第42話 秘めたる情熱の果てに

 王都の真上に昇っていた太陽が西に傾き始める頃、リカルドと華子は小さな鐘楼がある広場の木陰のベンチで涼んでいた。リカルドの傍らには『マドレ・リタの店』で購入したお菓子が入ったお土産の箱がある。悪くならないように冷気の魔法術がかけられた箱の中には、色とりどりの美味しそうなお菓子たちが入っていた。

 持ち歩き用に見繕ってもらった冷たい果実水を飲みながら、のんびりと広場に目を移す。広場の真ん中には水を霧のように噴出させる魔法術具が設置されており、風が通ると辺りに冷やっとした空気が流れる仕組みになっていた。

 華子は魔法術具に特に興味があるようで、街にある様々な魔法術具の説明をせがんだ。客人がもたらした知識を研究し、魔法術式を作ってその知識を現実のものにしているという事実に納得しながらも、『科学』が発達した世界との大きな違いに、未だにその原理を理解できないでいるらしい。私にも魔法術の一つや二つくらいできるはずですよね、と言ってその指先にじっと集中しては、やっぱりだめだわ、と力を抜くことを繰り返し行う華子の横で、リカルドが小さな青い光の粒を飛ばして華子の周りに冷気の流れを作り出す。


「ずるいですリコ様。焔の魔力なのに冷気の魔法術なんて」


 それに気が付いた華子が口先を尖らせて抗議する。魔法術の理論をなんとなく把握し始めた華子に、リカルドはお菓子の箱と広場中央の霧の魔法術具を交互に指差して、その仕組みをさらに丁寧に説明する。


「冷気の魔力を借りているのです。魔力を感じ取れるようになると、その魔力を色ではなくその本質から判別をつけることができるようになります。場に流れる魔力を、うまく自分の魔力に融合させるのです……大量にはできませんが、こうして少しなら可能なのですよ」

「わかったようなわからないような……」


 華子がふよふよと近づいてきた青い光の粒を手のひらで受けとめると、冷んやりとした冷気を放ちながら粒は消えてしまった。


「前途多難だわ……せめてこの少ない魔力くらい扱えるようにならないと、この先ガラス玉に頼らなければならないんですものね」

「そのときは私が補充しますよ。最近は使い道がないので有り余っておりますから」


 リカルドの申し出には感謝するが、警務隊士のハリソン・ブルックスのように手の甲に魔力を溜め込んだガラス玉をつけなければ生活できないなど、何かと不便でしかない。ガラス玉ではなくてもう少し邪魔にならない物に魔力を込められないかしら……と考えていた華子は、膝の上に置いていた紙袋の存在を思い出した。


 そうだった!不毛な話より大切なことがあったんだった!


 華子は魔法術の訓練を打ち切ると、妖精猫のぬいぐるみが入った包み紙を開けて白色の方を取り出す。手のひらに乗るくらいの妖精猫のぬいぐるみには、まだ魔法術式は込められていないが、その前にやることがあるのをすっかり忘れていた。


「ねえ、リコ様。この子の名前は何にしたらいいですか? 」

「名前をつけるのですか? ぬいぐるみ、はアレですから、伝言猫でよいのでは? 」


 リカルドは華子からもう一匹の黒い妖精猫を受け取りながら、何で?というようにキョトンとしている。リカルド用の黒い妖精猫は、尻尾が短くお尻の部分に愛嬌があり中々に個性的で、華子にはこんなに可愛いぬいぐるみを事務的な名前で呼ぶなど考えられないことであった。


「だって『伝言』とか『伝言猫』とか呼ぶのは可哀相なんですもの。名前があれば愛着が湧きますし、より大切に扱えますよ? 例えばリコ様のその子は尻尾が短くて丸いから『まるちゃん』とか」


 華子の考えた名前もかなり安直であり、リカルドは黒い妖精猫を凝視しながら首を横に振った。


「妖精猫が違うと言っております。もっと勇猛な名がよいようですぞ? 」

「そうですか? まるちゃんとか可愛いのに。では無難に黒ちゃん。それがだめなら黒介!じゃあ黒にゃんでどうですか? 」


 次々と名前候補をあげていくが、すべてリカルドから却下される。


「あまりしっくりきませんな。ここは『オスクリダー』でよくありませんか? 」

「それって大鐘楼の名前ですよね。意味とかあるんですか? 」

「古いフロールシア語で『暗黒』や『闇』を指す言葉です」


 リカルドのネーミングセンスも大概である。確かルス・イ・オスクリダーが正式名称であったはずだが、それではルスは何なのか。


「ルス・イ・オスクリダーから取ったのなら、ではルスは『光』?」

「その通りにございます。あの大鐘楼は光と闇の大鐘楼という名称なのですよ。せっかくおそろいの妖精猫なのですからハナの方は『ルス』にしませんか? 」


 光と闇とはまた極端な名前である。確かに白色を光、黒色を闇と表せなくもないが、闇や暗黒にあまりいい印象が持てない。


「何となく言いたいことはわかるのですが、もっとこれだって思えるものを知りませんか? 」


 するとリカルドは次々に古いフロールシア語の単語を呟き始める。


「アグア、フエゴ、ギアッチョ、ロカ、シエロ……そうだ、シエロ! その妖精猫の名前はシエロです」


 これだと思う単語を思い出したリカルドは、華子を見て「ミ・シエロ・ディオサ」と呟き、その手の中から白色の妖精猫を取った。


「ハナは天から降りてきましたので古語で天を表す『シエロ』がいい。そしてこちらの黒いのはティエラ。シエロと対をなす『大地』の意味でございます」

「シエロとティエラ……名前としても可愛いですし、意味もいいですね!」


 リカルドの言葉を借りて華子が天から降りてきたとすれば、リカルドは華子を優しく受けとめてくれた大地である。シエロ、ティエラと口に出してみても意外としっくりくるではないか。


「それでは決まりでございますね。無事に名前も決まったことですから、これからしっかりと働いてもらいますよ」


 リカルド手の中でシエロとティエラと名付けられたばかりのぬいぐるみたちの羽がキラッと光り、まるでわかりましたと返事をしているみたいで、華子はいい名前に決まってよかったと思った。そして名前の決まった妖精猫をまた袋に仕舞い込んだリカルドは、どこからともなく小さな箱を取り出した。何だろうと思った華子がリカルドと箱を見比べると、リカルドがそわそわしながら箱を開ける。


「ハナ、これを」


 リカルドがずいっと差し出した手に目を落とすと、そこには光沢のある布張りの箱に入った、可愛らしい髪飾りがあった。


「ハナに似合うと思いまして。私の見立てでございますが、これには自信があります」

「これは……リコ様、いつの間に」


 一体いつ買ったというのか。

 リカルドの手にはあの雑貨屋で見たような、綺麗な髪飾りがあった。華子に手渡されたそれは、いぶし銀のような渋めの地金に、リカルドの瞳と同じ色の鮮やか水色の煌めきを放つ宝石が散りばめられ、桜……いやセレソの花びらの形にカットされた大粒のピンク色の宝石が五個はめ込まれている。


「綺麗、青海石、ですよね。初めて正装した時に教えてもらったんです。リコ様の瞳の色と同じ綺麗な水色ですね」


 中央のセレソの花に使われている宝石は、何というものだろうか。優しい色合いはプリマヴェラの発泡水のようにも見えて、舐めてみたら甘いのではないかと思えるくらいに滑らかに磨かれいる。


「リコ様、付けていただいてもいいですか?」


 華子は今まで付けていた鼈甲べっこうのような髪留めを外し、くるりと後ろを向いた。


「お安い御用でございます……ん? ふむ、中々に難しいものですな」


 華子のうなじに、髪飾りと格闘するリカルドの手が触れてその度にぞくぞくとした感覚が走る。


「おお、これはこうなっているのか……よし、できた! ハナ、できましたぞ! 」


 達成感溢れるリカルドの声に、華子はクスッと吹き出し、「どうですか? 」と聞いた。


「やはり私の選択は正しかったようです。今は髪を栗色に変えているので印象が違いますが、本来の黒髪に戻せば間違いなく映えるはずです」


 確かに控え目な中にも華やかさのある髪飾りは.リカルドの審美眼が鋭いことを示していたが、ただそれだけでなく華子の好みを見抜いていたかのような抜群なチョイスをしている。しかもセレソの花をモチーフにしたもので、華子は純粋にリカルドの気持ちが嬉しかった。


「帰ったら一番に姿見に映して見たいです! リコ様、本当にありがとうございます……本当に……リコ様の気持ちが嬉しい……」

「ハ、ハナ? ……ハナコ」

「あれ? おかしいですね……悲しいわけじゃないのに……なんでだろ」


 泣くつもりはなかったが後から後から流れ出てくる涙の粒に、華子自身が戸惑い、ハンカチーフで押さえることすら忘れて手の甲で乱暴に拭う。


「やだ、本当に止まらない……」

「では、私が止めて差し上げましょう」


 リカルドの広い胸が迫ってきたかと思うと、次の瞬間、華子はリカルドに抱き締められていた。ぽん、ぽんとゆっくりとしたリズムで背中をたたかれ、逞しい腕の中にすっぽりと抱き込まれた華子の耳に、リカルドの低い声が響いて聞こえる。


「私の勘違いでなければよいのですが、嬉し泣きでございますよね? 」


 うまく答えることができそうにもなかったので華子はこくりと頷く。


「ハナコ……喜んでもらえて何よりです」


 リカルドは背中をぽんぽんとたたいてくれていた手を華子の目元にはわすと、涙を拭ってくれた。それでも、まだ濡れていた目に今度は唇が降りてくる。


「今すぐにでも、貴女を連れて帰りたいですな」

「ごめんなさい。泣いたりなんかして……」

「いいえ、違うのです。貴女を連れ去りたいということでございますよ」


 リカルドの唇が目元から頬に移る。

 温かく柔らかい感触に華子の心臓がどくんと大きく鳴り、リカルドの甘い言葉にお腹のあたりがきゅっとと甘く引き攣れる


「その涙、誰にも見せたくないのでございます」


 いくら木陰の下の目立たないベンチに座っているとはいえ、まだ太陽は明るくまばらながら人も居る。しかしリカルドにはそんなことは関係がないようだ。


「年を取っても私も男ですから、恋人の可愛いところを知っているのは、自分だけで十分だと……そういうことです」


 リカルドの親指が華子の唇を捉えると、何かを言う隙すら与えることなく、飢えたような唇で塞がれた。リカルドの舌が華子の閉じられた唇をなぞると、堪らなくなった華子が口を開ける。


「いい子だ……ハナコ、もっとこちらへ」


 リカルドにさらに引き寄せられた華子は、抵抗することなくそれに従った。もう何度か甘い口付けを交わしていたが、今日の口付けはいつもと何かが違う。

 アルマの暴走に似通った、ずっと我慢していた情熱が解放されたような深い口付けに翻弄されながらも、決して暴走ではないとわかるのは、リカルドから愛しいという感情が籠った魔力が溢れているからだろうか。愛しいという想いに見え隠れするように、華子を渇望するような荒々しい感情も伝わってくる。

 華子も市街地を歩きながら、リカルドとの間に流れる緊張感と隠された情熱の魔力を感じ取っていた。護衛組もいたので知らない顔をしていたが、ここまでくればもう誤魔化すことなどできない。

 互いの舌が絡み合うと、ここが公共の場であることなど気にならなくなってくる。


「リカ……ル、ド様、好き」


 華子が心の中に閉じ込めていた言葉が自然に溢れ出し、アルマの所為なのか身体が熱くなっていく。


「好き……リコ様、んっ、リコ様、リコ様」

「ハナコ……本当に、このまま、連れ去っていくぞ? 」


 リカルドの口調が粗野なものに変わり、顎を伝わり流れ出た唾液を乱暴に舐め取った。


 連れ去って、と言ってもいいの?


 情熱が込められたリカルドの眼差しが虹色に変わっていたが、そこには暴走のときのような不透明さはない。あるのは華子を純粋に欲しいと言う感情と、そして少しの狂気である。きっと私もそんな目をしているのだと、どこか冷静に考えながら華子はリカルドにその言葉を告げた。




 ああハナコ、逃げるなら今のうちですぞ?


 リカルドは華子の涙を見て、その華奢な身体を抱き締めながらそう思った。

 二人きりで腕を組んで歩いているとき、つまらない言い合いをしているとき、隣に座っているとき。どんなときにも二人の間にはお互いを意識するが故の壁があった。

 華子が雑貨屋でセレソの花に目を奪われていた時は、リカルドの中に焦燥感が生まれた。セレソの花を『サクラ』と呼んで懐かしそうな顔をしていた華子の手を、衝動に任せて掴まなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。そんなリカルドの心中を知ってか知らずにか、華子は故郷とこの国が繋がっていることが嬉しいと言った。

 元の世界に帰れないと告げた夜、リカルドの腕の中で泣き疲れて眠ってしまったときのような悲愴感はなく、心底嬉しいと思っているような華子を見て、リカルドはこっそりと『サクラ』の花の髪飾りを購入したのだ。

 こんなに喜んでもらえるとは思わなかった。悲しい涙ではなく嬉し涙を流す華子を、リカルドは愛しいと思った。


 決して離したくはない、離すものか。


 アルマの暴走ではないことに、リカルドを支配する感情に暗いものはない。ただ、華子を想う気持ちと男の本能が囁き始める。


 ハナコが欲しい。


 冷静な自分は年寄りの癖にと揶揄するが、一度溢れ出した情熱は止まることを知らなかった。深く深く口付けて華子に秘められた感情を呼び覚まそうと舌を絡ませると、いつもの華子からは考えられないほどに狂おしいまでの好意と信頼と感謝が込められたアルマの魔力が流れ込んでくる。


「リカ……ル、ド様、好き」


 ああ、好きだと、俺を好きだと言うのか。

 熱に浮かされたようにとろんとした黒い瞳の華子には、しかしながら確かに意思がある。


「好き……リコ様、んっ、リコ様、リコ様」

「ハナコ……本当に、このまま、連れ去っていくぞ? 」


 ここは公共の場だが、リカルドの邸宅なら誰にも邪魔をされることはない。だが、もしハナコが躊躇ためらいを少しでも見せたら今はここまでだ。


 今なら止められる、だからどうか……。


 華子に見つめられたリカルドは葛藤しながらも逃げ道を残してやった。だがしかし、華子は静かに告げる。


「どこへでも、リカルド様と一緒ならどこへでも……」



 市街地の一画、待ち合わせの場所の片隅に焔を模した鮮やかな蝶が舞い踊ったのは、それからまもなくのことだった。

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