第62話 不機嫌な先住客人
やっと帰ったわ……。
アルダーシャ・ブランディールは薄暗い部屋の中でのそりと立ち上がった。あのハナコ・タナカとか言う新しい
ハナコが初めてこの集合住宅に来たときに、どんな女なのか気になって顔を見に行った際は、絶世の美女でもなんでもないただの女のように思えた。なのに何故、彼女にはこの世界での役割りがあり自分には何もないのか。
第九王子のコンパネーロ・デル・アルマというだけで彼女の将来は安泰で、しかもうまくいけば王族の一員となれるのだから、別に無理して働かなくてもよいという夢のような人生が待っている。こればかりはアルダーシャにはどうしようもないことだとわかっていても、何故という疑問が尽きない。それは小さなしこりとなってアルダーシャの心をチクチクと刺激していた。
夜七刻近くなったしもう来ないだろう、と暗い色の分厚いカーテンを開けたアルダーシャは、窓の外に人影を見つけてサッとカーテンを閉め直す。少しだけ隙間を開けて覗いてみると、人影は二つあった。魔法術の光が灯った街灯が映し出すその人物たちは、あの女とそして警務隊士のハリソン・ブルックスとかいう男だ。何を話しているのか、笑顔のハリソンにアルダーシャは驚愕する。あの優しいミロスレイ地区隊長が、いつも気にかけていた彼は、アルダーシャいつ見ても無愛想であんな笑顔をするような人ではなかったはずだ。しかし、アルダーシャが勝手に根暗男と呼んでいるハリソンは、ハナコから受け取ったらしい紙袋の中を覗き込んで破顔していた。
「何よ、男に取り入るのがあんたの手ってわけ? 」
第九王子のみならずハリソンにまで媚びているのかと思うと虫酸が走る。アルダーシャがカーテンをギリギリと握りしめながらしばらく覗いていたところ、ハナコと話し込んでいたハリソンがふいにこちらの方へと視線を寄越したので、アルダーシャは慌ててカーテンから手を離し窓際から数歩後ずさった。
アルマだか何だが知らないけど、みんなあの女に媚びへつらってるだけじゃない。
あの第九王子殿下の愛人だからって、あの女が偉いわけじゃないのに……。
アルダーシャはまたベッドへ潜り込むと、頭から布団を被って顔を枕に押し付けた。
私ばかり苦労して、こんなの差別だわ!!
私は由緒あるブランディール家の娘なのに、なんでこんなところにいなくちゃならないの?
この国では十七歳で成人するがアルダーシャの国では大人との境界線は二十一歳だ。
アルダーシャの国での慣習を採用してくれた総務庁が、アルダーシャのために特別に認めてくれた奨学金で学術院に通っているが、来年初夏に卒業だというのに楽団への採用も決まらずにいる。アルダーシャにあるのは、元の世界でいずれどこかの御曹司と結婚するのだ、と言われ続け上流階級のたしなみとして習っていた素人技術だけだ。ハーピュラという弦楽器を弾けるからと楽師課を希望したものの、この世界にはハーピュラという楽器はなく、似たような弦楽器を見つけて渋々それを選択した。練習を続けてはいても所詮は中の中くらいでしかなく、向上心も沸かないためにそれなりの評価しかされない。あの女がどこで働くのか知らないし知りたくもないけれど、自分と雲泥の差の環境にいることが悔しくてならない、とアルダーシャはどうしようもない嫉妬を抱く。
裕福な商家で甘やかされて育ってきたアルダーシャには、働くという選択肢は、まだない。
◇◇◇◇◇◇◇
翌日の朝十刻過ぎ。
玄関の呼び鈴が鳴り目を覚ましたアルダーシャは、いつものようにお節介なチャンユラおばさんがお惣菜の『オスソワケ』を持ってきたのだろうと扉を開け、そして失敗したと後悔した。目の前にいたのは派手な髪色のチャンユラおばさんではなく、艶やかな黒髪のハナコであった。
寝起きのぼんやりとした頭でつい扉を開けてしまい、その際にうっかり昨日目の前の人物が挟んでいった紙がひらりと床に落ちる。慌てて拾ったアルダーシャだったが、多分ハナコにも見えていただろう。
しかしハナコはそれを追及することもなく、
「こんにちは、ブランディールさん。昨日引っ越してきましたハナコ・タナカです」
と言ってにっこりと微笑み挨拶をしてきた。
こざっぱりとした質の良い若草色のブラウスに茶色の薄絹のスカートという装いのハナコに比べて、こちらは寝癖のついたボサボサの髪に寝間着である。アルダーシャは全開にした扉を半分以上閉め、やっと顔が出るくらいの隙間から用心深くハナコを見た。
ほんとこの女、何を考えているかさっぱりわからないわ。
自分だったら初対面でいきなり他人の部屋に入ってきて不躾な質問をした人になど微笑んだりはしないのに、とアルダーシャの機嫌は益々悪くなっていく。
「そんなの知ってるわよ……何? 私、忙しいんだけど」
その余裕すら見える態度にいらいらする感情を隠すことなくハナコにそのままぶつけてしまった。もちろん忙しくなんかないし、今までずっと居留守を使っていたのは
だが初対面の時から失礼な物言いを続けるアルダーシャに対して、ハナコは嫌味を言うこともなく、本当に申し訳ないと思っているかのような顔になった。
「気が利かなくてごめんなさい。あの、よかったらこれ食べてください。これからよろしくお願いします」
いい子ぶって何なのよ、私が子供だからって馬鹿にしているわけ?
ハナコが差し出してきたものは昨日の夜にハリソンに渡していたような紙袋ではなくて、お洒落な模様の手提げ式の紙袋に、いかにも女性が好きそうなお菓子箱が入っていた。
「何これ……いらないわ。要件は済んだんでしょ? 私これから授業なの」
何でだろう、この女を見ているといらいらする、とアルダーシャは扉の隙間からハナコを睨みつける。
「それじゃ、お友達にでも……」
「いらないって言ってるでしょ!!」
これ以上ハナコの顔を見ていたくなかったアルダーシャは紙袋を振り払い、バタンと大きな音を立てて扉を閉めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「殿下……そろそろひと段落つけませんか? 」
昼過ぎの執務室にてそんな提案をしてきたの、は冷静冷徹な文官長のフェルナンドだ。リカルドはしばらく使用していなかったラファーガ竜騎士団本部の執務室へと拠点を戻し、フェルナンドが普段から言い含めている執務をきちんとこなしていた。その姿が意外だったのか、いつもは甘やかさないフェルナンドもつい休憩を挟もうと申し出てくれたようだ。
「まだ大丈夫だ。お前には随分と迷惑をかけていたからな。しばらくはおとなしく団長として勤務するから心配はいらんぞ」
「急に真面目になると裏がありそうで素直に褒めにくいですね」
「失礼な、裏などない」
フェルナンドと会話をしながらもリカルドは手持ちの書類から目を外すことはなく、溜まっていた決裁がどんどん片付いていく。今真剣に目を通している書類は晩夏から初秋にかけての遠征訓練の計画書だった。フェルナンドの予想では訓練指揮を副団長に任せてリカルドは王都に残ると言い出すのではないかと思っていたが、どうやら自らが指揮を取る気でいるようだ。
さらには華子が宮殿を去ってしまうとリカルドがしばらく使い物にならなくなるのではとも踏んでいたが、それもやはり見事に裏切られた。サボる、やる気がないなどということにはならなかったのでもちろんよい意味で、である。しかし、こうも張り切って執務に専念するなど気味が悪い。
「では私は休憩してきますので、団長も適当に休憩してください」
そう言い残したフェルナンドは本当にリカルド一人を残し、自分専用のカップを持って執務室から退出していった。
珍しいこともあるものだな……。
リカルドはパタンと閉まった扉を一瞬見てから計画書に赤のインクをつけた羽ペンで修正案を書き込んでいく。フェルナンドは不信感丸出しだったが、リカルドには真面目に執務をこなさなければならない理由がちゃんとあった。
週末に余計な執務をしなくてもよいよう、第一星日から第五星日までに書類をある程度片付けなくてはならないのだ。それはひとえに華子との週末を過ごすため、という何とも自分勝手で私的過ぎる内容だったが、慣れない一人暮らしで疲れきってしまうだろう華子を一人にするわけにはいかない。せめて慣れるまでは自分が一緒にいてやりたいという庇護欲が溢れ出た結果である。
「そうだ、今日はきちんと家に帰るとしよう」
昨夜の伝言でのやり取りでは、華子は既に
『火加減が難しかったですけど、なんとか煮込み肉団子とスープを作ってみたんです。味は家庭の味、だと思います……今度リカルド様に作って差し上げたいです』
嬉しそうな声の華子にすぐさま是非に! と返したリカルドは、自宅の竈を華子にも扱えるようにしておかなければと思いつく。
華子が気を使うだろうから週末は使用人を減らした方がよいだろうか……いや、今はこれを仕上げることに集中せねば。
リカルドは思考を戻し、計画書を数枚めくって訓練内容の書かれた箇所を読んでいった。毎年恒例のラファーガ竜騎士団の遠征訓練は約二週間の行程で、東西南北の地方に駐留している竜騎士たちを選抜して行われる。
今年は華子がいるので、四人いる副団長のうちの誰かに代役を頼もうかと思っていたが、引退を見据え代替わりを考えてもいるので副団長を四人とも連れて行くことに決めた。
副団長は各地の隊長も兼任しているので四人全員が不在となるのはどうかとも思って悩みに悩んだ結果、周辺諸国の情勢も安定おり問題はないと決断したのだ。その確認のために打診した際、勘の良い四人はリカルドの意図を汲み取たようで返事は全員快諾であった。来週中頃には選抜された竜騎士たちの名簿が届くだろう。
リカルドは行団訓練の項目に想定を『敗走時』と書き足してにやりと笑う。この敗走時の想定は非常に厳しい環境で自分を極限にまで追い込む必要があり、リカルドもただの竜騎士の時はこの過酷な訓練から逃げ出そうと考えたことが何度かある。斥候役はその当時の団長を筆頭に猛者ぞろいで、まさか本当に攻撃を仕掛けられるとは思いもしなかった、苦い思い出だ。
今年はその役目を自分が受け持つことにしよう……もちろん、敗走側の隊長は副団長たちで決まりだな。
久しぶりにやる気が湧いてきたリカルドは、脇目も振らず悪魔のような計画書を作り上げ、休憩から帰ってきたフェルナンドからげんなりとした表情で溜め息を吐かれたのだとか。
「何ですかこの虐待のような計画書は……うちの竜騎士たちを疲弊させてどうするんですか」
「戦争が終わって十四年、そろそろあの酷い状況を知らない世代が中堅どころになり始める頃だからな。たまにはこういう訓練も必要と思うのだが」
「それは確かにそのとおりですが、何も殿下が斥候役をしなくてもよろしいではないですか。しかもヴィクトルまで連れて行くとか、まさに悪鬼の所業ですね」
「そうか? 俺が冥界の使者とか呼ばれていたのは随分前のことだ。もうそんな体力はないから安心しろ」
「あのヴィクトルを御せるのは今のところ殿下しかいないという事実はどうご説明するつもりですか? とりあえずこれとこれとこれは削除します」
「冷静冷徹な文官長様がどうした。何か悪いものでも食べたのか? 」
「竜騎士が使い物にならなくなるよりましですよ。あと、これも却下」
「ぬおっ、それまでか……最近の若い者は軟弱だな」
計画書の添削を終え満足げなフェルナンドに対し、不満げなリカルドがいつまでもぐちぐちと文句を言っていたらしい。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「そうか、流石に気がつかれたか」
ガチガチに緊張している総務庁の事務官を一瞥し、フェランディエーレは抑揚のない声で淡々と語る。
「あの娘が異界の客人であるのか、甚だ疑問だが……陛下の心眼は絶対だ、信じざるを得まい」
「しかし閣下。第九王子殿下のコンパネーロ・デル・アルマであるということは事実なのですか? この国に大量の不穏分子を招き入れることに繋がるのでは」
議会員のパンディアーニ中位がおどおどとしながら尋ねる。異界の客人がコンパネーロ・デル・アルマなど、この世界では初めての事例だと言われていた。非公式に各国に問い合わせても、そのような事例はかつてなく、パンディアーニにはどうにも信じられないのだ。
フェランディエーレはパンディアーニを見ると、感情の見えない目を瞑る。しかし、その眉間には深い皺が刻まれていた。
「アルマを呼ぶ虹色の印が確認されているのだ。出戻ったのか、それとも真実、異世界の魂と殿下の魂が半分に分かたれたて再び出逢ったのか。一体何故、今さら来たのか、神のみぞ知り得るのだろう」
反客人派の見解としては、ハナコ・タナカについては監視を続けるべき、と意見が一致している。先日、客人証明書で紋章を刻む際に、こっそりと『追尾』の魔法術を入れ込んでいたのだが、早々に看破されてしまった。翌朝には猛抗議を受け、のらりくらりと躱したばかりだ。
しかしそれも想定の内だ。あの魔法術に長けた第九王子殿下が常に側にいる限り、あの娘をどうこうできる輩などいないだろう。ついに宮殿を出て、忌々しい専用住宅に住むことになったようだが、あの建物にも強固な結果が施されている。
「早急に、次の手を」
「は、はい! 」
フェランディエーレがさっと手を振ると、総務庁の事務官は慌てて退出した。残っているのは反客人派の数名の者だけだ。
「さて皆様方、どう見ますかな」
「どうもこうも、徹底して不審点を調べ上げるべきです」
「王族に直接関わる客人などを、何故こうも容易く受け入れるのか……再度議題にすべきですよ」
「このままおとなしくしていてもらいたいものです。オルトナの厄災の二の舞いにならぬともかぎりませんからな」
「我らの見解は変わりませぬ」
「正式に客人を監視し、行動を制限する法案を通しましょう」
客人に対する不満を口々に出し始めた議会員たちを尻目に、フェランディエーレは口端を歪めただけで、後は思案するようにゆっくりと目を閉じた。
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