第3部 交わされる約束と自立への第一歩の章
第43話 恋煩いは治らない ①
あの日の夜のことをふとした瞬間に思い出しては、赤面したり身悶えしたり、起きてから寝るまであの人のことを考えてしまうこの症状に名前を付けるとしたら『恋煩い』が的確だと思う。
「リカルド様と一緒ならどこへでも」と言ったものの、正直舞い上がっていた私は、街馬車を拾ってリカルド様の私邸に向っているときも、私邸に到着してそれを管理してくれている人たちに挨拶したときも、そして晩餐のメニューや味すらよく覚えていない。これから起こることへの期待と不安がごちゃ混ぜになった私は、いつの間にかリカルド様の寝室にいて、胸を高鳴らせながらもそのときが来るのを平静を装って待っていた。
他愛ない話も尽き、緊張感のあるムードの中、リカルド様は私をずっと抱き締めていてくれて、啄ばむようなキスと甘い重低音の声で私を翻弄した。広いベッドの真ん中で、リカルド様の発する熱に浮かされた私は、何かとんでもないようなことを口走ってしまったような気もするけど、思い出すとまたジタバタしてしまうので、胸の中に閉まっておくことにする。
何も飾らない言葉で「愛してる」なんて、反則だわ。
いわゆる『両想い』状態であるはずの私が、恋人に対して恋煩いをするなんて、どれだけ惚れ込んでいるというのか。そんなことを考えていると恐ろしくなってしまうけど、アラサー干物女が潤いを取り戻すとこんな風になるのか、と分析しているどこか冷静な自分もいる。
翌日の遅い朝をリカルド様と過ごし、昼前に宮殿に戻った私は流石に気まずかった。この年にして無断外泊で怒られたりして……と神妙な顔で「すみません」と謝罪した私を、フリーデさんとドロテアとラウラが出迎えてくれたのだけど、皆さんが見事にスルーしてくれたので助かった。
市街地はどうでしたか? とかお土産ありがとうございました、といった当たり障りのない会話に肩透かしを食らった私は、そう言えばリカルド様が幾つか伝令と伝言を飛ばしていたことを思い出す。ラウラは昨日の夜番で、私が帰ってこないと連絡を受けても待機してくれていたらしい。
本当にごめんなさい。
幸せな時間を過ごせたけれど、またもや皆さんに迷惑をかけてしまう結果になってしまい、やっぱりこの宮殿に滞在している間は自重しようと決めた私を、リカルド様もちゃんと理解してくれたみたい。
あれから外出はしていないし、リカルド様もいよいよ今週末に迫った『三眼火牛追い祭り』の準備で忙しくなってしまった。リカルド様は、牛追い祭は王都の四地区のそれぞれで行う危険な行事なので、竜騎士たちも警備に駆り出されるのだと話してくれたし、そのことに不満や文句はない。
それに、私が
だから余計に恋しくなるのかもしれない。
環境と状況の変化により今の関係が崩れてしまったら、と邪推してしまう私に付ける薬はなく、激しく浮き沈みする心を抱えたまま、アルマが暴走しないようにしなければと言い聞かせる日々を送っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
学士連の資料室にカタカタという小気味の良い音が鳴り響き、いつもは静かな部屋にアクセントを加えている。
「ブエノ局長、もうすぐ打ち終わるみたいですよ。後数枚ってところですかね」
「そうかそうか、仕事が早いから助かるわい。確認が終わったらひと休みするかの」
学者たちの講義もほぼ終わり、職業訓練中の華子は毎日のように学士連の資料室を訪ねていた。こちらの世界のタイプライターの使い方を学び、タイピングの技術向上を図るために華子自身が申し出たことであるが、既に資料をまとめたり資料集を作ったりと中々に忙しく、集中力を必要とする作業を任されている。最初は文字板の配列が違っていたのでよく打ち間違えていた華子も、慣れてくると作業速度がみるみる上がり、派遣先で読み起こしをしていた頃と変わりないまでに上達した。
ぼーっとしているとろくなことを考えないから、と始めた学士連の仕事もやり始めると楽しいものだ。華子には到底わからない、不思議な魔法術理論やエル・ムンドの歴史、子供向けに作られた民俗学の資料などに目を通すのでかなり勉強になる。最後の数行を打ち終えた華子は、隣に座って間違いがないかチェックしている学士に最後の一枚を渡すと、ぐっと背伸びをした。
「お疲れ様でしたハナコさん。今のところ問題なく仕上がっていますよ」
「本当ですか? 何処かおかしなところがあれば遠慮なく言ってください。オレーノさんの目を疑うわけではありませんけど、自分でも結構間違いを見つけてしまうんですよ」
「そんなことありません! 我々なんかもっと悲惨なんですから。せっかくハナコさんから教わっているというのに中々上達しないものですね。指を五本全部使うなんてまだ信じられません」
オレーノが華子のブラインドタッチを真似て指をわきわきと動かすが、このオレーノはタイピングを始めてまだ十日もたっていないので使う指は示指の一本ずつだ。
タイプライターは手書きで書き記すより早く文字の形も大きさも均一なため、急速に普及している技術の一つである。最も、華子の世界のアナログなタイプライターではなく、半分電子化されたような魔法術式が組み込まれたものだ。文字の書かれたキーを押すとディスプレイのような役割りを果たす細長いガラス板に文字が表示され、ある程度文章を打ち込んだ後に印字キーを押せばその文章が紙に印字される。原動力は魔力を蓄積させたガラス玉であり、差し詰め電池式のタイプライターといったところだ。北の大国、ハルヴァスト帝国の技術だというタイプライターは、口外はされていないが十中八九異界の
「たくさん練習すれば見なくても打てるようになりますから大丈夫ですよ。それよりオレーノさん、私も手伝います」
華子がオレーノの机の上に置いてある未確認の書類を取ろうするも、オレーノは「駄目です」と言って書類を触らせてくれない。
「一人でやるより二人でやった方が早いですよ? 」
「ハナコさんばかりに仕事をさせるわけにはいきません。仕事が欲しいなら局長のところに行けば山ほどあります。あの研究書類をまとめるのに何十年かかるかわからないんですよ」
局長のブエノは百歳をゆうに越しているご長寿で、実は人間ではないとの噂があるが、ここでは誰も気にしてはいない。そして生涯をかけて様々な研究に没頭するあまり、その資料は膨大なものになり、それを編纂する作業は中々進んでいないのが現状だった。
「そうですか。じゃあブエノ局長のところに行ってきますね」
「はい、僕もこの作業が終わったらそちらに行きます」
小さな作業部屋を出た華子は、新たな仕事をもらいにブエノの執務室へと向かう。しかし、そのブエノからも仕事のし過ぎだ、と言われて他の学者たちと休憩を取る羽目になってしまった。そうなると思い浮かぶのはリカルドのことで、華子はブエノの研究資料の中に、恋煩いの治し方というものがあればいいのに、といった不毛な考えに陥ってしまい、悶々とした時間を過ごすことになったのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
宮殿のある会議室にて、そうそうたる役職の者たちが集まっていた。
四角い長机に警務隊から本部警備隊長、中央地区隊長、北地区隊長、南地区隊長、東地区隊長、西地区隊長、騎士団から近衛騎士団長、警護騎士団長、竜騎士団長、そしてそれぞれの副官もしくはそれに準ずる代理の者が一同に会している。物々しい雰囲気かと思いきや、それぞれが仲が良いらしく、雑談すら出るような会議に花を咲かせていた。
「では例年通り、各地区隊長指揮のもと現地本部の設置と医術師班の割当て、臨時救護所の場所の確認をお願いします」
司会進行のグラシアン西地区隊長が、少々うんざりしたような声で資料の確認を促す。この三眼火牛追い祭りの警備会議も本日で四回目であり、いい加減決定しなければならないことばかりであった。
「ちと厳しいが、今年はうちの地区が初手だからな。仕方がないがこの案でいくしかないか。しかし雨乞い舞の会場もうちの管轄だから重なるときついな」
警備体制の計画書を見ていたアレンシオ北地区隊長が溜め息と共にぼやく。
牛追いの初日のみ公式に王族が観覧するため、四年に一度やってくる初日の年に当たった地区の警務隊士たちは大変なのだ。しかも北地区には、祭りの後半に行われる雨乞いの会場となる大鐘楼前の公園広場もある。雨乞いの舞には女性の王族も参加するので、初日の牛追いと重なる年は他の地区からも大量に応援が導入されることになっていた。
「私も異論はありませんがね。やれやれ、今年は若いのに休みがやれないかもしれませんな」
ベルティ南地区隊長も警備計画書には概ね賛成であるようだったが、今年は北地区へ応援を出すことが決定しているので、隊士たちに一日だけ与えていた休みを削らなければならない事態になりそうだ、とこちらも溜め息を吐く。
「年々見物客が増えていますので難しそうですなぁ」
エスカランテ中央地区隊長がベルティの呟きに同情したように同意する。王都にある五つの地区のうち、行政区にもなっている中央地区だけは祭りの会場にはならないが、その分他地区の応援に駆り出されることになっているのだ。
「何、今年は竜騎士団の応援も大々的にいただけますから大丈夫でしょう」
東地区隊長のミロスレイがリカルドの方を向くと、他の地区隊長の視線が一斉にリカルドに集まる。
「まず、私の所為で皆には迷惑をかけていることに謝罪と感謝を申し上げたい。約二ヶ月間、余計な苦労をかけてしまい申し訳なかった。私的なことに竜騎士団を動かすのはとも考えたが、今回はあいつら自身が言い出したことでな。微力ながら力添えさせていただきたい」
リカルドは立ち上がると、それぞれの地区隊長の顔を見回しながら最後に近衛騎士団長のエメディオにも頭を下げた。
「私のところはいつものことですからお気になさらず。むしろ今回の客人は我が儘も言わず、ましてや物を壊したり脱走したりなんてしない常識人でしたから楽なものでしたよ」
エメディオが軽口を叩くが、この会議室にはそんなエメディオを咎める者など誰もいない。警備隊長と五人の警務隊地区隊長と近衛騎士団長、警護騎士団長と竜騎士団長のリカルドの九人は、皆旧知の仲であり、一番若い西の地区隊長にあってはリカルドの親戚筋にあたる者だ。
「噂の客人ですな? エメディオとミロスレイは既にお知り合いになったと聞いておりますが、私たちにも紹介してはいただけないのですか?」
「そうそう、我々の仲ではないか。お忍びで街を歩いている姿を見たとの情報があがっているが……なあ、西の地区隊長殿」
「ええ、事前に連絡がありましたからそれは事実です。隊士の話では珍しい面立ちの小柄なご婦人だったと言うことですが、近衛騎士団長のおっしゃる通り外出はそれ一度切りなのでしょう? 籠の鳥ではないのですから、お披露目も兼ねて我々が一席設けて差し上げますよ」
グラシアン西地区隊長がにやにやと人の悪い笑みでリカルドを見ると、リカルドはぐうの音も出ないのか押し黙る。それにすぐさま反応したのは警護騎士団長のネメシオだ。
「それはいい! 私などエメディオと同じ宮殿に詰めているというのに余計な仕事のお陰で謁見にすら出られませんでしたからね。マルケスの案に賛成です」
「拗ねるなよネメシオ。リカルドはそんなに薄情な男じゃないさ」
リカルドと同い年のミラモンテス警備隊長もグラシアンの意見を支持するようだ。
今週末に迫った牛追い祭りの警備計画の最終会議だというのに、何故か雑談に発展してしまった上司たちにそれぞれの副官が止めに入るのかと思いきや、その副官すらもリカルドのアルマである華子のことが気になるのか、興味深々の顔で沈黙を守っている。
「この祭りが終わればきちんとお披露目はする。いや、待て、やはりお前たちには見せん」
リカルドも仕方がないと言った風に一度はグラシアンの意見を受け入れ、しかしすぐに撤回する。
「出し惜しみするなって散々言ってたじゃないですか。自分だけずるいですよ」
「そうですよ。私の時もちゃんとお披露目しましたよ?」
グラシアンが文句を言い、妻のイェルダをお披露目という名の飲み会に連れて行ったエメディオも追い討ちをかける。
「そうだぜリコ殿下。あんなに可愛い華子ちゃんを独り占めにするのは良くないなぁ」
こちらも悪そうな笑みのミロスレイに、リカルドは一度口を開いて一瞬考え、ニヤッとした。
「ミロスレイ。あんたの愛しい婚約者殿も一緒にお披露目するなら俺も受けよう」
ミロスレイの婚約者は女性竜騎士のマグダレナであるが、上司であるリカルドも最近聞いたばかりだった。しかもミロスレイからは直接連絡を受けてはいない。
「なんだと? おいっ、いつの間に婚約したんだ?! わしは聞いていないぞ!」
「そうだぞ、我々に何も報告しないなど、どういう了見だ?」
「……」
エスカランテとベルティがいきり立ち、アレンシオは無言でミロスレイを責め立てる。
「おま、ちょっ、てめぇ、やりやがったな」
既に外面を気にする余裕がなくなったミロスレイが牙を剥くと、リカルドもやるならこいと言う態度でミロスレイを牽制した。
この二人、四十年前にミロスレイが客人としてやってきた時からの知り合いであり、当時二十歳だったリカルドにミロスレイが剣の稽古をつけていたという微妙な師弟関係があるらしい。
「あーあ、また始まったよ。では皆さん、この人たちは放って置いて、今年の警備計画書の九頁を開いてください」
こんな事態に追い込んだ張本人であるグラシアンが、平然とした顔で中断された会議を再開させた。他の者たちも慣れているのか、殺気立つミロスレイとリカルドを諌めることなく会議を進めていく。そんな殺伐とした会議風景を傍観していたミロスレイとリカルドの副官たちは、お互い顔を見合わせ、いつものように諦めたように首を横に振った。
皆の心の声は同じである。
これで仲がいいんだから、本当に信じられませんよね。
この日、二人が拳で語り合ったのかどうか、本人たち以外に誰も知らない。
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