40 重い咎、甘い蜜 その2


「明珠。守り袋を握ってみろ」


「え……?」

 静かに命じられて戸惑う。


 くちづけしても戻らないのは、夕べすでに確かめたはずだ。


「いいから」

「は、はい……」


 強い声に急かされ、胸元に下げたままの守り袋を握る。

 母の形見の着物の端切れで作った守り袋が、血で汚れていないことに、少しだけほっとする。


 と、英翔がずいと距離を詰めてきた。


 昨日の激しいくちづけを思い出し、反射的に目を閉じ、身を固くする。が。


 愛おしむように優しいくちづけが、唇を奪う。

 次いで、あたたかな唇がまなじりにあふれた涙を吸い取り。


「ほら。禁呪は強まってなどおらん。解呪の条件は、そのままだ」


 深く耳に響く、心地よい声。

 驚きに目を見張った明珠の視界に飛び込んだのは、青年の秀麗な面輪。


「英翔様!」


 安堵のあまり、思わず英翔に抱きつくと、英翔が驚いた声を上げた。


「明珠っ!? 寝台から落ちてしまうぞ」


 苦笑しつつも、どこか嬉しげに弾んだ声で、椅子に座ったままの英翔が、しっかりと明珠の身体を受け止めてくれる。


 一方、明珠は飛びついた瞬間に、我に返っていた。


 英翔の広い胸がはだけている。少年の身丈に合った夜着を着ていたのだから、当然だ。

 すべらかな素肌の感触にうろたえ、あわてて離れようとする。


「す、すみませんっ」

「暴れるな。本当に落ちるぞ」


 苦笑交じりの英翔の声が、息が耳にかかるほど近くで聞こえ、いっそう焦る。

 身を離そうと左手をついた掛布が、ずるりとずれ落ち。


「きゃっ」

「明珠!」


 受け止めようとした英翔もろとも、床へ倒れる。


 がたんっ、と英翔が座っていた椅子が、倒れて大きな音を立てた。同時に。


「英翔様!? 何が――」

 返事も待たずに張宇が扉を開ける。


 床に仰向けに倒れた英翔と、その上に抱き締められて突っ伏す明珠を見た張宇の顔が凍りつき。


 この上もなく気まずそうな顔で、視線を逸らされた。


「す、すみません! えーと、その……。い、一応、季白や遼淵殿にも、明珠が目覚めたと伝えてきます……」


 うっすらと赤い顔で一歩後ろに下がった張宇が、ぱたんと扉を閉める。


「ちょっ!? 張宇さーんっ!」

 引きとめようとした明珠の声が、むなしく扉に跳ね返る。


「大人しく引き下がったのは、的確な判断だな」

 妙に真面目な顔で張宇の行動を褒めた英翔が、


「ひゃんっ!?」

 おもむろに、右手を動かす。

 明珠を抱きとめた際に、裂けた後ろ身頃の中に入ってしまった右手を。


「ひゃあああぁっ!」


 優しく――この上もなく優しく肩から背中をすべる手のひらに、あられもない声が出る。


「なっ、何なさるんですか――っ!?」


 一瞬で体温が上がり、頭が爆発しそうになる。


 素肌を異性にふれられるなんて、そんな恥ずかしい経験、一度もない。

 思い切り英翔を突き飛ばして跳ね起きようとすると、逆に強い力で抱きしめられた。


 英翔の胸に頬が密着し、羞恥と恐慌のあまり、意識が飛びそうになる。

 そんな明珠にかまわず、


「よかっ、た……」


 英翔が心の底から絞り出すように安堵の声を洩らす。少し湿り気を帯びた、泣き出しそうな声。


「英翔様?」

 初めて聞く声に暴れるのも忘れ、問いかける。


「お前の背に、万が一、傷跡が残っていたら、なんと詫びようかと思っていた……」


 英翔の言葉に、先ほどの行動は背中に傷が残っていないかの確認だったのだと理解する。が、理解と納得は別物だ。


「あのっ、ご心配はありがたいですけど、言っていただけたら自分で確かめますから! こ、こんな……っ」


 顔だけではない。全身が燃えるように熱い。

 一刻も早く離れたくて身じろぎすると、英翔があわてて両腕を解いた。


「す、すまん。一言くらい断ってしかるべきだったな。その……ちゃんと治せているか心配で……」


 明珠が身を起こすのを助けてくれながら、英翔が珍しく自信のない様子で呟く。


「え? 治してくださったのはご当主様じゃないんですか?」


 ついさっきまで英翔は少年姿だった。なのでてっきり、遼淵が治してくれたものだと思っていたのだが。


「そうか、何も覚えていないのか……」

「?」


 小首を傾げると、自分も身を起こした英翔が、「気にするな」とかぶりを振る。


「恐ろしい記憶を、わざわざ思い出すことはない」


 「それより……」と英翔が言を継ごうとしたところで、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。


「遼淵殿! 落ち着いてください! もう少し待って、完全に事が済んでから――」


「えーっ、待てないよ! 見たいに決まってるだろう!?」


「お二人とも、人として、それはちょっとどうかと……。万が一の事が起こっていたら、逆鱗を逆撫でするどころじゃありません。俺達三人、問答無用で消されますよ?」


「それでもいいよ! ワタシの好奇心を満たすためなら、本望さ!」


「何を扉の前で騒いでいる?」


 振り返った英翔が問うと、扉の向こうがしん、と静かになった。ややあって。


「遼淵殿が騒ぎ立てるから……っ。未遂だったら、どう責任を取ってくださるんです!?」

「えーっ! ワタシを除け者にしようとしたのが悪いんだよ~!」


 季白の苛立たしげな声と、遼淵の不満そうな声がし、


「えーっとあの……。扉を開けてもその、大丈夫、ですかね?」

 ものすごく遠慮がちな張宇の声が返ってくる。


「かまわ――あ、いや待て。わたしが出る」


 許可を出しかけ、あわてて撤回した英翔が立ち上がる。

 英翔に差し出された手に掴まって、明珠も立ち上がった。


「まずは、着替えるといい。わたしは季白達の報告を聞いてくる。昨夜はろくに寝ていないだろう? 身体がつらければ、着替えた後、もう少し休め」


「で、でも、それを言うなら、英翔様達こそ、ほとんど寝てらっしゃらないんじゃ……?」


「心配せずとも、わたしも季白達も、これくらいで倒れるほどやわではない」


 英翔は笑うが、素直に頷けない。顔をしかめて見上げると、優しく頭を撫でられた。


「何も不安に思うことはない。すぐそばの部屋にいる。今さら、襲ってくる間抜けな賊などおらん」


 明珠が心配しているのは、英翔達の身なのだが、明珠を気遣ってくれる英翔の優しさに、素直に感謝の気持ちが湧く。英翔達がすぐ近くにいるのなら、一人になることに不安はない。


「では、ゆっくり休むんだぞ」

 最後にくしゃりと一撫でし、英翔が背を向ける。


 英翔が細く扉を開け、


「どうした?」

 扉に張りついていた季白と遼淵を見て、いぶかしげな声を上げる。


「いや~、ちょっと確認を……」


 にへら、と口元を緩めながらも、遼淵の目は笑っていない。


 確認と言うより観察という感じの遼淵の視線と、季白の冷徹な眼差しに、本能的に寒気を感じ、守り袋を両手で握って身構える。


「遼淵。明珠が心配なのはわかるが、そう不躾ぶしつけに若い娘の部屋を覗くな。季白、お前もどうした?」


「いえ……。張宇の早とちりのようですね」

「季白!? 俺は別に……」


「何だ?」

「何でもありません、英翔様。さ、ご報告を致しますので、どうぞこちらに」


 扉がぱたんと閉まり、四人が移動していく気配がする。


 さっきの季白と遼淵はなんだったのだろう? あの、期待半分、不安半分、そして明珠を見た途端、失望したような複雑な表情は。


「まあ、私がまだ何かしでかしてたのなら、後で季白さんに叱られるだけよね……?」


 気にはなったが、今はそれどころではない。

 呟いて自分を納得させ、明珠は急いで着替え始めた。

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