第60話 宮殿最後の夜

 まとめた衣服類を新しい部屋に運び込んだ際に、華子はその他の住人と会うことになった。

 集合住宅で世話役をしているというチャンユラ夫妻は、なんと客人まろうど同士の夫婦で、夫のダーレル・チャンユラは十六年前、妻のヤハルタ・チャンユラは二十三年前にフロールシア王国にやって来たのだという。それぞれ元の世界で理髪師として働いていた偶然から意気投合して結婚したのが十三年前で、今では子供までいるらしい。

 二人とも奇抜な髪型をしていて、特にヤハルタの方は染めてあるのか黄緑の鮮やかな色合いの髪色だった。ヤハルタは昼間は瞳孔が縦になるという大きな特徴もあるので、エル・ムンドでは亜人種に近いらしい。夫妻は、西地区のメイン商店街にある貸店舗を利用して理髪店を営む傍ら、ロペス事務官と連携して集合住宅の客人たちをまとめているということであった。

 もう一人は三年前に来たフェリペナードという耳の長い男性で、エル・ムンドの北の大陸に住むという山岳部族に似た容姿を持っていた。渡航許可もおりたので、来年あたりに北の大陸へ旅行に行くのだという。彼は官公庁街で書類の配達を請け負っており、いわば華子と同じ行政職員である。


「アルダーシャちゃんは今日は授業があるみたいでお休みですけど、もう顔合わせはお済みになったのでしょう? 」


 ヤハルタの言うアルダーシャとはあの少し変わった彼女のことである。学術院の楽師課の学生だとは聞いていたが、なかなかに強烈な個性の持ち主のようだと華子は警戒していた。何よりあのドロテアが気をつけるように進言してきたのだ、何かあるのだろう。


「ここを見に来た初日に少しだけですが」

「タナカさんはあの子と同じ三階に部屋もありますから、仲良くしてあげてくださいね。若い子がいなくて彼女も寂しそうでしたから、貴女が来てくれてこっちもほっとしているんです」


 もじゃもじゃとした髪のダーレルがそう付け加えたので、無難にはい、と答えておく。華子は決して若くはないが、四十四歳のヤハルタよりは若い。


「それで、ハナコちゃんはブルックスさんと同じ世界から来たんでしょう? ブルックスさんも最近やっと打ち解けてきたことだし、どんどん話しかけてやってちょうだいね」

「彼も独身だしな。年下だって同郷ならいいんじゃないか? 」

「ちょっとあんた、ハナコちゃんに失礼だよ。ハナコちゃん、安易に考えちゃ駄目よ? 変な男を捕まえないように注意しないとね」


 どうやらこちら側の込み入った事情を知らないようで、華子は少しだけホッとした。陽気な客人夫婦はお互いに肩をバシバシと叩き合って笑っているが、真実を知ろうものなら瞬く間に広まりそうだ。そんな二人を眺めながら静かに話を聞いていたフェリペナードは、長い耳をピコピコと動かし目をぐるりと回す。


「君の世界も誰か好きな人を選んで人生を共にするのかい? 僕の国には恋人とか夫婦っていう概念がなくてさ、必要ないって言ってるんだけど、まだ諦めずに女の子を紹介してくるんだよ」

「えっ? では、子供さんとかはどうするんですか? 」

「部族全体で育てるんだよ。子孫は部族の宝物だからね。年頃になった雌が子供を産むと、ひと所に集めてみんなが世話をするんだ」


 なるほど、世界が違えば文化も生態系も異なるのだから、華子の世界の普通を当てはめてもそれは受け入れられない異文化でしかない。フェリペナードたちの種族は夫婦じゃなくても繁殖のためだけに番うのか。結局話の流れからなんとなく聞くことができなかった。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 そしてその日は本当にあっけなくやってきた。

 最後の方はお世話になった人たちへの挨拶回りでてんやわんやしたり、職場となる学士連事務局に改めて顔通ししたりと忙しく過ごしているうちに、とうとう宮殿生活最後の夜になってしまった。

 今夜は私たち全員でお世話いたします! と申し出てくれたドロテア、ラウラ、イネスの侍女組たちと共にパジャマパーティーのような夜のお茶会を楽しんでいる真っ最中である。


「ハナコ様は私が初めて専属侍女として仕えさせていただいた客人ですから、一生忘れませんわ」


 先ほどまで寂しくなりますと言って泣いていたイネスがまだ赤い目をこする。


「ほらほらイネス、そんなにこすると明日腫れてしまいますわよ」


 ラウラがイネスの目元に癒しの魔法術を施すが、そんなラウラの目元も薄っすらと赤くなっていた。ちなみに華子もドロテアも、先ほどまで鼻をすすりながら泣いていたが、今はその顔からは悲しみの感情は伺えない。華子の為に夜のお茶会を開いてくれた三人は、思いもかけず華子と友達になりたいと申し出てくれた。


「明日にはハナコ様は国賓ではなくなってしまって、私たちも専属侍女ではなくなってしまいますけど、私たちハナコ様と……その、あ、改めて、改めて……」


 感極まったように泣き出してしまい言葉を続けられなくなったイネスを引継いだラウラが続ける。


「あの、つまり、友人としてお付き合いしていただきたいのです! 私たちハナコ様からたくさんのことを学ばせていただきましたわ。ハナコ様は私たちにとてもお優しくて、粗相をしても一緒に片付けてくださったり、いつも私たちを気遣ってくださったり。それがどれほど嬉しかったか」

「そのとおりです。ハナコ様の世界の話をせがんでも嫌な顔一つせずに教えてくださったり、私たちを信頼してくださってご相談してくださったり! 侍女冥利に尽きますわ」


 ドロテアが差し出してきた両手を華子はためらうことなく両手で握り返す。


「本当に嬉しい。貴女たちがいなければとても心細くて、今みたいに前向きに考えられなかったと思うの。毎日私が眠るまでついていてくれてありがとうございました」


 ここで華子は一旦ドロテアの手を離すと、明日渡そうと思っていた包みをバッグから出し、それぞれに渡した。


「イネス、いつも素敵な衣装を選んでくれてありがとう。最初はこの年で着飾るのが恥ずかしかったけど、貴女の選んだドレスはリカルド様がよく褒めてくださったの。お父様やお兄様にもお世話になったし、ガラルーサ家には足を向けて寝られないわ! 」

「そんな、私、ただ、ハナコ様に喜んで、いただきたくて……」


 その気持ちが嬉しいのだ。侍女の中で一番年下な彼女は天真爛漫で物怖じせずに華子と接してくれた。また好奇心旺盛な彼女とのおしゃべりは、華子にとってストレスのない楽しいひとときだったのだ。そんな純真な彼女には、紅駒鳥べにこまどりの紗織物に魅力の呪いまじないを込めたより糸でカトレアの花を刺繍したハンカチーフを。


「私がいつも綺麗でいられたのはラウラのおかげね。年の所為で隠せない疲れた顔を見られなくてすんだわ。これから一人で支度しなくちゃいけないから、化粧の仕方教えてね。あと、結婚式に招待してくれたら嬉しいんだけど……リカルド様と一緒に」

「是非、是非! 殿下もご一緒など光栄ですわ! ニコラオもきっと驚きますわね! ハナコ様も、もしそのときが来ましたら、是非私を化粧係としてお呼びくださいませ」


 外務官のニコラオと遠距離恋愛中のラウラは来年結婚することが決まっている。そのことがわかってからはよく恋愛の難しさを話したり、華子が疲れたような気配を見せると顔のマッサージや手入れの仕方を教えてくれて随分と助かった。幸せな未来が待っている彼女には、刻燕ときつばめの布地に愛の呪いまじないを込めたより糸で苺の花の模様を刺繍したハンカチーフを。


「ドロテア……貴女のさりげない心遣いのおかげで平穏な日々を過ごすことができたの。泣いて寝ている私に治癒術を施してくれてたの、貴女だって気がついてたわ。貴女の入れる優しい味のお茶が大好きよ」


 経験の少ないイネスやラウラのフォローに回り、華子が過ごしやすいように一番気を遣ってくれていたのはドロテアだ。さすがは四人の客人の専属侍女を務めてきただけあって、華子は初めから滞りなく生活を送ることができた。いつも他人のことばかり気遣う彼女には天鶫そらつぐみの薄絹に縁結びの呪いまじないをかけたより糸で藤の花をモチーフに刺繍したハンカチーフを。

 驚いたような顔をする三人に、照れ隠しでこの世界で初めてできた友達だもの、と華子が言ったとたん、ハンカチーフを握り締めた三人が泣きながら飛びついてきた。


「ハナコ様」

「嬉しいです! 」

「ありがどうございまずぅぅぅ 」


 こんなに喜んでもらえたのなら三人の目を忍んでチクチクと刺繍に励んだ甲斐があるというものだ。学士連で呪いまじないの刺繍を習い、ひと針ひと針縫ってよかった。高価な生地でもハンカチーフの大きさなのでそう高くはないが、学士連で資料整理を手伝った際の報酬ではそれが精一杯だった。


「イネスったら鼻水出てるわよ。折角だからハンカチーフを使ってみない? 」


 先ほどから涙と鼻水の絶えないイネスにそう促すと、もっだいないがら自分ので拭ぎまず、とイネスが既にくしゃくしゃになった自分のハンカチーフで鼻水を拭う。国賓と侍女という間柄から改めて友達となった華子たちがわいわい騒いでいると、アマルゴンの間にノックの音が小さく響いた。まだ夜の八刻だがこんな時間に誰だろうと思い扉を開けた華子の前に、長身の女性が一人立っていた。


「ハナコ、居るかいって、ハナコじゃないか。侍女はどうしたんだい? 」

「イェルダ様! 」


 警護騎士の上衣を脱ぎくつろいだ格好になったイェルダが入ってきて、涙でぐちゃぐちゃになった侍女たちを見て目を丸くする。


「どうしたんだい三人とも……っていうかハナコまで」

「心配はございません。私たちたった今友達になったばかりなんです」

「友達。なるほど、それはいいことだね。私もハナコの友達に立候補しようかな? パルティダ侍女長から聞いてさ、夜のお茶会なんて乙じゃないか。私もまぜて貰っても大丈夫かい? 」


 イェルダが魅惑のお菓子箱を見せると、華子たちの目がキラリと輝いた。


「どうぞどうぞ! イネス……は無理かしら、ドロテア、イェルダ様にお茶を……ってやだわ私。私が入れればいいのよね」


 ついいつものようにお茶を入れてもらおうとして華子ははたと思い直す。これからは一王国民となるのだし、ドロテアたちと友達になったばかりではないか。


「ハナコ様、私がやりますわ! 」


 すかさず手を出してきたドロテアとラウラをやんわりと制しながら、イェルダのために、そして三人の友達のために新しくお茶を入れた華子は得意そうに言った。


「私の入れるお茶も悪くはないのよ。リカルド様お墨付きですもの」


 宮殿での最後の夜が更けていく。

 夜中まで灯りがついたアマルゴンの間ではお菓子を食べたりお茶を飲んだり、そして誰かがこっそり持ってきた果実酒を嗜んだりと夜が更けるまでおしゃべりに花を咲かせたのだった。



 侍女たちを三人がほろ酔い気分で控え室に戻り、イェルダがいとまを告げた後、華子はベランダに出て夏の夜風に当たっていた。果実酒は強くはないが、今夜は雰囲気に酔ったようだ。


「ハナコ様、眠れないのですか? 」


 華子が振り返ると静かに立っていたフリーデが水の入ったグラスを差し出す。


「ごめんなさいっ! すぐ中に入ります」


 華子が戻ろうとするのを制したフリーデが珍しく華子の隣に並んだ。


「楽しいお茶会だったようですね」

「あ、あの……どうか三人を咎めないでください」


 果実酒を飲ませたのはイェルダだが、華子も黙認したので同罪だ。酔いの醒めた華子にフリーデはクスリと笑うと、何のことですかととぼけてみせる。実はイェルダから連絡を受けていたので果実酒のことは知っているので、今夜ばかりはそれを咎めようとは思っていなかった。


「あの、フリーデさん。本当にありがとうございました」


 月並みな言葉しか出てこないことがもどかしく、新たに言葉を発しようとしても続かない。若い侍女たちと違ってフリーデは少し離れたところから華子を見守ってくれており、率先して関わらない代わりに節目節目ではきちんと華子に助言をくれたりバックアップに回ってくれたりと、常に陰で支えてくれていた。リカルドの乳兄妹でもあるためか、ときにはやり過ぎなリカルドを叱責してくれたり、アルマが暴走した際には華子の味方になってくれてもくれたのだ。凛としていながらも温かい雰囲気のフリーデは、華子が知らない母親のように思えて、思わず『お母さん』と言いたくなることさえあった。


「こちらこそ、義兄上あにうえを救っていただき、感謝申し上げます」


 フリーデが華子の前でリカルドのことを義兄と呼ぶのは初めてのことだ。


「義兄上は常に満たされることはありませんでした。ラファーガ竜騎士団長としても第九王子としても、そしてただのリカルドとしても」


 リカルドの隣でその姿を見ていたからわかる決して満たされることのない焦燥感は、やがて大きな失望と諦めをもたらした。長い冬の時代を過ごしてきたリカルドは今、華子という春を呼ぶ魂により再び芽吹いたのだ。


「どうか大切になさってくださいませ。義兄上とハナコ様は二人で一つの魂を持つ、類稀なる伴侶なのです。どんな困難でも二人であれば打ち勝つことができましょう」


 華子がとんでもない人物だったらどうしようと危惧していたフリーデは、しかしながら謙虚で誠実で、少し臆病な客人を見て何十年かぶりに胸のつかえが取れたと感じた。この女性であればリカルドは幸せになれる、と珍しく直感を信じたフリーデに間違いはなかったと言えよう。


「二人だけではありません。ここに来てから少しの間にたくさんの方々に助けていただきました。晴れてこの国の民になれたのも皆様のおかげなんです」


 華子がフリーデを真っ直ぐ見たのでフリーデも華子を真っ直ぐと見返す。迷いのない黒い目がフリーデの目を捉えると、その目は涙で潤んでいた。


「でも、皆様私に甘い人たちばかりで……できればもう少しフリーデさんから叱咤激励していただきたいなって」


 そんな華子の言葉にフリーデはまったくこの子は、と溜め息を吐きそっと華子を抱き締める。華子はフリーデからの突然の抱擁に身を硬くしたが、フリーデが華子の頭を優しくなでるとぎゅっとしがみついてきた。


「貴女はとても強くて優しい子ね。でもね、なんでも一人で抱え込んでは駄目よ……義兄上は男ですからね、女にしかわからないことだってたくさんあるわ。迷ったり、自分がわからなくなることだってあると思うけれど、その時は私のところにいらっしゃい。伊達に五十年以上生きてませんからね、助言の一つくらいはしてあげれると思うわ」

「フリーデさん……ありが、と……ござっ」

「私は、貴女が幸せになるためであれば、なんでも致しますよ」


 そう、貴女は幸せにならなければならない人だから。

 誰よりも、その権利を持っているのだから。


 フリーデの声にならない想いが、華子の嗚咽に溶けていく。

 満天の星空の下、ベランダでひとしきり泣いた華子はフリーデから治癒術を施してもらい、朝までぐっすり眠ったのだった。

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