第50話 返事は闇の大鐘楼で

「はいっ! 」


 囁くようなかすれ声ながら、華子はただそれだけの短い返事をした。

 虹色の光が満ちる広い空間に華子とリカルドの二人だけしかいないような錯覚に陥る。実際には観光客が多数うろついていて、二人の方を気にする人も少なからずいた。落ち着いて見える華子も心音が聞こえるほどに緊張していたので、周りの状況はさほど気にならない。

 イェルダから聞いていたので、もちろん長いベールが求婚を意味し、受け取ると承諾したことになると知っている。しかし、リカルドは昨日華子が参加した、雨乞いの舞の打ち上げ会からの帰り道に、ベールの意味を教えてくれると言ったのだ。それならちゃんとした説明をリカルド本人から聞きたかった。

 今日、リカルドが何を言いたいのかわかっていたために、華子は朝から緊張していた。まだあり得ないと考えていた結婚という文字が頭の中をぐるぐると回り、色々と理由付けして先延ばしにしようとする反面、受け入れてしまえと言う恋する自分がいる。

 この国の一般的な求婚の方法を詳しく知らないが、リカルドは確かに「婚姻を結んでください」と口にした。しかも「田中華子」と日本語式の発音でしっかりと名前を呼んでくれた。

 これはもう、「はい」と言うしかないではないか。

 承諾の返事をしてから後、今になってから色々なことが頭をよぎり、じわじわととんでもないことになったんじゃなかろうか、と思い始める。流石に緊張を隠せないリカルドの強張った顔が、華子の返事を聞いてから照れたような笑顔に変わっていくのを見ると、幸せしか感じられなかった。


「華子」


 公衆の面前なので、控え目に抱き寄せられた華子の耳元で熱い囁き声がこだまする。


「その長いベールは婚約の証、ひいては求婚する際に男性から女性へと贈られるのです。受け入れる意思があるなら身につけ、断るなら半分に切り、それぞれを結んで返します」

「なんで、先に教えてくれなかったんですか? 」

「……それはその」


 リカルドは口ごもる。つまらない嫉妬と悪戯だったとは言いにくい。裏で手を回して祭りの最終日に求婚するとは決めていたが、祭りの準備の為に忙しく共にいられる時間が少ない上に想定外なことに雨乞いの舞に参加すると言われてしまっては、あの二股のベールを着けられる可能性があった。

 二股のベールは未婚女性……というか、そもそも結婚相手を探している女性が身につけるものなのだ。昔は祭りが男女の出会いの場になっていたこともあり、ベールは目印でもあった。刻と共にそのような風習も廃れてきたかに思えたが一部は習慣として残っている。


「つまらない嫉妬でございますよ。私以外の誰かが揃えたベールなど、着けさせたくはなかったので。事前に伝えれば着けてはくださらなかったでしょう? 」


 色々と省いて結論だけを白状する。これで回答になるはずだ。現に華子は不意打ちを受けたようで、口をつぐんでしまった。


「婚約成立、ですな」

「こ、婚約、ということでよろしいのでしょうか……あの、こんなこと、は、初めてで」


 こんなことが人生何度もあるなんて、とんでもない。リカルドにしてみれば初めてじゃなかったら、というか何度もあってたまるか、という思いである。


「もちろんでございますよ」

「結婚、式とかあげるんですか?」

「もちろん然るべきときに婚姻式をと考えております。親父殿に報告して、兄王子にも報告が必要ですからして、第九王子の身分がある為に現時点でおおやけにするとなると国の行事になりますので、引退してからになりますかな? ああ、華子?! そのような大それたことにはなりませぬぞっ! 放棄後、継承権放棄後です! 」


 みるみるうちに強張り始めた華子に、リカルドが慌てて説明する。しかし、華子の表情は晴れない。

 そうだった。

 婚姻という言葉に舞い上がっていたが、リカルドはその前にとんでもなく重大なことを教えてくれたのだった、と華子は現実に帰る。ほわほわとした雰囲気から一転、背筋にひやりとしたものを感じた華子は抱き寄せられていた身体を両手で少し押して空間を開けると、リカルドを見上げた。竜騎士団長の地位のみならず、王位継承権まで放棄するとは一大事である。


「まさか、この為に継承権を放棄されるのですか? そんなこと、ダメですっ! 」


 六十歳という年齢で現役の竜騎士であることが、この国では凄いことなのだと知ってはいる。そのことが如何に凄いかを語ってくれたのは学者たちであり、事情をよく知らない華子にも体力的にきついだろうとは理解できた。

 日本でも警察官や消防士が六十歳で定年退職し、自衛官に至ってはもっと早くに退職すると知識で知っていたので、竜騎士も同じなのだろうと思っていたのだ。リカルドが相手だとつい忘れがちになってしまうが、この国では六十歳になる前に隠居し、子供に家督を譲るのが一般的である。

 また、男性優位な社会構造なので騎士や侍女、自営業などの特殊な職業を除いて、女性は結婚して家庭に入れば仕事を辞めることが慣習となっていた。最近では家庭に入っても働く女性も増えてきているらしいが、それもまだ少数派だ。

 リカルドは華子が働くことについて特段言及はしていない。やはり結婚すれば仕事などできないのであろうか、と考えてから、ある事実に突き当たる。王位継承権を放棄しない場合、華子は第九王子妃となるのだろうか。


 客人まろうどの私が、王族になるなんて、普通ではあり得ない、よね?


 リカルドと想いを通じ合わせてからこっち浮ついていた華子の心にちくりと棘が突き刺さる。


「私と一緒になる為に大事なものを犠牲に……」


 しかし ––––


「そうではございません!! 」


 もう一度リカルドに抱き締められた華子は、その熱いくらいの温もりに包まれ、思わずすがりつく。リカルドの真摯な瞳が華子を捉え、そしてその瞬間、引き込まれた。


「そうではございません、犠牲にするものなど何もないのです」


 完全なる勘違いをした華子に、ここでどうこう言うよりも落ち着いた場所で一から説明しようと考えたリカルドが、華子の手を引いて裏口に向かう。


「別の場所へ参りましょう。勘違いしないでくだされ、私は成人する前から継承権を放棄したいと親父殿に直談判してきたのですから」


 不安そうな華子を安心させるため、ぎゅっと手を握ると、華子も握り返してきたことにリカルドは安堵する。裏口から外に出ると、直射日光に一瞬目の前が暗くなるが、リカルドは華子を支えながらオスクリダーの鐘楼塔へと足を向けた。光の鐘楼塔であるルスと比べ、闇を意味するオスクリダーの鐘楼塔は人気がない。何故なら内部は光を通さず、魔法術の光であっても|四半刻(しはんとき)も持たないという不思議な空間になっていたからだ。祭りということでこちらも一応開放されてはいたが、陰鬱で不気味な空間にわざわざ入る観光客は物好きしかおらず、入り口には警備の者しかいなかった。


「中に人は? 」

「誰もおりませんよ。お入りになられますか? 」

「私たちが出てくるまで中に人を通さないで欲しい。第九王子として命令する」


 リカルドが懐から第九王子の紋章を出して見せると、警備の者が鯱張って敬礼し、そそくさと入り口を開ける。


「ど、どうぞっ! お気をつけくださいませ! 」

「すまない、では頼むぞ」


 こういうときはうとましい身分も役に立つ。リカルドに手を引かれるままになっていた華子が、通り過ぎざまに警備の者たちに頭をぺこりと下げている姿を目の端に確認しながら灯りの魔法具を受け取ると、暗い塔の内部に入っていった。



「私の王位継承権は華子もご存知のように最下位です。兄上、アドリアン・アドルフォ王太子が即位した後にもその順位は変わることはありません」


 リカルドの焔の魔力が反映された魔法具が温かい橙色の光を放ち、辺りをぼんやりと映し出す。黒、藍、紫のステンドグラスは光を遮断し、その存在は僅かにしかわからない。ひんやりとした空気の中、多分礼拝用に取り付けられている長椅子に腰をおろして隣り合わせに座ると、華子がきゅっとしがみついてきた。


「寒いですか? 」

「あ、あまりに暗くて」

「暗いところが苦手でしたか。私がいますから大丈夫です、が、なんならここに座りますか? 」

「大丈夫です、大丈夫! それよりもお話の続きが聞きたいです 」


 リカルドが太ももをぽんぽんと叩くと、華子は何故か遠慮してぶんぶんと首を横に振った。そのことに少し寂しさを感じたリカルドは、気を取り直して話を続ける。


「では。昔は私も期待されておりまして、その所為で一時は兄上ではなく私を王太子にと担ぎ出す者がたくさんいたのです。もちろん私にはその気はありませんでしたから、その決意として竜騎士に志願しました –––– 」


 リカルドたち兄弟は仲が良く本人たちに争う意思はなかったのだが、為政者たちは違った。わざと仲違いさせるようにして対立させることを企て、為政者の身の保身、もしくは出世の駒として使われそうになったのだ。長兄のアドリアンと次兄のフェリクスは既に成人しており、アドリアンには息子がいた。王太子が既に跡継ぎとなるであろう子を成しているというのに、今さら自分を利用して何になるというのか。

 それに見つからない自分のアルマを探しに行くためには、竜騎士となり、王家から離れておかなければならない。竜騎士になるというリカルドに、母親や兄たちは反対したが、父親である国王だけはリカルドを支持した。そのことでリカルドは晴れて竜騎士団の門をくぐることになり、リカルドの意思を汲み取るかわりに国王は一つだけ条件をつけた。

 それは、王位継承権の返上を認めないこと。

 リカルドはアルマ持ちである。世界中を旅し、自分のコンパネーロ・デル・アルマを探し出さなければならない運命にある。だが国王は王族であるリカルドの継承権を破棄し、王籍から排除して市井の民として街に降ろすことができなかった。それはリカルドの身を案じるが故の親心であったのだが、その判断がリカルドをますます竜騎士に執着させることになってしまったのだとも言えよう。どうやっても手放すつもりはないのかと、恨みさえした。

 元々素養があったリカルドはメキメキと頭角を現し、筆頭竜騎士として国中を飛び回った。それと同時に宮殿には寄り付かなくなり、それはオルトナ国との戦争の後まで続くことになる。


「 –––– で、竜騎士団長になるまで宮殿とは疎遠だったのです。パヴェル……フェルナンドの叔父に頭を冷やせと殴られるまで頑なになっていたのですから、私も相当な頑固爺いですな」


 その頑なさが原因で、母親であるフロレンシア王妃の死に目に間に合わなかったことが今でも悔やまれるくらいだ。


「リカルド様、灯りが」


 もう四半刻たったのか、魔法具の灯りが消えそうになっていたので再び魔法術を施し直す。橙色の光に照らされた華子の表情は穏やかに見えて、リカルドは惹き寄せられるように頭を屈めると柔らかい頬に口付けを落とした。


「リカルド様っ? 不意打ちは禁止です! 」

「可愛かったのでつい」

「もう、せっかくリカルド様から話してくれて、昔のことを知ることができて嬉しかったのに、雰囲気台無しです」

「そんなに楽しいものではありませんぞ」

「それでも、私の知らないリカルド様の人生を少しですが知ることができたのです。好きな人のことを知りたいと思うことは普通ではないですか? 」


 そう言われてみればそうだ。

 リカルドの知らないこちらに来る前の華子のことを知りたいと思う。しかし華子が話したくないと言うのであれば無理に聞きたいとは思わない。


「私がもっと早くに来ていればって思ったりしますけど、こればかりはどうにもできませんものね。若い頃のリカルド様も見たかったな」

「花も恥じらう程の美少年と有名でしたからな。写真はありませんが肖像画ならありますな。見られますか? 」

「是非っ! 」


 飛びつくように返事をした華子に苦笑しながら、リカルドはそういえば華子と写真を撮っていなかったことに気が付いた。後でセレソの大樹前の広場で写真を撮ってもらうかと考えながら、あと少し続く話をしてしまおうと空咳を一つする。


「では、ここからが本題ですが……竜騎士団長を辞めることについては、刻がきた、と感じたからです。竜騎士団は国の戦力です。有事の際に民を護らなければならない竜騎士団の団長が老いぼれでは、対外的にフロールシア王国が弱体化していると知らしめているようなものなのですよ」

「そうなのですね。この世界は平和とばかり思ってしまいがちでしたけど、戦争が身近なものとしてあるのでしたね」

「レメディオス王家には、神から賜ったこのエステ大陸を統治しなければならない責務が課されております」


 リカルドが竜騎士団長に任命されてからもうすぐ十年。若い世代に委ねる刻が訪れたのだ。


「では王位継承権を、その放棄するというのは……」

「それは私の我が儘ですな。つくづく私は王族に向いていないと思いまして。それに何より、国から干渉を受けるのはまっぴらごめんでございますよ」


 特に現宰相であるフェランディエーレなどに邪魔はされたくない。華子に害を為す者はすべて排除しなければ、若い頃のリカルドのように華子が利用されかねない。王族の華やかな生活の裏側には決して誇ることのできない暗い部分があるのもまた事実である。華子を護るためであれば、あってないような見えない鎖である王位継承権など塵に等しいのだ。


「華子のやりたい事をやりたいように、私はそれを支持いたしますよ。だから華子、共に生きましょう。ただのリカルドとただの華子として」

「はいっ、はい! リカルド様、一緒、が、いいです」


 華子の瞳がみるみるうちに潤み、涙が零れ落ちる前に辺りが虹色の光に包まれる。華子のアルマの魔力に呼応するかのようにリカルドの瞳が虹色になると、光は益々強くなり、暗いステンドグラスまでをも光で包み込む。


 虹色に輝く二人が、オスクリダーの鐘楼塔のステンドグラスがコンパネーロ・デル・アルマの物語を描いていることに気が付くのはもう少し後のことであった。

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