第55話 家族と優雅なお茶会を ①
「まだかのぅ」
「まだですよ。約束の時間まで
クリストバルが三回目のお茶のお代わりをしようか迷っている中、フェリクスは丁度読み終えてしまった雑誌を閉じてクリストバルのカップにお茶を満たし、自身もお茶を少し口に含む。
離宮にあるリカルドの私室から続くパティオには、フェリクスとクリストバルの二人しかいない。侍女も侍従も近衛騎士さえもいない広々とした庭に用意されたお茶会の席は六つ、残り三つの席の主はまだ来ない。
「わしは待ちくたびれたぞい。のぅ、フロレンシア? 」
「父上は相変わらずせっかちでいけませんね。ねぇ、母上」
美しいマルガリータの白い花が一本だけ飾られた空席に語りかけたクリストバルに、フェリクスも至極当然とばかりに合いの手をいれる。用意された空席は王妃フロレンシアのためのものである。家族で集まるときは必ずそうやって今は亡き妻のために席を一つ用意するようになってから十九年、クリストバルは生前と変わらず、妻にこうやって話しかけるのだ。そしてその息子であるフェリクスも父親と同じように話しかける。これは他の息子たちも自然に行うことであり、別におかしなことでもない。クリストバルは他に三人の側室を迎えているが、やはり正妃であり最愛のフロレンシアへ向ける慈愛は特別だった。
「すまんすまん、シルベストレを巻くのに時間がかかってしまった! 」
そこに慌てた様子でドカドカと杖をついて走ってきたアドリアンが、息を切らして近づいてくる。足を悪くしているので杖がないと歩けないのだが、見たところ大丈夫そうだ。
当然お付きの者の姿はないが、それはこの庭、というかここの主であるリカルドが許可した者以外に勝手に入れないように術式を施しているためだ。
「兄上、そんなに慌てなくともまだ大丈夫ですよ」
フェリクスが伏せてあったカップに優雅な所作でお茶を注ぐと、アドリアンは執務用の堅苦しい服の上衣を脱ぎ、無造作にそれを椅子の背もたれにかけてどかりと座る。
「着替える暇もなかったぞ。真面目過ぎる宰相というのも考えものだな」
「宰相も、真面目な兄上以上に真面目ですからね」
「なんじゃアドリアン、あやつを容易く巻けんのか? まだまだじゃのぅ」
執務をするのは午前中だけになって久しいクリストバルが大きく笑う。クリストバルはシルベストレ……フェランディエーレが宰相になった頃から急に多くなった仕事量に辟易し、よく執務室から脱走しては連れ戻されるということを繰り返してきた前科持ちである。
「まだ親父が幾らか仕事を受け持っているからマシだが、これで全部回ってくるとなると身一つでは足りんな。親父、俺の為にまだ現役でいてくれよ」
アドリアンが深々と溜め息を吐いたところで九十七歳になるクリストバルも溜め息を吐く。
「現役と言えば、リカルドが引退すると言ってきたぞい」
「俺も聞いた。竜騎士団長を引退するのは構わん。しかし王子業も廃業するつもりだとか言っていたが、俺の右腕として働いてはくれんのだろうか」
男兄弟の中で一番年下のリカルドが一番始めに引退するのは惜しい。二日前にリカルドから無理やり聞き出したアドリアンは考え直して欲しいと何度も諭したのだが、リカルドはついぞ首を縦には振ることはなかった。
「あれも頑なじゃからの、わしは諦めたぞい」
王子は辞めるなと約束させたクリストバルの裏をかき、王子を辞めない代わりに一切の
「父上も兄上も、相変わらず真っ直ぐですね。私ならリコではなくハナコさんから攻略しますよ。あのリコを射止めたアルマなのですから、きっと気だての優しい子だと思いますし」
柔和な顔立ちのフェリクスが目尻の皺を益々深くしてにこにこと微笑む。しかし発言の内容はそんな微笑ましいものではない。嫌そうな顔をするアドリアンに、フェリクスは兄上はお優しいですね、と言ってのけた。
「俺が優しいというよりお前がしたたかなだけじゃないのか? 家族の話に弟嫁を巻き込むのは得策じゃないだろう」
「リコのお嫁さんなんですから立派な家族じゃないですか。私の予想では困った家族を無下に扱えるような無慈悲な女性ではないと思うのですが」
「国のごたごたした問題に心を痛めて病に伏してしまったらどうするんだ。それにお前は見たかもしれんが俺はちらりとも見てはないんだぞ」
息子二人のやりとりにやれやれと傍観を決め込んだクリストバルはしかし、リカルドのアルマである華子のことを既に家族として扱いつつあることにほっとする。
長らく不在だったリカルドの傍らの存在の出現に色めき立ったフロールシア王国であったが、必ずしも歓迎する声ばかりではなかった。異界の
この国始まって以来、というよりこの世界でコンパネーロ・デル・アルマという存在が確認されて以来、その片割れが異世界出身だったという事実は報告されていない。そしてまったく異なる世界の、それもかなり高度な技術を誇る国から来た華子が、悪しき人物かもしれないので第九王子から引き離すべきだ、という意見や嘆願書も少なからずある。
しかし、クリストバルにはその危惧はないと言い切れる自信がある。クリストバルの心眼には華子が何かを隠したり嘘をついているようには映らず、知らない世界の知らないしきたりに戸惑うばかりの不安な心を抱えた純朴な女性にしか見えなかった。そしてクリストバルを何より安心させたのは、華子がリカルドに絶対的な信頼を寄せているということだ。あの短期間の間によくまあここまでの関係を築いたものだ、と年老いてもやり手な息子の頭を小突きたくなったクリストバルであったが、謁見の最中であるので我慢したのは誰も知らない話である。あの時は二人の間に緊張感もありまだ親密な関係ではないこともわかっていたが、次にリカルドが訪ねて来る時には幸せボケした顔なんだろう、とすぐに予想がついた。
そしてそれは本当になり、名実共に魂の伴侶を得つつあるリカルドは全力で華子を護ろうとしている。
「アドリアン、ハナコちゃんはそう柔な女性ではないぞ」
ポツリとこぼしたクリストバルに、未だやいのやいの言い合っていたアドリアンとフェリクスがピタリと静かになる。
「話してみればわかるがの、芯の強い子じゃ。わしの心眼は嘘はつかん。アドリアンよ……お前なら分かるはずじゃ。失われた魂が再び還ってきたのだと」
「親父、それは……」
「それよりもお前たちはハナコちゃんに何を聞くか決めたのか? 」
「何を聞くとは、何だ、あれだ。式はいつにするのか、新居はどこにするのか、あとそれから……」
「兄上、今日は顔見せ程度のお茶会であって結婚の報告ではないと思いますよ」
「何?! まったくまどろっこしいな、王族というものは」
リカルドから今日のお茶会の趣旨の説明を受けていたにも関わらず、アドリアンの脳内ではすでにリカルドと華子が結婚をすることになっているようだ。
身分違いの恋を実らせたアドリアンは王族特有の長い婚約期間にしびれを切らし、強引に結婚まで運んだ気概の持ち主である。唯一の王太子妃であるダリア・リリオはフロールシア南東領地の辺境少位の娘で、アドリアンは誰に何を言われようともこの娘と結婚する、ならぬというなら結婚はしない、とまで宣言するほど惚れぬいていた。その所為でリカルドを巻き込んだ次期王太子争いにまで発展してしまったのだから、考えてみればなんとも迷惑な話である。当時この身分違いの恋愛劇は国中の民から絶大な支持を得て、アドリアンは不動の王太子の地位をものにしたのだ。
「さあ、そろそろですよ。そんな取って食いそうな顔をしていたらハナコさんが怯えてしまいますから笑顔を絶やさないでくださいね、兄上」
「う、うむ、そうだな。ハスミンにもよく言われておったことだった」
「だからと言って幼子が見たら泣くような気味悪い笑顔にならんでも」
「おいっ、一体俺にどうしろと?! 」
孫娘のハスミンがまだ幼い頃に、おじいちゃまおかおこわい、と言われたことのあるアドリアンは、フェリクスとクリストバルのダメ出しを受けて地味に落ち込むのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
初めて通された離宮のリカルドの私室は、調度品も何もない、閑散としたという表現がぴったりな広いだけの部屋だった。ソファと応接机がやけに目立つ居間を通り抜け庭へと続く部屋へと足を踏み入れて、そこにお茶会セットがのせられた給仕台があることに違和感を覚え、思わず部屋の中をぐるりと念入りに見回してしまう。
「先に親父殿たちを通していたのでございますよ。給仕はおりませんから、ついでにこれも運びましょう」
「あ、私がやりますから! 」
リカルドがあまりにも普通に給仕台をコロコロと押していくもので、出遅れてしまった華子が慌てて後を追う。そこにリカルドからお菓子箱を手渡されたため、結局リカルドが給仕台を押して歩くはめになった。
「リカルド様、最初が肝心なんですよ」
取り繕うつもりはないが、こうした裏方の役目は女性がするものと会社で刷り込まれた華子は、なんとも居心地の悪さを覚える。
リカルドにしてみればこれが普通であった。家族だけの集まりには家族しかいないので、お茶を注ぐのもお菓子を切り分けるのも全て自分たちで行うのだ。
「生菓子ですからあまり揺らすのはよくないでしょう。大役ですぞ? 」
「ああっ、なんで生菓子にしたのかしら。そんなことを改めて言われたら転んでしまいそうです」
庭石のデコボコに注意しながらそろりそろりと歩く華子に、リカルドはくすりと笑う。緊張はしているようだがいつも通りの華子だ。
別に国王の私室でもよかったが、あの部屋に行くまでにたくさんの重鎮たちと顔を合わせなければならないので、急遽リカルドの私室に変更したのは正解だったようである。ここならば余計な気を遣わずに話せるし、また自然に任せた素朴な庭の落ち着いた雰囲気がよい。
青々と茂る庭木の小道を抜けると、小さな
「久しぶりですね、リコ」
砂色のウェーブがかかった髪を無造作に撫でつけた、落ち着いた雰囲気の初老の男性が片手をあげる。
「ハナコちゃん、こっちじゃ! わしの横に座ってくれんかの」
いつか見た御大、国王陛下が満面の笑みで手招きをして横の席をバンバンと叩く。
「親父、そこは母上の席だろう。ハナコ殿、こちらに。やっと会えたな、リカルドの兄という難儀な役割をしているアドリアンだ」
ほとんど白髪になった髪をオールバックに撫でつけ、日に焼けた肌とのコントラストが魅力的なアドリアンと名乗った老人が立ち上がり、華子の為に椅子を引いてくれる。
「ご、ご挨拶が遅れ申し訳ございませんっ! お久しぶりにございます、国王陛下! お初にお目にかかります、王太子殿下、第四王子殿下……ハナコ・タナカと申します」
お菓子箱を揺らさないように気をつけてながら勢いよく頭を下げた華子に、三人は目を丸くして、それから一斉にリカルドを攻撃し始めた。
「この馬鹿息子! ハナコちゃんが怯えとるではないかっ! 」
「リコ、私たちのことは優しいお兄さんだときちんと説明したのですか? 」
「可哀想に。よしよし、この兄の隣に座りなさい。こんな荷物まで持たされて。不甲斐ない弟ですまないな」
アドリアンが華子の持っていたお菓子箱を受け取り、華子の手を引いて椅子に座らせると、立てかけておいた杖に魔力を込めてリカルドを威嚇する。
「私は何もしておりませんよ! まったく、いたずら好きな家族で申し訳ありません。ハナコ、その隣のが長兄のアドリアン、向かい側が次兄のフェリクス、親父殿は、まあ知っておりましょうから省略します」
給仕台から新しく茶器を用意していたリカルドが、顎でしゃくって親兄弟を紹介すると、アドリアンは不満気にふんと鼻を鳴らし、フェリクスは悲しそうな顔になった。
「ハナコさん、私のことは第四王子殿下なんて堅苦しい呼び方はしなくていいんだよ。そうだね、フェリクスお兄様と呼んでくれないかな? 」
「何でわしを省略するんじゃ! ハナコちゃん、わしのことはお義父様と呼んでおくれ。可愛い義娘ができて嬉しいぞ」
「いきなり皆で話しかけるな。ハナコ殿、悪気はないのだ。許してくれまいか? 」
すっかり恐縮してしまった華子が口を開く前に、アドリアンが優しく話しかける。どことなくリカルドには似た、老成した色気を醸し出すアドリアンに気恥ずかしさを感じながら、小さく「はい」とだけ答えると、アドリアンは大きく破顔した。
「アドリアン兄上、人のアルマを口説かないでいただきたい! 」
「人聞きの悪いことを言うな。可愛い妹を甘やかして何が悪い」
リカルドが唸るようにアドリアンを威嚇するが、アドリアンは悪びれていないような態度でまた鼻を鳴らす。
「ハナコ、嫌なら嫌と遠慮なく言うのですぞ? 」
リカルドが甘ったるい声で兄に負けじと華子に告げると、一気に赤面した華子から虹色の魔力が少しだけ溢れてくる。リカルドの瞳も虹色になっているらしく、それを見た三人はそれぞれに感嘆の溜め息を漏らした。
「ほう、これは見事なものじゃな」
満足そうなクリストバルの声に、何故今頃アルマの魔力が溢れてしまったのかわからない華子は、ただ身を小さくするしかなかった。
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