40 重い咎、甘い蜜 その1


 ゆっくりと、意識が浮上していく。


 温かく柔らかな布団の中で身じろぎすると、鋭く息を飲む音が聞こえた。同時に、急速に意識が覚醒する。


「英翔様!?」


 意識を失う寸前の光景――泣きそうに歪み、明珠の血に汚れた少年英翔の顔を思い出し、飛び起きる。


 と、明珠の上に身を乗りだそうとしていた少年の英翔とぶつかりそうになり、明珠は大いに慌てた。


「す、すみません!」


 謝り、周囲に視線を向けて、離邸の明珠に割り当てられた部屋の寝台に寝かされていたのだと気づく。

 窓の外はうっすらと白んでおり、夜明けが近いのだとわかる。


「いや、いい。それより、急に起きて大丈夫か? 気分は? どこか痛みの残っているところはないか?」


 寝台の隣に置いてあった椅子に座り直した少年姿の英翔が、愛らしい顔を心配そうにしかめて、矢継ぎ早に問う。


「え、あ……」


 問われて、意識を失う直前、清陣に妖剣で斬られたことを思い出す。よみがえった恐怖に、反射的に身体がぶるりと震えた。


「痛みが残っているのか!?」


 英翔が両手で明珠の右手を取る。不安のためか、英翔の手は氷のように冷たい。

 自分より小さな手を優しく握り返し、明珠はあわててかぶりを振った。


「大丈夫です! どこも痛くは……あれ?」


 痛くはないが、妙に背中がすーすーする。

 空いている左手を背中に回した明珠は、着物の後ろ身頃みごろがばっくりと裂けているのに気がついた。清陣に斬られたあとだ。

 血が乾いたからだろう、裂けている周りは布がごわごわしている。


 英翔が申し訳なさそうに頭を下げた。


「すまん。その、さすがに男手で着替えさせるわけにはいかなくてな……。傷は治したんだが……」


「着替えなんてどうでもいいです! それより、英翔様にお怪我はありませんでしたか!? 清陣様は!?」


 かみつくように問う。よく見れば、顔の血飛沫だけは拭き取られているものの、英翔が着ている夜着は、あちこちが血で汚れたままだ。


 赤黒くまだらに染まった着物に、絹の着物を汚してしまったという恐怖と、それ以上に、自分がこれほど大量に出血したのだと客観的に突きつけられて、ぞっとする。


「清陣など、お前が気にする必要はない。あいつなら、遼淵に引き渡して牢にぶち込ませておいた」


 英翔が秀麗な面輪を怒りに染めて吐き捨てる。


「清陣様も無事でいらっしゃるんですね。よかったあ……」


 牢という不穏な言葉は気になるが、ひとまずおいておく。


「ご当主様も駆けつけてくださったんですね。張宇さんや季白さんは無事ですか!? 敵の術師は!?」


 意識がはっきりしてくるにつれ、いろいろな疑問が湧いてくる。明珠の疑問に、英翔は一つ一つ答えてくれた。


「季白と張宇も無事だ。今は後始末や今後の準備に走り回っている。敵の術師は……残念ながら、今のところ、捕まえられておらん。今、遼淵に指示させて追跡させているが……」


 英翔がまとう空気が凄みを増す。


「ここまでのことをしてくれたんだ。捕まえたら、ただでは済まさん」


 明珠の手を掴む指先に力がこもる。

 冷気を帯びた声音に、室温が下がったようだ。


 「ここまでのこと」と告げた英翔の言葉に、息を飲む。


 そうだ。まるで悪い夢の残滓のように、記憶があやふやだが、夕べ確かに明珠は――。


 己が振るった包丁が英翔の夜着を切り裂いた時の感触を思い出し、身体の震えが止まらなくなる。


 清陣に斬られた時のことを思い出すより、もっとずっと怖い。


 自分の手で、大切な人を殺しかけたなんて。


「明珠!? どうした!?」

 突然、がくがくと震え出した明珠に、英翔が驚いた声を上げる。


「英翔様……っ、私……」


 うまく声が出てこない。凍りついたように強張る喉をなだめすかし、何とか声を絞り出す。


「本当に申し訳ありません……っ。なんとお詫びすれば……っ!」


 詫びて済む問題ではないのは、重々承知している。しかし、何も持たぬこの身では、詫びることくらいしかできない。


「詫び? 何のことを言っている?」

 小首を傾げた英翔に、思わず声が高くなる。


「だって私、英翔様を手にかけようと……っ!」


 口に出すと、自分がしでかした罪の重さが迫ってきて、震えがますますひどくなる。

 身体から血の気が引いて、くらくらしてきた。じわりと涙がにじみ、英翔の姿がぼやける。


「落ち着け。己を責めたりするな。わたしはお前にとがを負わそうなどとは、思っていない。お前に泣かれると、我が身の不甲斐なさを呪いたくなる」


 英翔が手を握る指先に力を込める。


「で、でも……」

「明珠。わたしを見ろ」


 強い声に、弾かれたように顔を上げる。


 涙でにじむ視界の中で、英翔が怖いほど真っ直ぐに明珠を見つめていた。強い光を宿す黒曜石の瞳に、心まで射抜かれる。


「お前の暴挙は傀儡蟲に操られていたゆえだ。お前には何ら咎がないのに、どうして罰を与えることがある?」


 少年らしい高めの声で、英翔が噛んで含めるように言う。

 明珠を見つめて微笑む表情は、このまますがりたくなるほど、優しい。だが。


「英翔様のお優しさには救われます。ですが、操られていたとはいえ、私が英翔様を襲ったのは事実です!」


「なら、お前は清陣にも重い罰を与えたいのか?」


「え?」

 真面目な顔で発された問いに、虚を突かれる。


「わたしは許す気など欠片もないが……。もし清陣が、お前を斬りつけたのは、妖剣によって精神の均衡を失っていたせいだと言い出したら、お前はどうする? それでも斬りつけたのは事実だと、清陣を罰するか?」


「そんな……っ。清陣様は悪くありません! 悪いのは妖剣で……」

「やはり、お前はお人好しすぎる」


 呆れたような、だがどこか優しい声で呟いた英翔が、右手を伸ばし、明珠の頬にふれる。


「その理屈なら、お前だって無罪だ」


「違います!」

 丸め込まれまいと、激しくかぶりを振る。


「斬られましたけど、治していただいて私は無事です! それなら、罪に問う必要はないじゃないですか! でも私は……っ」


 声が湿る。泣きそうになりながら、英翔の手を握り返す。明珠より小さな、絹のようにすべすべした手。


「私は、英翔様にかけられた禁呪を強めてしまいました……。せっかく、解呪の方法がわかりかけていたのに……っ」


 英翔の悲願の達成を、自分のせいで遠のかせたと思うと、自分自身が許せない。申し訳なさで、身を二つに裂きたくなる。


 しかも、英翔は明珠を助けるために身を呈してくれたのだ。この大罪を、どうやってあがなえばいいのだろう。

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