの部屋に訪ねてきてくださって、お昼のお茶をご一緒されたりもしましたの。ハナコ様は私たちを使われることを躊躇っておられましたし、そういう時にフェルナンド様がお茶を入れてくださったり、ハナコ様と殿下がお話されている時も邪魔にならないようにお下がりになって、私と話かけてくださったり」
たまに自分にもお茶菓子を差し入れてくれたりとなかなかにお気遣いの人だったように思えたのだが、そんなに信じられないことなのだろうか。華子がブルックスという客人と会うことになったときや、イネスに変装する為の幻術式を施してくれたときなどは難しい魔法術を立派に維持していたとイネスを褒めてくれたりもした。そんなフェルナンドの優しさを知っている侍女が自分だけかもしれないと思うと、なんだかくすぐったくなる。
「文官長様にそんな一面がおありなんて、私も勇気を出して話しかけてみればよかったわー! 」
「意外よねー、冷静冷徹なフェルナンド様が実はお優しいなんて。あの外見と雰囲気で損をしているのかしら。まだ独身なんでしょ? 」
「恋人は仕事! みたいな方だからてっきり生涯独身を貫き通すんじゃないかって思ってたけど、案外恋人がいるのかもね」
恋人と聞いてまさかと思い、それからイネスはなんだかモヤモヤしてきた。フェルナンドの私生活は知らないが、あの優しさが誰か他の、特別な人にも向けられているのかと思うと少しがっかりする。
おかしいですわ……私、なんでこんな気持ちになるのかしら。
きっと華子がいなくなって寂しいから感傷に浸っているのよ、と思い直したイネスは、自分の仕事に専念するために未だフェルナンドの話に花を咲かせる先輩二人の声を遮断した。
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