第36話 同じ世界から来た客人 ④
「お待たせしました」
華子の声に振り向いたブルックスは、さっきよりも落ち着いて見えた。
「……お恥ずかしいところをお見せしてしまいすみません」
感情を吐露したことによりスッキリしたような顔をしており、そんなブルックスに華子は少しだけ安心する。
「私はまだこの世界に来て一ヶ月半くらいしか経っていませんけど、結構感情を爆発させてます。でも、三十歳があられもなく取り乱すなんて、自慢できる話じゃありませんね」
空になったコップにコーヒーをつぎ、ブルックスに手渡すと、彼はこの世界に来て見慣れてしまったあの表情をしていた。
「私の年齢に何か文句でもありますか?」
「い、いや……ああ、日本人が若く見えるって本当だったんだと。私より年上だったとは思いもせず、すみません」
これには華子の方が驚いた。ブルックスが醸し出す老成した雰囲気に、三十五歳くらいと勝手に思い込んでいたが、二十代だったとは信じられない。
「え? すみませんブルックスさん、お幾つですか? 」
「もうすぐ三十歳になりますが、まだ二十九歳ですよ。この世界に来た時は二十三歳だったんですから月日が経つのは早いものですね」
華子よりも一歳だけしか違わないことに何故か安心したが、当時二十三歳といえば、大人といえどもまだまだ学生気分が抜け切らない頃だ。アメリカでは十八歳くらいで大人の仲間入りをし、パートナーを決めるとも聞いたことがあるので、ブルックスは早くに社会人になったのだろう。
日本でも、四年大学に行けばの話で、華子のように短大卒や高卒の者たちは、社会にこなれてきた年頃であり、それと同時に社会の厳しさを感じる頃でもある。
華子の場合は二十三歳といえば、既にリストラされて途方に暮れていた暗黒の時代である。そんな頃に異世界に飛ばされるのとリストラされて路頭に迷うことのどちらが大変かと問われても、どっちもどっちだとしか言いようがない。
「まだ人生が始まったばかりでシールの任務も幾つかこなして、これからだという時に、失敗して仲間を危険にさらしてしまった自分が異世界でのうのうと生きていることに、罪悪感すら感じるんです」
「その話を誰かにしましたか? 」
「いいえ。私には守秘義務が課せられていますから、当時は何も。あの宰相は私を危険人物として定め、ずいぶん長い間監視されていましたから、余計に話せませんよね。見兼ねた総司令が私の身元引受人になってくださって警務隊で働きはじめましたが、過去の話なんかしようものなら総司令や皆に迷惑がかかるでしょう? 」
二十三歳のブルックスは自分を守ることに必死だったに違いない。フロールシア王国法で国賓と定められた
警務隊総司令はそうした現状から、ブルックスを解放する為に身元引受人になったのだろう。でもこのままでは警務隊総司令やブルックスの同僚、そしてウルリーカの気持ちが無駄になってしまう。
「溜め込むから余計に辛いんです」
華子はそんなブルックスに諭すように話し始める。
「全部話したら楽になりますよ? 私も、不安なこととか正直な気持ちとか、たくさん話してスッキリしましたから」
リカルドにぶつけてしまった理不尽な感情を、彼ははちゃんと受け止めてくれた。恐くて不安で元の世界に帰りたいと泣いた華子を抱きしめてくれたあの日の夜に、華子はリカルドに対して絶大な信頼を寄せたのだ。
フリーデもイネスもライラもドロテアも侍女として華子に尽くしながら、いつも華子を思ってくれている。アルマについて教えてくれたイェルダには、いくら感謝してもし尽くせないくらいにお世話になった。
ブルックスの周りにも、そんな風に身を案じてくれる仲間がたくさんいる。そのことを受け入れるだけで、きっとブルックスは前に進めるはずだと、華子は思うのだ。
「ブルックスさん、魂の伴侶、コンパネーロ・デル・アルマという存在を知っていますか? 」
「えっ? ええ、同僚にも居ますから、それなりには」
「私、リカルド殿下のコンパネーロ・デル・アルマなんです。 アルマってとっても厄介で、ちゃんと感情を制御できないと嫉妬して暴走するんですよ。つい最近、暴走したばかりの私が言うのもなんですけど、周りの人からすれば厄介な癇癪持ちだと思います。気分は最悪で、頭の中はぐちゃぐちゃで……」
突然何を言い始めたのだ、という表情のブルックスに、華子は話を続ける。来たばかりの華子ですら話を聞いてくれる存在が、助けてくれる存在がたくさん居るのだから、もう少し周りを見てほしい。
「大変ですけど、きちんと自分の気持ちを伝えれば、同じだけの気持ちを返してくれたんです。我慢するのも大切だと思います。ブルックスさんの職業は強さが求められるもので、弱音とか言っちゃ駄目だって思ってませんか? 」
ブルックスはキュッと口を引き結んで何かに耐えるような顔をしている。精鋭の軍人なのだから、強くあれ、と求められることに慣れ過ぎてしまいのかもしれない。きちんと昇華できれば、それはそれでいいのだろう。しかし、どこかで無理をすると、歪みは大きくなる。
「ブルックスさんが今まで溜め込んできたことを受け止めてくれる人、たくさんいるんでしょう? 貴方を大切に思ってくれている人が、みんな貴方を待っているんですよ」
するとブルックスは弾かれたように顔を上げた。
「貴女に何がわかるんですか! 第九王子のアルマとかいって、特別扱いを受けている貴女に!! 」
そう叫んだブルックスは、華子を睨みつけるようにして見ている。この世界で辛い仕打ちを受けたブルックスのことなど、華子がわかるはずもないことは承知の上であるが、華子には華子の辛さがあるというものだ。
まだ睨んでくるブルックスに華子も毅然と言い返す。
「そのことで宮殿の皆さんや、ブルックスさんたち警務隊の皆さんに迷惑をかけている自覚はあります。ちやほやされて、ぬくぬくと過ごしている自覚も。でも、一般人の私がそれを笠にきているとでも? 私にも監視くらいついていますが、気の持ちようでどうとでもなります。皆さんがくださる好意も、それを
子供のように拗ねていても何も始まらない。
受けた好意をどうやって返すかが目下の悩みであるのだが、恩知らずにはなりたくない。だからあえて、ブルックスに対して厳しい言葉を吐く。
「恩を仇で返すって言葉、わかります? 恩人には感謝こそすべきなのに、それどころか害になるような行為をすることを言うんです。貴方のその頑なさが、警務隊総司令や警務隊の皆さんに迷惑をかけていると考えたことはないんですか? 」
「それは」
息を飲んだブルックスの視線が揺れた。机の上に置かれた手が小刻みに震えている。
「偉そうなことを言ってごめんなさい。でも、私だって質疑の場で宰相から嫌な思いをさせられました。あんな悪意を、ブルックスさんは一人で耐えたのですよね。私なんか、リカルド殿下が守ってくださらなければ、きっと負けていたはずです」
ノロノロと華子に視線を戻したブルックスは力なく呟いた。
「貴女も、宰相の洗礼を受けましたか」
「ええ、少しだけですけど。でも、ただの一般人の私にだって我慢出来ないこともあるんです。言わなきゃわからないんですから、きちんとした対応をさせていただきました」
ばつの悪そうな顔の華子に、ブルックスも考えるところがあったのだろう。言いにくそうではあったが、自分の考えを話し出した。
「私は……逆らえば状況が悪くなると。軍事機密なんて流石に言えませんでしたから、黙すればなんとかなると思って」
「それとこれとは別物ですよ。話したくないことは話さなくてよい、と私もリカルド殿下から言われていましたので。そうではなくて、貴方にはその考えや気持ちを伝えられるくらいに信頼できる人はいないのですか?」
華子はブルックスの手に自分の手を重ねる。ブルックスはビクリと身体を強張らせたが、華子は構わずに続けた。
「私が言ってもいいですか? まず、警務隊総司令様、ミロスレイ地区隊長、アベルさんにコンラードさん、貴方を先輩と呼んで慕っている若い人に、たくさんの同僚さんたち。皆さん、「さみしい」んだそうですよ? 」
「さみしい? 」
「貴方が帰ってしまうことがさみしいんですって」
「それは、どこで聞いたのですか? 」
「今さっき、席を外したときに、皆さんが一斉に教えてくださいました」
「……そうですか、あいつら」
「他にも色々聞きましたけど、それは本人たちから聞いてくださいね。貴方は愛されているんです。自信を持ってください」
俯いてしまったブルックスは、重ねられた華子の手をそっと外すと、何かを隠すように前髪をかきあげた。
「私はウルリーカさんのように医術師ではないので専門的なことはわかりませんが、カウンセリングを受ける必要性については、私にもブルックスさんにもあるような気がします。そういった精神医学はユナイテッド・ステイツの方が発達していたと思うんですけど……どうでしょう?」
ここで少しウルリーカの話題を出してみた華子は、ブルックスの反応を固唾を飲んで見守った。自分のことでいっぱいいっぱいのブルックスが恋愛をする余裕を持ち合わせているかどうかはわからないが、脈がありそうなのか気になる。
「ウルリーカ? ああ、そうだ……私も彼女にはたくさん迷惑をかけた」
よしきた、とばかりに華子は食らいつきそうになった自分を戒めた。仲人をするわけではないのだから余計な詮索はすべきではない。
「私なんか最近体調を崩してダウンしてしまって、ウルリーカさんに助けられたんです。腕のいい医術師ですから、彼女のカウンセリングでも受けたら不安も解消するかもですね」
「彼女は妹と年が近い所為か、私はどうも反発してしまうんです。彼女が悪いわけではないのですが、気が強くてお節介な妹とダブってしまって」
どうやらウルリーカの努力は逆効果であったらしく、彼女に対するブルックスの印象は芳しいものではない。しかし、妹と認識されているなら今後逆転できる可能性は秘めている。帰ったらウルリーカにどうやって説明しようか、悩ましいところだ。
「ああ、しかしミズ ハナコ。貴女のお陰でずいぶん考えさせられました。途中八つ当たりしてしまいすみません」
「私こそ生意気なことばかり言ってしまってごめんなさい」
いきなり来たばかりの日本人から説教されてはいい気分はしなかったはずだ、と思って華子も謝った。華子自身も考えさせられることがあったのだ。
特に客人としては破格に恵まれた環境にあることを再認識したことで、今後どうやって生きていくのか考えを改めなくてはならない。仕事をするにも、ブルックスのように手に職があるわけでもなく、この間求人雑誌でみかけたタイピングの仕事や店子くらいしかできそうなことがないのが難点だ。
「結構時間が経ってしまったみたいですから、私はそろそろお暇しますね。ブルックスさん、今日はありがとうございました」
「いえ、私こそ貴女と話せてよかったです……ありがとうミズ ハナコ、私もこれから、自分に素直になっていきたいと思います。とりあえず、とりあえずは、世話になった人にくらいには」
席を立った華子にブルックスも立ち上がり、おもむろに右手を差し出してきたので、華子はその手を右手でしっかりと掴む。ブルックスの手のひらはリカルドと同じようにたこができていて、力強かった。
握手していた手を離し、もう大丈夫だと感じた華子が部屋から出ようとした瞬間、ブルックスが慌てたようにもう一度華子の手を掴んだ。身体がビクッと震え、何事かとブルックスを振り返ると、彼は何故か顔を背けたまま目を泳がせている。どこか気恥ずかしいシチュエーションに華子がドキドキしていると、ブルックスは小さな声で独り言のように呟いた。
「ミズ ハナコ……あなたの部屋付きの侍女に、ドロテア・デ・ラ・カマラ嬢はいませんか? 」
少し肩透かしを食らった華子であったが、気持ちを切り替えて言われたことを反芻する。ドロテア・デ・ラ・カマラかどうかは知らないが、ドロテアであれば華子の侍女の一人で良き話し相手である。
「その方は赤毛に緑の瞳の女性ですか? 」
「そうです。まだ二十代前半くらいの女性です」
「ええ、その女性なら居ます。私もずいぶんお世話になっていますが、彼女がどうかしましたか? 」
華子は侍女たちから名前は聞いても苗字は聞いていなかったので、今まで気が付くことはなかったが、ドロテアの苗字がデ・ラ・カマラというなら、彼女は貴族の子女である。フロールシア王国やその周辺諸国では、名前と苗字の間に何かしらの別の名前が入る者は貴族だと聞いていた。しかし華子に気を使わせないためか、侍女が苗字を名乗ることはない。侍女長であるフリーデですら名前しか名乗っておらず、それは徹底されていた。
「その……彼女は元気でいるのか」
「ローテーション的に昨日がドロテアの担当の日でしたけど、特段変わったことはありませんでしたよ」
「彼女は今日、貴女が私に会うことに、その、何か言っていませんでしたか? 」
そういえばドロテアは何も言わなかった。ブルックスが華子と同郷の客人であることを話した時は驚いていたが、それきりだ。
「……特には」
華子の言葉に「そうですか」と気落ちしたようなブルックスに、華子はなんとも言えない気持ちになった。まさか、とは思いたいが、この世界の住人と馴れ合いたがらないブルックスがここまで他人を気にする理由など一つしかないように思えた。ドロテアは宮殿の客人の世話をすることが仕事であり、ブルックスも宮殿にいた頃にドロテアにお世話になったのかもしれない。しかし、ブルックスの様子から、それだけではないような気がする。
「あの、ドロテアに伝言があるなら伝えますけど」
「いえ、いいんです……いや、それなら……お変わりはありませんかと……いえ、大丈夫です、何でもありません」
怪しいくらいに慌てるブルックスに、華子は嫌な予感が的中したと思った。
ごめんなさいウルリーカ……やっぱり無理かも。
ドロテアに恋人はいないと聞いていたが、もしもそれにブルックスが関係しているのであれば、ウルリーカに勝ち目はないかもしれない。しかし、ドロテアが貴族だというなら結婚は家の問題とも言えるので、そうなるとウルリーカにもチャンスはあると言えるが……。どちらにしても誰かが涙を飲まなければならないような予感に、華子は人の恋愛話には顔を突っ込むべきではないと後悔したのだった。
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