第12話 この世界に来たすべての客人たちへ
お昼も過ぎた頃、扉の前でリカルドは一冊の本を手に取り溜め息をついていた。
性急過ぎた、ハナコ殿を泣かせてしまった。
異界の
それほどまでに華子は知りたがっていた。それと共に知ることを恐がってもいた。そして、リカルドによって真実を告げられた華子は、泣きながら必死で受け止めようとしていた。泣けば元気になる、また笑えると言って。
その姿にリカルドは衝撃を受け、華子に慰めの言葉ひとつもかけてあげることができなかった。昨夜のリカルドはただ、泣き疲れて眠るまで華子を抱き締め、そしてフリーデたちに預けることくらいしかできなかったのだ。コンパネーロ・デル・アルマである華子が嘆き悲しむ様子を、ただ見守ることしかできないのは想像以上に辛い。
泣けば、元気になる……か。
華子の言葉を思い出したリカルドは、手に持った赤い革表紙の本にもう一度目を落とす。例え華子がリカルドを拒否しようとも、この本であれば受け入れてくれると信じて。
リカルドは深呼吸を一つしてから、アマルゴンの間の扉をノックした。
「ハナコ殿、昨夜は申し訳ないことを」
「リカルド様、昨日はごめんなさい」
侍女に扉を開けてもらい、中に入ったリカルドの第一声と、待ち受けていた華子の第一声が被る。華子は猫足のソファから立ち上がり、不安そうな面持ちでリカルドを見つめていた。そこに嫌悪の感情は見られず、そのことにリカルドは安堵する。
「いつかは知らなければならないことだったんです。言い辛いことだったと思います。取り乱してごめんなさい」
「いえ、私こそ性急でした。謝ることなど何もありませぬ。ハナコ殿のお気持ちも推し量れず、まことに申し訳ありません」
華子は何故リカルドが謝るのかわからなかったが、フリーデがリカルドに向ける剣呑な視線を見て思い出した。確か、反省の意味を込めて仕事を与えてきたと言っていた。それは多分、華子に関することで。何もリカルドが落ち込む必要はないと思い、華子はここは自分が折れるしかないと観念した。
リカルドは王子で、華子は国賓だ。
その王子が、目下の者の前で成り行きだとしても国賓となった華子に謝罪しているのであれば、受け入れなければならない。本当は国賓などと大層な身分ではないただの一般人なので、心苦しいのだが。
「リカルド様、お気持ちはわかりました。でも、もう大丈夫です。これでも私、逆境に強いんですよ? 」
華子が笑顔で答えると、リカルドは肩の力を抜いた。しかし、まだ納得のいかない様子が見受けられたので、華子は言葉を続ける。
「私は、私のいた国……日本って言うんですけど、その国で働いてた会社が働き出してすぐに潰れてしまって、もう少しで路頭に迷うところだったんです。でも生きていかなきゃならないし、必死に仕事を探して、この世界に来る前の八年くらいは、仕事を三つ掛け持ちしてたんです。会社ではいびられるし、住んでる部屋は古いし狭いし汚いし、ベッドはないし。睡眠時間なんてまとまって取れないし。お金もないから贅沢なんてできなくて、だから、その、ここに居させていただいて、感謝しています。本当にありがとうございます」
「ハナコ殿……ずいぶん、苦労を重ねてこられたのですな」
「ハナコ様お可哀想」
「私たちがおりますから、大丈夫でございますよ」
つい口が滑って話してしまった境遇に、リカルドや侍女たちは大いに同情してくれた。同情が欲しくて言ったわけではない華子は複雑だ。不幸自慢ではなく現実を話したつもりが、どこか正しく伝わってない気がする。世界が変われど、リカルドはやんごとなき身分の王子様なので民間人の生活など知らないのかもしれない。
「とりあえず、私も現実を受け止めました。だからこれから、色々と教えてください」
華子は頭を下げる。
「ハナコ殿、頭をお上げください」
リカルドに言われて、華子はそろそろと顔を上げた。リカルドの瞳と華子の瞳が交わる。華子が落ち込む自分を元気づけるためにわざと明るく振る舞っていることがわからないリカルドではない。しかし華子は昨晩言った通り元気で、まだ笑顔こそ見せてないがもう泣きじゃくっていた華子ではなかった。
リカルドはそんな華子の頭を撫でようと手を伸ばし、その手に本を握っていることを思い出した。
いかんいかん、本来の目的を忘れるところであった。
思い直したリカルドは手にしていた本を華子に差し出す。華子が差し出された物に目を移すと、それは赤色の艶のあるカバーが付いた本だった。立派な装丁の本に、華子は首を傾げる。
「ハナコ殿、この本を読んでください」
「これは? 」
「百二十年ほど前に、この国に来た客人が書いたものにございます。彼は異界の偉大な研究者で、国の発展に尽くしてくれました」
華子はリカルドから本を受け取り、表紙を見る。この国の文字を知らない華子に、本を渡すとはどういう意図があるのだろうか。高級そうな赤い表紙には、金色の飾り文字が書いてあった。
「『この世界に来たすべての客人達へ』?」
華子はその見たこともない文字をすらすらと読んだ。アルファベットにも似た文字だが、どこの国の文字か検討もつかない。でも、華子には確かにそう読めた。魔法の本だろうか、不思議な現象に華子は文字を何度も読み返すが、やはり読める。
「彼は客人についても研究し、数多くの著書を残してくれたのですよ。これはそのひとつで、客人のために書かれたものです」
「この本に、すべてが書かれているんですか? 」
「残念ながらすべてとは。しかし、彼が客人の幸せを願い書き記したもので、客人に宛てた説明書だと、本人は申しておりましたよ」
リカルドは、記憶の中の懐かしい彼の男が言っていたことを思い出しながら答えた。幼いリカルドにたくさんのことを教えてくれた彼は、いつも好奇心旺盛で優しい笑顔だった。
「会ったことあるんですか? 百二十年も前ですよね?! 」
リカルドは六十歳だったはずでは、と華子は混乱する。百二十年前では倍以上だ。
「百二十年前は私も生まれておりませぬ。彼は長生きの種族でして、私が八歳の頃までこの宮殿におりました」
「今は、どこに? 」
「さて、わかりません。来たときと同じように、ふらりと居なくなってしまったのですよ」
その研究者が長生きだったのか、と何故かほっとしながら華子はもう一度心の中で表紙を読む。この世界に来たすべての客人達へ、と確かに読めるその文字が、華子に少しだけ勇気を与えてくれた。
「この本を本当に読んでもよろしいんですか? 」
「そのつもりでお持ちいたしました。ハナコ殿さえよろしければ、明日にでも学者たちをよこします。この世界や国の話、他の客人の話も聞けましょう。最初の一頁を開いていただけますか? 」
リカルドに促されて華子が表紙を開く。そこには表紙と同じ文字でこう書いてあった。
『この世界に来たすべての客人達へ
君は今、戸惑いと悲しみと絶望の中にいるのだろうか。
それとも、夢と希望と興奮で満ち溢れているのだろうか。
君はこの世界にやって来た。
突然、何の前触れもなく、君の世界から切り離されてしまったのだ。
絶望にある君よ、悲観してはならない。
希望に満ちた君よ、慢心することなかれ。
知ることを恐れてはならない。
立ち止まることなく前へ進まねばならない。
私はこの世界に来たすべての客人のためにこの本を書き記す。
すべての客人達が、幸せとなるために』
この本を書いた研究者も客人である、とリカルドは言っていた。この人もここに書いてある通りの感情に振り回されたのかもしれない。その事実は、華子に少なからず希望をもたらした。
まずは知ることから始めよう。
昨晩リカルドは、フロールシア王国だけでも、かなりの数の客人が来ると言っていた。その全ての人が、絶望したわけではない。きっと、自分なりの幸せを見つけて、この世界で精一杯生きたはずだ。この本を書き記した客人の研究者も、自分の居場所を自分で作り上げたに違いない。
「私、今から読んでみます」
リカルドが大きく頷いてみせたので、華子は猫脚のソファに座りページをめくった。
『言葉の章
さて、君は今どこの世界の言葉を話しているのかな?
きっと誰もが自分の世界の言葉を話していると答えるだろう。
だが、それは間違いだ。
君が話しているのはこの世界の共通語なのだから。
この本も、この世界の共通語で書かれているのに読めるのはどうしてだろう。
それは君が、この世界の共通語を話していることにほかならない。
嘘だと思うなら、何か文字を書いてみるといいだろう。
君の書いた文字は君がよく知る文字ではないはずだ。
そう、君はこの世界の言葉を話し、この世界の文字を読み、この世界の文字を書けるのだ。
それと同時に、君の世界の言葉は君が意識していないと話せない。
君の世界の文字は君が意識していないと書けないのだ。
それは何故か。
私にもわからない。
魔法や神様の仕業としかいいようのない不思議だ。
ともかく、君はこの世界で会話と読み書きには困らない。
自立への第一歩だとは思わないかい? 』
「共通語を話す? この世界の、言葉」
「ハナコ殿はこの世界に来てからずっと共通語を話されていますぞ? 」
華子は今まで意識せずに話していた。この著者の言うことが正しければ ––––
『では、これはどうですか? わかりますか? 』
華子の言葉にリカルドは首を横に振る。日本語を意識するとはどのようにすればよいのかわからなかったので、日本語、日本語と念じながら話してみると、どうやらきちんと日本語になり、リカルドには理解できなかったらしい。
「リカルド様、私はアラサーでリア充とは程遠い生活をしていたのですが」
今度は共通語を意識する。
「ハナコ殿、『あらさー』と『りあじゅう』の意味がわかりませんな」
固有の言葉も伝わらないようだ。それは、とても興味深い内容であった。
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