第29話 リカルドの後悔

 私は今、何をした?

 ハナコが居なくなるのではないかと焦燥感ばかりが募ってまともに考えられなくなり、それから……?


 瞼には華子が泣いている姿が焼き付いており、その耳には華子の悲痛な声が木霊してリカルドを責め立てていた。


 『わかり合えないのなら……そんなのがアルマだというのなら、私はアルマなんていりません! 』


 違うのだと叫びたかった。

 出来るものなら己の口から出た言葉すべてを、なかったことにしたかった。しかし、都合よくときが戻るはずもない。取り返しのつかないことを犯してしまった罪悪感に、リカルドの心が悲鳴をあげそうになる。

 アルマが暴走したのだと理解したときには、華子は既に泣いていた。最初は子供のように懇願し、次にはわざと追い詰めるように挑発して華子を傷付けてしまった。その柔らかな唇に無理矢理口付け、このまま最後まで……と願ってしまった。


「許してくれなどと……どうして言える? 」


 無常にも閉じてしまった扉を開くことすらできず、リカルドは薄暗い資料室に、ただ立ち尽くすしかなかった。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇




 どれくらい経ったのだろうか。

 資料室を素通りして行く静かな足音に混じり、カチャカチャと金属が鳴る音が近付いてきたかと思うと、部屋の前で止まる。ゆっくりと開けられた扉から光が入り込み、リカルドの背後に影が伸びた。


 まさか中に人がいるとは思うまい。


 誰が来たのかわからないが、ここから立ち去るように言おうかと考えたリカルドに、その人物は驚くことなく話しかけてくる。


「いつまでそんなところにいるんですか? 」


 聞き覚えのある声にリカルドがのろのろと顔を上げると、そこには部下に呼ばれて仕事に戻ったはずの近衛騎士団長の姿があった。


「エメディオか……何をしに来た? 」


 まだ誰とも話したい気分ではないリカルドは、近付いてきた近衛騎士団長 –––– エメディオに背を向ける。どうしてこの場所がわかったのか知らないが、多分アルマ特有の魔力を辿ってきたのだろう。つい先ほどまでアルマが暴走していたのだから、エメディオほどの者であれば辿って来ることなど容易いはずだ。


「ほらほら、シャキッとしてくださいよ、リカルド殿下。こんなところに灯りも点けずにいたら皆びっくりしますよ? とりあえずここから出ましょうか」


 リカルドの拒絶もなんのその、エメディオはリカルドの強張った肩に手を置くと顔を覗き込んだ。


「放って置いてくれないか」

「そういうわけにもいきませんので。ほら、ハナコちゃんのことも気になるでしょう? 」

「…………」


 華子のことを話題に出されたら無視するわけにもいかない。来ないでください、と涙を流した華子に言われ、そのまま行かせてしまったのは他ならぬリカルドである。広い宮殿の中を迷ってはいまいか、彼女が無事にアマルゴンの間まで戻ることができたのか、心配になるのは仕方がない。


「彼女は、ちゃんと戻れたのか? 」

「ハナコちゃんにはイェルダを付けておきましたから、心配は入りませんよ。貴方のところの怖い文官長と、可哀相な副団長には僕が伝令を飛ばしておきましたから、今日は腹を割ってとことん話しましょうね」

「今さら話すことなどあるか」


 同じアルマ持ちのエメディオにはすっかり暴露ばれてしまっているようで気まずい。そもそもエメディオに華子のことを『ハナコちゃん』と呼ばれることすら気に入らないが、ここでまた嫌な方向に感情が傾けば、再びアルマの暴走をゆるしてしまいそうでぐっと我慢する。


「貴方がピリピリしていることは端から見てもよくわかりますよ。僕は性質上、別の意味で危ういと感じてましたけど、相当抑え込んでいたみたいですね。今は大丈夫ですか? 」

「ああ、だいぶ落ち着いた」


 リカルドは平静を装ってはいるが、エメディオにはピリピリとした何かが感じ取れるのか、神妙な顔つきになる。


「……アルマの暴走なんて久しぶりなんじゃないですか? 」

「三十年前に起こして以来、ない」

「三十年前?! 殿下、どれだけ我慢強いんですか」


 エメディオの目が半眼になり、リカルドを疑わしげに見つめてくる。しかし嘘を言っているわけではない。自暴自棄になったことはあれど、アルマの暴走は人生の中でたった二回だけしか経験したことがない。


「悪いか。最初の暴走だってこんなにまで酷くはなかった。自分の感情を制御できないなんて初めてだ」


 三十年前のアルマの暴走の副作用で派手に遊んだわけではない。むしろ、一向に見つからないアルマに見切りをつけ、ある意味達観したとばかり思っていたリカルドは、現実はそう甘くはなかったとごちる。


『リカルド殿下って忍耐力の塊みたいですよね。森人の血か何か入ってるんですか? 』


 いつだったか、昔の面影をすっかりなくしてしまい、大人しくなったリカルドに、部下がこう問いかけたことがある。スル大陸に住む『森人』と呼ばれる人々は、寿命も長ければ気も長いという些細なことは気にしない大らかな種族で、彼らは滅多なことでは怒らず基本争いごとはしない。戦争中は四枚羽のドラゴンを駆り、敵兵を容赦なく屠ってきたリカルドとは相反する存在だが、戦争が終わってからこっちは枯れ果てたような森人のような生活を送っていたので、周りの者もリカルド自身でさえも勘違いをしていたようだ。

 しかし、リカルドは決して『冥界の使者』と渾名された頃の獰猛さを失ったわけではなかった。暴走していたとは言え、華子に言った言葉のすべてが、リカルドの醜い本心が増長されたものだと気付かされただけである。


 このもどかしいほどの想いを受け止めて欲しい。

 気が狂いそうになるほどの孤独から救って欲しい。

 誰にも見せず、この腕の中に閉じ込めてしまいたい。

 自分だけを見て、自分だけに微笑んで欲しい。

 彼女のすべてを自分だけのもに……。


 自分と華子の邪魔をする者を何もかも排除したいとまで考えたことに、正気を取り戻したリカルドは狂気の沙汰を感じた。


「ほらまたピリピリしてますって! やれやれ、永き眠りについていたはずの『冥界の使者』がすっかり覚醒してしまったみたいですね」


 少し顔を青くしたエメディオが戯けた口調で揶揄する。そしてそれはあながち嘘ではない、とリカルドはぼんやりと思った。


 このまま資料室に籠っていても仕方がないということで、リカルドはエメディオから半ば引きずられるようにして近衛騎士団長執務室に押し込められた。人払いは既にできているようで、執務室内から続いている応接室のソファに座らされると、エメディオ自らが茶器を持ってくる。


「それじゃあ、何があったか聞かせていただきましょうか」


 エメディオがどこか嬉しそうな雰囲気を醸し出しているのは、リカルドの気の所為ではあるまい。香ばしいお茶をカップに注ぎながらも、こちらから目を逸らずじっと見据えるエメディオに、リカルドは観念したように唸った。


「そう難しい顔をしないでくださいよ。あの時の借りを今やっとお返しできると思うと嬉しくて仕方がないんです……それに、万年氷よりも硬い貴方の意思も、アルマの暴走の前にはかなわなかったみたいですから、二十一歳の僕には到底抑えきれるものではなかったということが証明されて、僕の名誉も回復できましたし」


 エメディオは昔を思い出して苦笑した。

 隣国オルトナ共和国との戦争中に、最前線でアルマの暴走を起こし、敵味方関係なく無差別に攻撃を仕掛けたエメディオを止めてくれたのはリカルドだ。敵の重騎士としてエメディオと対峙してしまった、エメディオのコンパネーロ・デル・アルマのイェルダを救うためだったにせよ、味方にまで被害を及ぼすとは重罪ものだった。リカルドの渾身の一撃を食らい気絶したエメディオが意識を取り戻し、事の顛末を聞いたときは死すら覚悟したものだ。

 しかし、重大な被害が出る前にリカルドによって阻止され、当時治癒術師であったパルティダ侍女長の尽力により、味方側の死者が出なかったことが幸いして有耶無耶のうちに処分すらなく終わってしまった。それどころか敵側の戦力を大きく削ぎ、膠着こうちゃくしていた戦況を一気に優勢に持ち込んだとして、エメディオは一躍英雄と評された。

 この一連騒動の真相は、エメディオ本人とイェルダ、リカルド、パルティダ侍女長、そして引退してしまったバニュエラス元竜騎士団副団長しか知らない。この偽りの功績により、若くして近衛騎士団長まで登り詰めたエメディオにしてみれば、釈然としないものだったのだ。


「今も昔も、お前を咎めようなどと思ったことはないさ。ただ私も同じアルマ持ちだから、同じようなことが自分の身に降りかかると思うと空恐ろしくてな」

「言い訳ではないですが、あの状況下でもしイェルダに何かあったらと思うと自制心なんて吹き飛びましたよ。あと一年待てばイェルダは成人して、名実共に僕の伴侶になるはずだったんですから……開戦直前に泣きながら愛を交わして別れた夜を、僕は一生忘れません」


 酔ったように力説するエメディオに、リカルドは飽きれたような目をして問いかける。


「あの時、イェルダはまだ貴族の子女でしかも未成年だったはずだぞ? お前、先に手を出したのか? せいぜい手を繋いで逢引きするくらいで十分だったろうが……」


 これにはエメディオも驚いた。浮名を流した元『セレソ・デル・ソルの恋人』らしからぬ質問である。


「まさかリカルド殿下。つかぬ事をお聞きしますが、殿下はまだ手を繋いだだけなんですか? あんなに可愛いハナコちゃんを前にして? 熱い口付けは? 身を焦がすような抱擁は? 」

「馬鹿を言うな。ハナコは客人まろうどだ。アルマとは言え無理強いなどできるわけがないだろう。いや、暴走とは言え無理強いをしてしまった私が偉そうな口を聞けるはずもないな」

「どこまでですか? 抱擁? 口付け? もしや」

「いかがわしい妄想をするな! 抱擁と口付けだけだっ!! 」


 思わず叫んだリカルドに、エメディオは信じられないものを見たとでも言いた気な顔になる。アルマを前にしてひと月も我慢し続けるなんて、なんという精神力の持ち主なのだろうか。少なくともエメディオには無理な話だ。


「どれだけ聖人君子なんですか貴方は」

「一緒にしないでもらいたいな」

「リカルド殿下が我慢強過ぎるだけですよ。そんなに溜め込むから暴走したんじゃないですか? 」

「お前と違って私は出逢って直ぐに口説けるような年齢ではないんだ」

「それにしたって小出しにするとか方法はあったんじゃないですか? 自慢じゃありませんが僕はイェルダと出逢ってから三日で手を繋ぎ、十日で熱い口付けを交わしましたよ」

「だから節操なしのお前と一緒にするな! 」

「節操なしで悪かったですね! 可愛くて優しいイェルダと一緒にいて我慢できるわけないですよ。まあ、普通のアルマよりも自分はかなり情熱家だと思いますが。それでも何にもなしでひと月は拷問にも等しい苦痛です」


 リカルドだって、可愛くて優しくて、心細いはずなのに前向きでひた向きで、芯が強くて、思いやりがある可憐な華子に想いを伝えたい。あの甘やかな唇を食み、柔らかな身体の温もりを感じたいのはやまやまだ。最近はそんな願望が脳裏に住み着き、リカルドを狂わすくらいにさせるというのに、あと一歩が踏み出せなかった。


「……この年になって本気なんだ。ハナコを適当に扱うなどできるはずがない」

「確かに昔のことはいざ知らず、今はあり得ないくらい女性に潔癖ですからね。竜騎士団の訓練にも顔を出していないんじゃあ鬱積も溜まりますって」


 エメディオの言う通り、確かに最近は訓練で汗を流すことが極端に少なくなった。だがそれを言い訳になどしたくはない。


「それがなんだと言うんだ。ハナコは私に振り回された犠牲者だ。許してもらえるとは思っていない」

「それでも謝罪は必要ですよ。ただ謝るだけじゃなくて殿下の想いも一緒に、ハナコちゃんのことがどんなに大切か伝えるんです」

「それでまた同じことを繰り返すのか? こうなってしまった以上、冷静に話せるかどうかも怪しいというのに」


 また暴走したらと考えると恐ろしい。一縷の望みに賭けてはみたいが、失敗ぼうそうすれば今度こそ終わりだ。


「後でイェルダからハナコちゃんの様子を聞きますから、それを踏まえて考えてみてはどうですか? 」

「直ぐに、とは難しいか」

「ハナコちゃんにも考える刻が必要ですよ。そして殿下、貴方にも」


 考えて考えて、さらに考えろとは厳しいな、とリカルドは肩を落とした。しかし、泣いたのは彼女で泣かせたのは自分だ。冷静に、この想いを伝えるにはどうすればよいというのか。


 華子の悲痛な声は、まだリカルドの耳から離れてくれそうにはなかった。

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