閑話 真夜中の宮殿に愛の伝言
フロールシア王国のアドリアン・アドルフォ王太子の夜は遅い。
深夜零刻頃に眠りにつく前、自室に持ち帰っていた書類に目を通していると、つい一刻あまりが過ぎていた。長い刻を同じ姿勢で座っていた所為で固まった左脚を念入りに揉みほぐした後、先に眠る妻のダリア・リリオ王太子妃を起こさないように静かに寝室に入る。しかし、先ほどまで頭を使っていたのでまだ眠くない。天蓋付きのベッドの柱に立て掛けていた杖を手に取り、アドリアンはベランダへと向かう。
夏だというのに今夜も涼しい夜だった。ベランダへ出たアドリアンは月の出た夜空に向かって大きく伸びをすると、備え付けられた椅子に座り、ぼんやりと庭の木々の間を掠め飛ぶ夜鳥たちの様子を眺めていた。
朝から晩まで馬車馬のように働いたアドリアンからは、いつもの覇気は感じられない。チチチチッと鳴きながら、花粉を食べるために飛び回っている夜鳥は、天敵のいない真っ暗な庭で無邪気なものだ。すると、だんだんと目が慣れてきたのか、アドリアンは鳥にしてはおかしな動きをする黒い物体に気がついた。
「何だあれは……」
羽が生えているのか、ふよふよと庭端を飛んでいくその何かを良く見ようと立ち上がってベランダから身を乗り出すと、それは小さな光を放っていた。
「妖精猫? それにしては小さいな」
アドリアンが子供の頃に大好きだったお伽話の絵本に出てくる妖精猫のように、薄い蜻蛉のような羽が生えているのだが、記憶しているよりも小さなそれは防御の魔法術式にも引っかかることなくとある方向へと消えて行く。
その方向とは、
宮殿に妖精猫とは珍しいこともあるものだ、と思いながらもさほど気にすることなく椅子に戻ってぼんやりしていると、またしばらくしてから妖精猫が庭にやって来た。しかも今度は白い妖精猫までいて、二匹に増えている。
いたずら好きな妖精猫が動き回るのは概ね夜中であり、太陽が顔を覗かせる朝には寝ぐらへと帰っていく。もしかしたら誰かが宮殿で妖精猫をこっそり飼っているのだろうか。
アドリアンが見ていることに気がついていない二匹は、庭から屋根を飛び越えそのまま消えていった。アドリアンはその様子を見届け、そろそろ寝支度をするかと大きく伸びをしてから部屋の中に戻ると刻を確認する。
それは紛れもなく、あの二匹の小さな妖精猫のものだ。
ううむ……警護騎士は何をしているのだ?
害悪をもたらす存在は、宮殿のあちこちに施された防御の魔法術式により排除されるはずだ。また不審な侵入者の存在を騎士たちに示すため、警告音が鳴り響くようになっている。妖精猫がこうも簡単に宮殿の敷地内に入ってきているのはどう考えてもおかしく、巡回している夜番の騎士たちに発見されていなければならないはずだが。やはり誰かの飼い猫なのだろうか、先ほど消えていった北の棟の方角へ飛び去ってしまった。
どうにも気になって眠気など一気に吹き飛んだアドリアンは、二匹の行き先を突き止めようと夜着の上から薄いローブを羽織り、すやすやと眠るダリアを起こさぬよう、そっと気配を忍ばせてベランダに取り付けられた階段を降りる。いきなり庭に降りてきたアドリアンに夜鳥が慌てて飛び立つが、アドリアンはお構いなしに妖精猫が消えた方角へと杖をつきながら歩いていった。
夜の宮殿は不気味だ。
この宮殿は建造されてから百四十年あまりと歴史は浅いが、いわくつきの調度品や部屋などがちらほらとある。夜番についていた警護騎士のホセはもう何回夜番についたかわからないくらい務めているが、しんとした宮殿の巡回が嫌で嫌で仕方がなかった。
「一階、六番異常なーし」
十七箇所ある巡回地点の内の六番目に到達したホセは、声に出して巡回表に刻と名前を書き入れる。
「残り十一箇所か……まだまだ長いな」
ホセが担当している区間は北の棟にほど近い、宮殿の行政区画だ。昼間はたくさんの行政官たちが行き交うので、人がいなくなった夜中は不思議と不気味である。
「わーれら、しーんくのとーうしをもやしー」
意味もなく警護騎士団歌を歌ってしまうホセであるが、この男、見かけによらず幽霊などの話が怖かったりする。行政区画なので迷惑になることはないと団歌を二番まで歌いきったところで、渡り廊下にある七番目の地点に差し掛かった。
「一階、七番目到達ー!! よし、さくさく行く……あん? 」
巡回表に名前を記入をしようとしたホセの目の端に、ヒラヒラとたなびく白っぽい布のようなものが映る。しかもそれは中庭にあり、さらにこちらに近づいてきているようにも思えた。
「な、なんだよあれ……っていうか人? こんな夜中に? 」
正体を確認しようとホセが魔法術の灯りを人影に向けるが、もう心拍数は最大限に跳ね上がり走った直後のようにドクドクと鳴り響く。
サクッ、ザッ、ザッ……サクッ、ザッ、ザッ……
不思議な足音らしき音がわずかに聞こえ、ホセの背筋に冷たいものが流れ落ちた。まだ幸いにもお目にかかったことはなかったが、この行政区画にも幽霊話の類いがある。その中の一つに『三本足の老人』というものがあったことを思い出したホセの背中を、冷や汗が流れた。
「まままままさかっ、まさかだよなっ?! 」
思わぬところで窮地に陥ったホセは、腰にさげた剣を抜こうと柄に手をかける。焦っているためか鞘から抜けず、ガチャガチャと大きな音が響いて更に焦った。
「ちょちょちょ、待って! だ、誰だよ、何でこんなところに居るんだよーっ!! 」
抜けない剣は諦めて今度は魔法術に切り替え、威嚇の為の閃光を放つ。しかし、それは発動しなかった。宮殿内の勤務につくホセは当然のことながら魔法術に長けた警護騎士であり、今確かに閃光の魔法術を放ったというのに、だ。
そうこうしているうちに人影は肉眼でも顔を確認できる距離まで来ており、ホセは警護騎士としての誇りにかけて、この不審者ならぬ不審霊をなんとかしようともう一度魔法術を放とうとして白っぽい布をまとった人影に目を向け、そして固まった。
「……あ、あれ? ……もしかして、王太子殿下? 」
「夜番ご苦労、驚かせてすまない」
中庭を抜けてきたアドリアンは白っぽいローブを羽織っており、杖を手にしていた。サクッ、ザッ、ザッという音は杖と足音だったようだ。相手が王太子なら魔法術が発動しなかった理由も理解できる。元々この宮殿に施された防御の魔法術式は、王族や高官を護るためのものであり、彼らを害そうとする魔法術は打ち消されてしまうのだ。
自分の不甲斐なさの所為ではなかくてよかった。
本当のことを言えば幽霊でなくてよかったとホッとしたホセだったが、今度は別の心配事がむくむくと湧き上がってきた。
「こちらにご用件がおありでございますか? 」
真夜中に一人で、しかも夜着姿とはどういう理由があるのだろうか。片膝をつき騎士の礼をしたホセにアドリアンがちらっと視線を向けるも、それよりも気になることがあるのか北の棟の方向ばかりを気にしているようだ。
「あの妖精猫はお前のものか? 」
「はっ、妖精猫でございますか? いえ、この区画では妖精猫を見かけてはおりません」
するとアドリアンは一瞬驚いたような顔をしてからもう一度北の棟の方向を見る。つられたホセもそちらを見るが、当然のことながら妖精猫はおろか、夜鳥すらもいなかった。
「そうか、妖精猫はおらんか……うむ、わかった。仕事の邪魔をしてすまなかったな。引き続き警戒を頼む」
アドリアンはなおも首を傾げていたが、ホセをねぎらう言葉をかけると北の棟の方向へと歩き出す。
「あの、お供いたします! 」
慌ててついて行こうとしたホセを制し、アドリアンは王太子の特別巡回だからよいと言い残し歩み去っていった。
「王太子の特別巡回って……何だ? 」
ホセはしばらくアドリアンの去っていった方向を見つめていたが、妖精猫を見かけたらすぐに報告しようと気を取り直して自分の区画の巡回を続けるのであった。
一方、ホセと別れたアドリアンは、ふよふよと飛んでいく妖精猫たちを追いかけて北の棟の庭先まで来ていた。アドリアンの視線の先には確かに妖精猫がいる。しかし、ホセもホセの前に会った騎士たちも、誰も妖精猫の姿が見えていないらしい。
何故自分にだけ見えているのかわからなかったアドリアンは、もしかしたらと思い至り右目を瞑ってみた。すると妖精猫の姿が消え、今度は左目を瞑ると妖精猫がちゃんと見える。左右の目で見えるものが違うのでアドリアンはさらに悩むこととなった。
まさか、親父の力が弱まっているのか?
国王のクリストバルには王の証である心眼の力がある。七年前に右目を盲いてからもその力は健在であったものの、ちょうどその頃からアドリアンの右目が不思議なものを映すようになっていた。このことはまだ誰にも告げていないが、もしクリストバルの力が弱まり、次期国王のアドリアンに受け継がれ始めているのであれば一大事だ。
右目と左目で交互に見ているうちに、もしかしたらあの妖精猫には不可視の魔法術がかかっていて、自分の右目はそれを看破しているのではないかと思い至る。心眼は真実を見る力であり、右目にその力が宿りつつあるのであればアドリアンにしか見えないのも納得がいく。
アドリアンが物思いにふけっていると、妖精猫たちはとある部屋のベランダへと飛んでいった。
そこにいたのは ––––
「ハナコではないか……」
ほんのりと明るい二階のベランダに立つ、義妹の華子の手にはあの妖精猫が二匹、ちょこんと乗っていた。遠くを見るのは苦にならないので、こういうときは老眼でよかったとアドリアンは思う。
北の棟の二階にあるアマルゴンの間は
アドリアンが渡り廊下の柱に身を寄せ華子から気づかれないように更に様子を伺うと、華子は黒い妖精猫を耳元から離し、飛び回っていた白い妖精猫を手にして今度は口元へと近づけた。
「あれは……伝言か? 」
華子は魔力が少なく簡単な魔法術しか使えないと聞いていた。耳元や口元に妖精猫をあてる仕草を見てピンときたアドリアンはにやりと笑う。あの妖精猫は伝令や伝言を運ぶためのもので、黒い妖精猫はリカルドからの伝言を運んできたようだ。華子の嬉しそうな顔がすべてを物語っている。
「なるほどな……逢引きならぬ、愛の伝言か」
仲睦まじくて何より、と安心したアドリアンは、そういえば自分たちもこうして愛の伝言を飛ばしていたな、と昔を思い出した。ダリアが女学生でアドリアンが王太子になったばかりの頃の話で、懐かしい思い出だ。
やがて返事を込め終えた華子が空に向かって二匹の妖精猫を飛ばすと、尻尾の先に灯りを灯した二匹は仲睦まじくふわふわと飛んでいく。飛ばしたばかりだというのにもう待ち遠しそうな表情になる華子を見たアドリアンは、そっとその場を離れて来た道を戻っていった。
大きな欠伸をしたアドリアンを宰相のフェランディエーレがジロリと睨む。
「殿下。昨晩は夜着で徘徊なされていたとか……」
フェランディエーレの一言にアドリアンはギクリとしたが、そのことをおくびにも出さずに逆にフェランディエーレに食ってかかった。
「徘徊とは何だ徘徊とはっ! 聞こえが悪いじゃないか。あれは眠れぬ夜の散歩だ」
「散歩もよろしいですが、王太子殿下ともあろうお方が物陰に隠れるようにこそこそとするのはいただけませんな」
「騎士を驚かせようと思いついてな」
フェランディエーレの尖った眼鏡がキラリと光り、じりじりとした圧迫感を発している。しかし本当の理由を言うわけにもいかないので、アドリアンは適当にでっち上げてうやむやにした。
「眠れないのであれば執務に回していただいた方がありがたいですな」
「お前……俺を過労死させるつもりか? まったく、何のための議会だ」
アドリアンはブツブツと文句をこぼしながらも目と手を動かし次々と書類に目を通していく。
まだまだまだまだ、親父には頑張ってもらいたいものだ……せめて、リカルドが結婚するまでは。
これで自分が国王になろうものなら確実に死ねると思いながら、アドリアンは無意識のうちに右目を瞑ったのだった。
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