第6話 華子と侍女と豪華な部屋

 足を洗い終えた華子はフリーデが渡してくれたタオルで足を拭き、用意されていた柔らかい革でできたバブーシュのような靴を履いた。サイズがピッタリなところがそこはかとなく怖い。そこに、フリーデが配膳台を押してくる。銀色のデキャンタとグラスが置いてあるので、何かの飲み物だろう。


「まずはこちらで喉を潤しくださいませ」


 フリーデが差し出したグラスには、淡いピンク色の液体がそそがれている。華子はグラスを受け取りそっと匂いを嗅いでみた。初めてのものを口にするときはやはり慎重になってしまう。恐る恐る香りを吸い込んだ華子の鼻腔には、爽やかな花のような香りが残った。


「プリマヴェラの花とその蜜の発泡水でございます。女性に大変人気でございまして、リカルド殿下がお勧めなされたのです。ハナコ様に是非お飲みになっていただきたいと仰られておりました」


 フリーデは華子の様子を見守りながら飲む様に促す。華子の飲み物まで指示するとはどこまでもお気遣いの王子様なリカルドである。グラスに口を付け、コクンと一口飲んでみると、口の中に爽やかな香りと甘さが広がる。シュワシュワとした喉越しがアクセントになっていて、とても美味しい。そして華子は、自身が思っているよりも喉が渇いていたことに気がついた。残りの発泡水も一気に飲み干す。


「ありがとうございます。すごくいい香りで、とても美味しかったです」

「プリマヴェラの発泡水はここセレソ・デル・ソルの隠れた名産でございます。この花を使ったお菓子もございますので、お持ちいたしましょうか? 」


 フリーデは空になったグラスにもう半分ほど発泡水を注ぎ足してくれた。華子も今度はゆっくり味わう。


「ありがとうございます。今は大丈夫です」


 機会があれば食べてみたいが、何をするにも侍女に言わなければならないため、自分で行動できないという図式に遠慮してしまう華子であった。


 華子がのんびりとグラスに口を付けていると、フリーデが部屋の隅に待機していた三人の侍女を引き連れてやってきた。見た目は全員華子よりも年下だ。


「私の他にハナコ様に仕えさせていただきます侍女たちです。ハナコ様にご挨拶を」


 フリーデを含む四人の中で、一番背の高い侍女がお仕着せの侍女服のスカートの裾を両手で軽く摘み膝を折る。


「ドロテアと申します」


 背の高いドロテアは明るい赤みががった髪に緑の瞳が特徴的な、出来るOLのような印象だ。


「イネスです。よろしくお願いします」


 イネスと名乗った侍女は、ふんわりとカールした淡い金髪に青色の瞳でまるでジュモーの人形のようである。


「ラウラです。お会いできて光栄です」


 ラウラは、よく日焼けした肌に黒い髪、黒い瞳のメリハリボディが羨ましい侍女だ。フリーデを除く侍女たちは、皆華子よりも若そうで、イネスなどはまだ少女のような出で立ちだ。


「私は華子田中と言います。どうか華子と呼んでください」

「はい、ハナコ様」

「ハナコ様、何か不自由はありませんか?」

「私たちに何でも聞いてくださいませ、ハナコ様」


 しかし、ここでも呼び捨ての申し出はスルーされてしまった。三人は何か期待の籠った目で華子の返事を待っている。


「あの、それじゃ、お手洗いどこですか? 」



 喉の渇きも治まり、案内してもらったお手洗いで、もよおしてしまった尿意もスッキリした。お手洗いという言葉で通じたことも驚きだが、華子の予想通り上下水道が完備されていることは間違いなかったようで、水洗式のトイレを見た華子はひとりガッツポーズをした。用を足した後は、籠に盛り付けられた青いビー玉のような物をトイレにひとつ落とすとあっという間に水が流れる仕組みになっており、ここでも魔法が使われている。なるほど、魔法は生活に密着しているようだ。

 華子の魔法に対する認識は、漫画やアニメで見た、派手に雷が落ちるものや、空中に魔法陣が広がって、そこから巨大なレーザービームが出るようなものだったので、生活魔法というものがとても新鮮に映った。例えば、街灯やこの部屋の灯りもそうであるらしく、この国では魔法がライフラインを担っているようだ。


 特にすることもないので猫脚のソファに沈み込みながらぼんやりとする。大きめの窓からは太陽(と思われるがもしかしたら違うかもしれない)の光がさんさんと差し込み、部屋はポカポカと暖かい。心地よい静寂についウトウトとしてしまい、船を漕ぎそうになった華子は慌てて姿勢を正した。


「お疲れでございますか? 」


 側に控えていたフリーデが華子の様子に心配そうに聴いてくる。


「実は私、就寝中に突然この世界に来てしまったのです。だから、その、少し眠たくて……」


 華子は後から後からわいてくる欠伸をかみ殺した。見るともなしにテレビをつけていたような、隣の部屋のイチャイチャする声に邪魔をされて寝付けなかったような。イライラが募って壁ドンならぬ、壁キックをしたかもしれない。

 そこら辺の記憶が曖昧で、詳しいことは全く覚えていない。そういえば、愛用の寝袋はどこに行ってしまったのだろうか。


「まあまあ、そうだったのですね。気が付かず申し訳ございません。すぐに寝所をご用意いたしますので、まずはお召し替えを」


 フリーデは扉付近に控えていた侍女に寝所の準備を指示する。そういえばこの無駄に広い部屋にはベッドがない。指示を受けたラウラが出入口とは別の扉から消えていったので、あの扉の先が寝所かもしれない。この部屋に入る前にも部屋があったが、一人で滞在するには豪華過ぎる、と華子は思った。


「あ、大丈夫です。この服……あの、寝間着ですから」


 華子はボソボソと呟いた。すっかり忘れていたが、ネグリジェ一枚。寝る時はブラジャーを着けない主義なので下着はショーツのみ。胸の膨らみはささやかなのであまり目立たないのが救いであるが、人前でネグリジェ姿は恥ずかしい。


「なんですって?! 申し訳ありません。ああ、何ということでしょう。お辛かったでしょう、ハナコ様。私が後ほどリカルド殿下を締めておきますからね」


 フリーデがすごい剣幕で拳を握ったので華子は慌てて訂正する。


「リカルド様はご存知なかったのです! 幸い、この服はこちらの世界では寝間着に見えなかったようですから、あの、リカルド様を責めないでください」


 リカルドは華子に自分のマントを羽織らせてくれたのだ。十分紳士ではないか。それにしても、この国の王子殿下であるリカルドを締める、などという発言ができるフリーデは何者なのだろうか。会社の大お局のような、影の支配者なのかもしれない。


「わかりました。ハナコ様に免じて殿下を締めるのはこの次にいたしましょう。さぁ、ハナコ様。寝所の準備が整ったようです、参りましょう」


 いつの間にかラウラが部屋に戻ってきている。華子はフリーデの後ろについて行きながら、フリーデは怒らせないように気をつけようと心に誓ったのだった。



 やはりというか、寝所も広かった。キングサイズよりも大きな天蓋付のベッドが中央に置かれている。子供の頃に密かに憧れていたいわゆるお姫様ベッドではあるが、アラサー女が寝るにはかなり痛々しい。しかしベッドはこれしかないし、ベッドの横にあるソファで寝ていようものならフリーデに怒られそうで怖い。

 華子は仕方なくベッドに腰をかけた。ふわっと弾む羽布団がとても気持ちがいい。


「それでは、おやすみなさいませ。殿下には少しお休みされるとお伝えしておきます」

「至れり尽くせりで申し訳ありません」


 フリーデは華子に一礼すると、静かに退出した。


 広い部屋に天蓋付きの広いベッド。

 テレビで見たことがある高級ホテルのロイヤルスイートのような部屋に華子一人だけとは、どれだけ贅沢なおもてなしだろうか。ふかふかの羽布団に埋もれながら、華子はホッと息を吐く。


 とても疲れた。


 突然の異世界ダイブから始まり、成り行きで宮殿まで来てしまったが、華子の頭の中はこれまでに得たこの世界の情報でいっぱいいっぱいだ。考えることはたくさんあり過ぎるのだが、急に襲ってきた睡魔に抗うことはできそうにない。


「漸く、戻ったか」


 ふと、そんな声が聞こえた気がして、閉じられそうになっていた瞼を無理矢理こじ開ける。男の人の声だったので、もしかしたらリカルドが様子を見に来たのかもしれない。しかし、ぼんやりとした華子の視界の中にリカルドの姿はなかった。それよりも、部屋の中には人の気配はなさそうだ。


 気のせいかな。


 気が抜けた華子はそのまま目を閉じた。プリマヴェラの発泡水に似た香りのする枕に顔をうずめながら、華子はあっけなく深い眠りへと誘われていく。


「華子、今度こそ幸せになるのだ……遠い場所から、お前と、あの子の幸せを願っている」


 うん、私は大丈夫だから、あなたも……。


 何故か聞き覚えがある声に、華子は声に出さずに返事をする。そして少しだけ、その声の主のことを思い出した華子は、孤独な彼も幸せになって欲しいと願う。


「優しい子だ……さあ、もう忘れなさい」


 不思議な声はそれだけを告げて、もう二度と聞こえてこなかった。

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