第59話 引っ越しの準備

 宮殿から去る日まであと四日と迫ったある日、ついに華子の元にフロールシア王国が発行する客人まろうど証明書と渡航許可証が届いた。

 わざわざアマルゴンの間まで出向いてくれた総務庁の事務官からその二つを受け取った華子は、感慨深げにフロールシア王国の紋章の透かし彫りが浮上がった証明書を眺める。


「おめでとうございます。これでタナカさんは晴れてフロールシア王国の国民として受け入れられたことになります。様々な福利厚生を受けることができるようになりましたので、詳細はこちらの説明書類をよくお読みください」

「こちらこそありがとうございます! フロールシア王国に恥じることのないよう努めさせていただきます」

「良い心がけでありますね。それと重要なことなので先に伝えておきますが、そちらの渡航許可証は一ヶ月以内の旅行に限られます。他国で働くには一年の期間を置かなければなりませんのでご注意ください」


 他国へ行くなんて滅相もございません、と答えたくなるのをぐっとこらえて了解の意を告げると、事務官は満足そうに微笑んだ。

 華子に関してはコンパネーロ・デル・アルマという特殊な事情からリカルドが一切を受け持っていたが、本来ならば客人に関することは総務庁が管轄している。この事務官とは今日初めて会ったのだが、実は裏ではこの人が華子を担当してしたらしい。

 先に説明書類を読めというので十枚程度の書類にくまなく目を通す。フロールシア王国国民としての義務が書かれた書類には、要約すれば王国法に従い、王国に対する忠誠を誓うように書かれていた。


「この約束事を遵守できない場合には権利を剥奪されます。そして受け入れることができないとおっしゃるのであれば、国民として認めることはできません」


 その場合は国民としての自由はなくなり、保護とは聞こえの良いやり方で軟禁されるのだという。一見非常に聞こえるが、国益を考えれば致し方ない処分である。もちろん華子は自由を奪われたくないのでこの国の方針に従うつもりだ。学者との講義の時間にある程度は法律について学んでいたが、特段人権を侵害されるようなものはなかった。

 王族に対する不敬罪という見慣れない項目もあるにはあるが、無礼を働かなければいいだけだ。なまじ王族と関わり合いのある華子は、不敬罪についてもっとよくリカルドから聞いておこうと思った。


「大丈夫です。国の不利益になることはいたしません」

「ではこの証明書に署名を、こちらの文字でお願いします」

「はい」


 華子が優雅な孔雀色の羽根ペンにインクを浸して丁寧に署名をすると、インクが僅かに光った。魔法術のかかった特殊なインクなのだろうか、何度見てもこういった魔法具に感動してしまう。


「右手をこの紋章にかざしてください」

「えっと、こうですか? 」

「手のひらに紋章が入るように……そうそう、そのまま証明書に手のひらをつけて」


 事務官に言われるままに華子が手のひらを証明書にくっつけると、不思議なことに証明書全体が光り始めた。すべての文字が青白く輝き、そして華子の右手甲にフロールシア王国の紋章が透かしたように写ると、次の瞬間には証明書に書かれた文字が華子の手のひらに吸い込まれていった。


「あれっ、そんな……真っ白になっちゃった! ごめんなさいっ!」


 すっかり白紙になってしまった客人証明書に華子が慌てると、事務官が華子の右手を掴み念入りに確認する。


「しっかりと刻まれていますね。フロールシア王国の客人証明書はその身に刻むことになっているのですよ。特殊な魔法術で確認できるのです」


 事務官が小さく何かを唱えると、右手甲に消えてしまったフロールシア王国の紋章が現れた。そう言われてみたら何日か前にそんな説明を受けたような気がした華子は、忙しさにかまけて他にも大切なことを聞き逃したのではないかと心配になる。


「昔は紙で渡していたのですが、結構失くす方が多くて呪いまじないを刻むことになったのです。生活に支障はありませんし、持ち運ぶ必要もありませんから便利ですよ?」

「技術の進歩って凄いですね」


 華子の何気ない一言に、事務官はことのほか嬉しそうに魔法術庁の職員の努力の結晶ですと付け加えた。


 呪いはちょっとびっくりしたけど、これで私もフロールシア王国の国民なのね。前までしがない三十路女だったのに、何という不思議な巡り合わせかしら。


「この紋章って消えちゃったりとかしないんですか? 」


 もし突然消えたりなんかしたらどうすればいいのだろうか。


「今のところそのような報告はあがってきていませんが、体質の所為か何人かの客人は定着化するのに何日かかかったとありますね。もし万が一消えた場合は総務庁までもう一度手続きにきてください」


 しばらく経って、現れていた紋章が消えてしまった手の甲を撫でながら、華子はもう一度事務官に礼を述べた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 事務官も退出し、改めて引っ越しの準備を始めた華子は最後の荷物となる衣服を選ぶ作業へと移った。

「ハナコ様、本当に持って行かれないのですか? 」

「ええ、あの部屋には入りきれないし、それに贅沢過ぎるわ」

「では、せめてこれとこれとこれと、あっ、この白いドレスも思い出深いですわね、それにこの藍色のドレスにこの深緑のと、これとこれとこれを! 」


 イネスが見繕ったドレスだけで一部屋の半分ほど占領しそうな量である。こんなにあったのね、と改めて見ると凄い量だったが、それでも普段はドレスシャツに長スカートだけという簡素な服装に努めていた為、少ない方だった。


「駄目よ、そんなにいただけないわ。謁見の時のドレスと雨乞いの舞のときのドレスだけで十分よ」


 謁見用のドレスは華子に合わせてしつらえたいわゆるオーダーメイドのドレスなので、他の者が着れるものではない。一般人が着る機会などないだろうほどの豪華な代物は分不相応に思えたが、そういう理由があった。そして雨乞いの舞の衣装はリカルドからプレゼントされたものだし、機会があれば来年も着たい。


「で、ではせめて普段着は持って行かれてくださいませっ! 悪いものではございませんわ。このままお仕事に行かれても大丈夫なものですから」


「そうね。そちらは半分だけありがたくいただいて行くわ」


 華子の言葉にホッとした表情になったイネスは、気が変わらないうちにとでも言うようにいそいそと六着ほどあるドレスシャツと長スカートをまとめ始める。買えば相当するだろうと思った華子は作業を見守る。一応国から支給された引っ越し資金があり、それで揃えることも可能であったが、節約できるところは節約したかった。


「ほんと、贅沢になったわよね……」

「えっ? 」

「ううん、何でもないの。私はこっちの下着類を詰め込むわね」


 下着についてはすべて持って行くしかないので、華子は春風の絹糸と呼ばれている高級な生地の下着類を布袋に詰め込んでいく。他のドレスは浄化すれば他人が着ても大丈夫だが、流石に下着類は他人につけて欲しくはない。イネスが言うには大概の女性客人が衣服をほとんど持って行くのです、ということらしい。これだけの量をあの部屋の何処に置くのか疑問である。華子の前にはあのブランディールが最後の女性客人であり、彼女もほとんど持って行ったということであった。


「ハナコ様、そちらがまとまりましたらこれで衣服はおしまいですわ。少しご休憩いたしませんか? 」


 長スカートを詰め終えたイネスが提案してくれて初めて刻標ときしるべを見た華子は、意外に刻が経っていることに驚いた。


「もうこんなに! ごめんねイネス、たくさん手伝ってもらって申し訳ないわ」

「ハナコ様のお荷物は少な過ぎるくらいですわ。私の寮の部屋にある物よりも少ないのではないでしょうか」

「そんなことないわよ。調理器具とかお皿とかそれからお布団セットとかも買ったし、細々したものを合わせたら結構な量になったわよ? 」


 各種手続きやらリカルドの家族とのお茶会やらの合間を縫って、一人暮らしに必要なものを買い揃えてすでに部屋に運んであるが、若草色のカーテンを取り付けただけでも殺風景だった部屋が明るくなった。あの部屋に王子であるリカルドがそうそう訪ねて来ることはないだろうが、何も来客はリカルドだけとは限らないので一応セットで買った食器もある。テーブルと椅子は備え付けてあったので、あとはラグなんか欲しいかもとも考えたがそれは働いてお金を貯めてからでもよい。


「お買い求めになられたものは生活必需品ではないですか。本当に宝飾品はお持ちにならないのですか? 」

「私にはこれがあるからいいの」


 今日も纏め上げた髪に飾っているセレソの花の髪飾りに手をやった華子に、イネスはすぐに食いついてきた。


「リカルド様からの贈り物でございますね! ハナコ様の黒髪にはセレソ色が本当によくお似合いになりますもの……」

「イネスはまだ良い人はいないの? そういえばヨンパルト君を最近見ないのだけれど、どうしたのかしら」


 イネスに気があるとおぼしき竜騎士のヨンパルトは、リカルドの執務室に書類を運ぶ役目をおっていたはずだが最近どうしたのだろうか。


「ヨンパルトは騎乗訓練に入ったのですわ。なかなか頑張っているみたいですの。私たちの集まりにも参加できないくらいにしごかれているようですけど、父曰く意外と骨のある奴なんだそうです」

「騎乗訓練ってことはドラゴンに乗るのね。勇気あるわね、彼」


 高い所が苦手な華子は聞いただけで身震いしたくなる。リカルドにも言えることだが、よくあの不安定なドラゴンの背に乗って飛べるものだと思う。異世界ダイブの興奮から最初にヴィクトルに乗って飛んでいたなど、今となっては信じられない。


「さすがに魔法術に長けている騎士でなければ無理ですわ。ヨンパルトは候補生に選ばれただけです。竜騎士はドラゴンの持つ豊富な魔力を引き出すことで空を飛びますの。私の兄も一度は竜騎士を目指したのですけど、ドラゴンとの持つ魔力との相性が悪くて諦めたと言っておりました」

「兄って警務隊士のセリオさん? 」

「はい、一番上の兄のことですわ」


 華子はユナイテッド・ステイツ出身のブルックスと面会する際ににお世話になった、若く麗しい警務隊士の青年を思い浮かべた。今はあんなに無理して会わなくてもよかったんじゃないかな、と少しだけ反省している華子であったが、あのときは先の見えない状況だったし、と思い直すことにする。


「魔法術に長けていても相性は大事なのですわ。フェルナンド文官長も兄と同じ理由で竜騎士を断念したと聞いております。ですから、あのヴィクトルをやすやすと乗りこなす殿下は天性の竜騎士と言えるのです」


 そんな殿下と異世界から来たアルマ様を間近で見ることができて幸せですわ、と続いたのだが、華子はそれには返事を返さなかった。イネスが言うには、巷ではそんな題材の演劇まで登場しているらしく、当事者としては複雑で何よりも恥ずかしい。


「イネスってば他人の恋話よりも自分の恋話を追うべきじゃないかしら」

「ごきげんようハナコ様。イネスに恋話など、そんなものがどこに転がっているのですか? 」

「フェルナンド、じわじわ冷気を出すな! ハナコ、差し入れを持って参りましたぞ」


 本気でヨンパルトが可哀想になってきた華子に、いつの間にか来ていたリカルドとフェルナンドが声をかける。


「あらやだ、こんな格好で申し訳ありません! イネス、すぐにお茶にしましょう。貴女も一緒に、あら? 」


 汚れ防止の前かけを隠すように外した華子が、リカルドから差し入れのお菓子箱を受け取ると、イネスはフェルナンドと一緒に侍女の控え室に消えていくところであった。リカルドの言うとおり、ほんのわずかだが感じとれる魔力の篭った冷気に首をかしげる。


「フェルナンド様、ご機嫌ななめですか? 」

「つい先ほどまで上機嫌でしたが、まああれの機嫌など山の天気と同じですので気にする必要はございませんよ」


 とは言ったものの、フェルナンドの機嫌が急降下した理由に心当たりのあるリカルドは、華子に気づかれないように溜め息を吐く。実は先ほど華子とイネスがヨンパルトの話をしていたときから部屋にいたのだが、間違いなくその話題が原因であろう。

 リカルドの部下であるヨンパルトは本当に努力家であり、伝令長の私的なしごきにも耐えている若き竜騎士だ。しかも最近、ドラゴンの騎乗訓練まで受けており、うまくいけば騎竜を持つ翼竜騎士となれる力を持っている。一方、フェルナンドは四十手前であり、竜騎士になることの叶わなかった文官である。


「嫉妬、とはどちらに対してだろうな……」


 二人が選んだ女性がたまたま同じなところがややこしいな、とリカルドは一人ごち、華子の手を取っていつものソファへと導こうとして華子の右手から感じる覚えのない魔力に気がついた。


「華子、これは……」

「午前中に総務庁の方が客人証明書を発行してくださったのです。特殊な呪いまじないが施されているらしいんですけど、何か変ですか? 」


 リカルドは華子の右手甲に自分の手をかざすと、確認のために魔法術を唱える。すると、フロールシア王国の紋章と客人を意味する文字がぼんやりと浮かび上がってきた。紋章自体は問題はない、しかし、『追跡』に近い形の別の魔法術が施されているようだ。


「……これを施した者は、何か言っておりましたか? 」

「いえ、特には。あ、昔は紙だったから紛失が多かったとか、国外への渡航は三十日を超えてはならないとか」

「そうですか。いえ、気にすることのものではありませんが、ここの術式の文字が擦れていますから、私がやり直してもよろしいですかな? 」

「あらやだ! もう消えちゃったのかしら。リカルド様、申し訳ありません……よろしくお願いします」


 華子は気がついていないが、それは確かに追跡の魔法術だった。総務庁には反客人派の宰相の手の者が多数いる。明日朝一、良からぬことを考えいるらしい反客人派を牽制しに行かねばならない、とリカルドは気を引き締めて魔法術をかけ直す。


「さあ、できましたぞ! 私の魔力の色になりましたな」


 華子の右手甲には、リカルドの魔力と同じ橙色になった紋章が新たに刻まれていた。

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