第61話 始まった一人暮らし

 引っ越し当日。

 宮殿を出るときは意外とあっけなかった。

 朝食の後に部屋の掃除をし、ドロテアたち三人の侍女と休憩を取っている最中にリカルドが迎えに来て、初めて華子はもう出発する時間になっていることに気がついた。急いでお茶を飲み干し、食器を下げようとしたところでドロテアたちから制止される。


「ハナコ様、それは私たちの仕事ですから」

「そうでごさいますよハナコ様。こんなときくらいは甘えてください」

「結局侍女わたしたちの使い方に慣れることはございませんでしたわね」

「あ、みんな……もうっ」


 テキパキと食器を片付けられてしまった華子は、手持ち無沙汰になったので最後に残ったテーブルクロスを畳んでいると、リカルドがくすくすと笑いながら近づいてきた。


「そういうところは相変わらずですな。準備はお済みですか? 」

「荷物はあそこにあるバッグだけです。あ、一応貴重品が入っているので私が持っていきますから」


 たかがバッグ一つをリカルドに持たせるわけにはいかないので華子は先に釘を刺した。



 少しの荷物の入った小さなバッグをさげて、いよいよ住み慣れた部屋を出る頃には、鼻の奥がツーンとしてしまい泣きそうになった。なんとか持ち直して、三ヶ月半の間アマルゴンの間を警備してくれていた近衛騎士たちに挨拶をする。今日の担当はエンリケという騎士で、柔和な顔のエンリケは華子にお幸せに、と挨拶を返してくれた。

 ドロテアたちとはここでお別れなので、それぞれにハグをして笑顔でまた会いましょうね、と挨拶をすると、涙もろいイネスが昨日に引き続き泣いてしまった。

 リカルドは正門を開けてくれると言ってくれたが、仰々しくしたくなかった華子は使用人たちの通用口からこっそりと出て行く。その途中でいつも美味しい食事を用意してくれていた副料理長が追いかけてきて、フロールシア料理の手書きのレシピを渡してくれた。


「ハナコ様、ご所望のものです。我が家の母の味でごさいまして、調味料の種別も記載してありますので参考になればと。宮殿の料理にも劣らない秘伝の味を是非ご堪能くださいませ」

「ありがとうございます! アロンソ副料理長のお家の秘伝の味……私に再現できるかしら」


 フロールシア料理は美味しいが、華子はまだ一人でこちらの食材を調理したことがなかったので簡単なフロールシア料理のレシピが欲しいと言っておいたら、なんとも凄いものをいただいてしまった。ありがたい申し出だっので、アロンソ副料理長から受け取ったレシピ集を大事にバッグにしまう。

 他に見送りに来ていた侍女長のフリーデに向かい深々と頭を下げると今度こそ本当に宮殿を後にする。昨晩たくさん話しをしたので今は何も言うことはない。それに、今何か言葉を発しようものなら絶対に泣ける自信があったので、華子は迎えに来ていた馬車に乗るまでずっと無言を通すことにした。


「名残惜しいですか? 」


 付き添いで馬車に乗り込んで来たリカルドが華子の表情を見て問いかけてくる。


「色んなことがありましたから……少しだけ」


 もう堂々と宮殿内を闊歩する機会もなく、今朝方最後の散歩のときに立ち寄った厩舎で、仔馬のピノにお別れもしてきた。随分と成長したピノはやんちゃ盛りを過ぎてきたようで、あまり我が儘を言わなくなっていた。それでも華子が立ち去る際にはキュルルキュルルと鳴いて柵をガタガタと蹴っていたピノが、馬番がたしなめると素直に言うことを聞いていたのだ。もうあのつぶらな瞳の仔馬にも会えないのかと思うと胸がきゅーっと締め付けられるようで切なくなる。

 それにいくら友達になったとは言え、毎日顔を合わせていた侍女たちともしばしお別れとなり、寂しさは募る一方であった。


「華子、今夜も伝言を飛ばします」


 そんな華子の心中を察してか、リカルドが黒い妖精猫ティエラを取り出して見せる。すると慰めるかのように黒い妖精猫が華子の肩にとまった。ここのところ毎晩のように妖精猫でやりとりをしていたので、華子もだいぶコツをつかんできた。しかしやはり、実際に会う方が数十倍もいいに決まっている。


「お待ちしてます。リカルド様との夕食もしばらくはお預けですからね」


 晩餐の際に今日一日の報告をしていたその習慣も、これからは基本的に週末のみとなる予定だ。それもリカルドの都合に合わせるので毎週末とはいかないだろう。


「生活に慣れるまで色々と気苦労も多くございましょう。わからないことがあれはどんな些細なことでも構いません、いつでも遠慮なく申してくだされ」

「ありがとうございます。でもきっと弱音なんて吐く暇もないくらい忙しくなりそうなんです。勤務は来週からなんですけど、学士連の若手職員を中心にタイピング教室を開くことになってまして。明日には打ち合わせに行かなくちゃいけないんですよ」

「あそこは研究者ばかりで事務官は常に人手不足ですからな。先は長いのですから無理は禁物ですぞ」


 華子は準行政職員という雇用形態にあてはまり、勤務は朝九刻から夕方四刻まで、基本は第六星日と第七星日は休みとなっている。ただし、第二週と第四週の第六星日は朝九刻から昼一刻まで仕事をすることになっており、いわゆる半ドンの日がもうけられていた。

 ちなみに研究職につく者たちはフレックスタイム制で勤務しているようで、学会の発表が近い者やブエノ局長のように研究に命を捧げている学者たちは、常に学士連事務局で寝泊まりしているらしい。そんなわけで事務官として働く者たちも、ついついそれに付き合って残業してしまうのだと聞いていた。


「働いた分だけきちんとお給金をいただけるのですから頑張ります。私の国なんて大不況で、残業代なしとか当たり前でしたから。それを思えば凄く恵まれた就職先だなって思いますね」

「やれやれ、華子はやはり仕事中毒のようですな……それでも健康があってこそですから、休みの日はきちんと休んでください」

「もう私は子供じゃないんですから! リカルド様は心配性ですね。週末はリカルド様のところでゆっくりしますから大丈夫です」


 それでも生活パターンがガラリと変わるので油断は禁物だ。宮殿では様々なイベントがありながらも料理は自分で作らなくてもよかったし、身の回りのことはすべて侍女たちがしてくれていた。

 とりわけ洗濯に至ってはほとんどまかせっきりであったので、新しい部屋に備え付けてある洗濯機のような魔法具を使うのは実は初めてだったりする。華子がまず何から手をつけるか頭の中で段取りを確認していたところ、馬車が官公庁街に差し掛かかった。


「華子、落ち着いたら近くの港町まで旅行に行きませんか? エスプランドルという港町なんですが、海産物が美味しいんです。華子は海産物が好きでしょう? 」


 王都セレソ・デル・ソルでは運河があるので川魚を食べるが、海の幸は乾物やオイル漬けなどはいまいち新鮮味にかけるものだった。市の立つ日には氷漬けされた海産物が飛ぶように売れ、その日は宮殿の料理のメニューも海産物を使ったものになっていたので華子はそれを楽しみにしていたのだ。醤油や味噌があったらいいのに、と思っていた華子にとって、たまに出てくる海産物 –––– 青魚の塩焼きは懐かしい味であり、その他の料理に目もくれずきれいに食べていたのをリカルドは覚えていたらしい。


「覚えていてくださったのですね! でも旅行なんて、リカルド様は大丈夫なのですか? 」

「二、三日くらいは都合はつきます。まあ、それにはフェルナンドを怒らせないようにしなければなりませんが」

「えっと、頑張ってくださいね。あの、私もその港町に行けるようにバリバリ働きますから! 海辺の町には魚醤という調味料もあると本で読みました。故郷では海産物をよく食べていましたから、楽しみです」


 リカルドと笑みを交わした華子は、外の景色をちらりと確認してからリカルドにそっと顔を近づける。あと少しで官公庁街を抜けて住宅街へと入っていく。少しかないのであまりベタベタはできないが、この甘い雰囲気を楽しみたい。


「リカルド様……」


 リカルドが一瞬で真面目な表情になり華子のおとがいに手をかけると、華子は目を閉じて口付けをねだった。


「華子、私はいつでも傍におります」


 リカルドの温かい唇の感触に溜め息を漏らした華子は、ガタガタと揺れる馬車の中で何度も甘く情熱的な口付けを受けたのだった。



 集合住宅から少し離れたところで馬車が止まり、華子がバッグを持って出てくる。騒ぎになってはいけないのでリカルドはここまでだ。


「では華子、また今夜」

「はい。また今夜」


 なんだか名残り惜しいけれど、こんなところでグズグズしているわけにはいかない。リカルドを乗せた馬車が走り去ると同時に、華子に気がついた福利厚生課のロペス事務官が管理人室から出てきた。


「意外と早かったですね。今日はこれから商店街まで行きますけれど、お荷物はそれだけかしら? 」

「こんにちはロペス事務官。他の荷物は運んでしまってますから、今日はバッグだけなんです」

「一度部屋にあがりますか? 」

「いいえ、このままで大丈夫です。お金が少しと部屋の鍵だけしか入ってません」

「それは手際が良いですね。では少し暑いですが歩いていきましょう。この周辺のことをお教えしますわ」


 集合住宅から一番近い西地区の商店街まで出掛けながら、ロペスは通りの名前や治安情報、医療機関や手軽で美味しい料理屋などを説明してくれ、華子はそれを聞きながら手持ちの地図に書き込んでいく。ロペスが特に惣菜屋の情報に詳しいので、何気なくその理由を聞いてみたところ、仕事が忙しい時は惣菜屋をよく利用していると恥ずかしそうに話してくれた。ロペスの夫は警護騎士をしており訓練後などは食べる量が半端ないらしく、仕事で疲れて帰ってきてからそんな大量に料理などできないロペスは半分を惣菜で賄っているのだそうだ。

 華子も今のところ自炊するつもりでいたが、学会シーズンになると事務官の仕事も忙しくなりそうなのでそんなときは惣菜屋を利用しようとチェックを入れる。


「あの、閉店前割引きとかあるんでしょうか? 」


 狭いアパート暮らし時代にも、スーパーの売れ残りの惣菜のお世話になっていた華子は思わず聞いてしまう。するとロペスは少し驚いたような顔をしてから次には笑い、こっそりと教えてくれた。


「貴女、この国で立派にやっていける要素を持ってるわね。売れ残りの狙い目は夜七刻を回ってからが勝負よ。私の一押しはここと、ここのお店……」


 地図に書き込んでくれているロペスに感謝しながら、華子は惣菜に頼り過ぎて栄養失調にならないように気をつけようと密かに誓った。


 ロペスと一緒に商店街で買い込んだ食材を保冷庫に詰め込んでから、恐る恐るかまどを使って料理に励んだ華子は、ひと段落ついたのでそろそろ引っ越しの挨拶をしようと思い立つ。まずは同階に住むブランディールの部屋を訪ねることにして、何度かノックして声をかけてみたところ留守のようだった。とりあえず書き置きを扉に挟んでおく。引っ越し蕎麦の文化はなくとも菓子折りくらいはと用意しておいたのだが、夕方六刻を過ぎても室内から灯りが漏れている様子さえ伺えなかった。

 ならばと今度は一階に住むブルックスの部屋を訪ねようとして、華子は薄暗くなってきた通りからこちらに向かってくる人影を見つける。


「貴女はミズ ハナコ?! なんでこんな時間に」

「よかった! やっと会えましたね、ブルックスさん」

「あ……もしかして引っ越しは今日だったんですか? しまったな、明日とばかり」


 世話役のチャンユラ夫妻から聞いていたのだろうが、間違って覚えていたらしい。慌てて駆け寄ってきたブルックスを見ると、何故か目の下にくまを作っていた。


「お仕事が忙しいみたいですね」

「今日は非番のはずだったんですが、運悪く今朝方に事案が入りまして。手続きやらなんやらで結局こんな時間になってしまいましたよ」

「お務めご苦労様です。お疲れみたいですから手短に、えっと引っ越しの挨拶に来ました。これからよろしくお願いします」


 華子がブルックスに少しだけ豪華なお惣菜が入った袋を差し出すと、受け取ったブルックスが口笛を吹く。


「わお! これはありがたい。もしかして手作りですか? 」

「宮殿の方からいただいたレシピを参考にして作ってみたんですけど、ブルックスさんの口に合うかどうかは神のみぞ知る、ですね」


 大振りの煮込みミートボールに温野菜と腸詰めのサラダ、それから蓋付きカップに詰めた豆のポタージュと最初にしては頑張ったと思う。特に豆のポタージュは難しかったが華子的にはいける味だった。


「私がいただいても大丈夫なんですか?……その、貴女の恋人とか」

「これからたくさん機会はありますから。今回は味見ということにしておいてください」

「うーん、それはそれで素直に喜べないような。まあしかし、王子相手に失敗作は食べさせられませんからね。しっかり採点させていただきますよ」


 意地の悪い言い方をすると思いながらも、初めて会ったときよりもブルックスは明るくなり、リラックスしているように思える。


「うう、お手柔らかにお願いします。それと、お聞きしたいんですが、ブランディールさんはパートタイムで働いてたりするんですが? 結局一度しか会っていなくて……今日もいないみたいなんです」


 実は華子は引っ越し前にここを訪れる度に菓子折り片手にブランディールの部屋を訪ねていたが、今の今まですれ違うことすらできなかったのだ。


「おかしいな。部屋の灯りは点いていませんか? 」

「多分点いていないんじゃないかと。外から見てもカーテンが分厚いみたいでよくわからないんですよ」

「うーん。彼女とは生活パターンが違いますからなんとも言えませんが、もしかしたら学術院の友達と遊びに行っているとか」

「そうですよね。また時間を改めて訪ねてみます」


 この日、世話役のチャンユラ夫妻と配達員の仕事を終えて帰ってきたフェリペナードには挨拶することができたが、ブランディールとは結局会うことができなかった。

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