39 薄闇にひそむ蜜 その5
息が切れる、心臓が爆発しそうだ。
吐き出す呼気が、獣のように荒い。
いっそのこと、自分が獣だったら。そうすれば、四本の足でもっと速く走れるのに。
光蟲の灯籠があちこちに吊られているおかげで、全速力で走れる。
明かりもなく曲がりくねった木立の中の小道を走ったら、何度も転んでいただろう。
結界が破れたせいで、空気は不穏に渦巻いている。灯籠の中で光蟲が暴れるたび、光が揺れる。
以前、英翔達と一緒に見た時には、きらめく光にあれほど心が躍ったのに、今は不安しか感じない。
夜明けまで、まだ何刻あるのだろう。まるで、永遠に続く悪夢の中に迷い込んでしまったかのようだ。
恐怖と不安に泣きそうになるのを、ぐっと歯を噛みしめてこらえ、まなじりに浮かんだ涙を、乱暴に手の甲でぬぐう。
お仕着せの裾が足に絡まりそうになり、乱暴にたくし上げる。
必死に足を前へ出す。
木立ちの向こうに揺れる明かりを見たと思った瞬間、明珠は前から歩いてきた人物とぶつかった。
衝撃によろめく。自分より体格のいい相手に跳ね飛ばされ、転びそうになったのを、なんとか
「お前はっ!?」
ぶつかった相手が、明珠を見て目を見開く。
「せ、清陣様……!?」
明珠の目の前にいたのは、清陣だった。
清陣と同じ年頃の、明珠の知らぬ若い男が、脇で灯籠を掲げている。
なぜ、清陣がこんな夜更けに供を一人だけ従えて離邸への道を歩いているのだろう。
問おうとした明珠は、言いしれぬ悪寒を覚えた。
悪寒の源は、清陣が腰に
古めかしい彫刻が施された剣。ふだん、剣など身につけぬのだろう。剣を佩く清陣は、明らかに慣れぬ様だ。
だが、そんなことは気休めにもならなぬほど、清陣の腰の剣からは、身も凍るような嫌な気配があふれ出している。
「清陣様、いったい何を――」
問いを言いきらぬうちに、乱暴に襟首を掴まれた。
ぐいと引き寄せられ、清陣の血走った目と視線が交差する。
「あの男はどこだっ!?」
聞き返さずとも、「あの男」が英翔のことだと察知する。
「隠し立てすると――」
「教えません! あの方に何をする気ですか!?」
清陣の言葉を遮って睨みつける。
身体中に震えが走る。膝が笑ってくずおれそうだ。
だが、ここは決して引けない。
「あの方に手出しはさせません! ご当主様はこのこ――」
「ご当主」という言葉が、清陣の逆鱗を逆撫でしたらしかった。
ぱあんっ! と襟首を掴まれたまま、頬を張られる。口の中に血の味が広がった。
「蚕家の後継ぎは俺だっ! どこの馬の骨ともわからぬ隠し子に、次期当主の座を奪われてなるものか!」
「何をおっしゃって……?」
英翔は、清陣と当主の座を争う仲になど、なりようがないのに。
跡取りのことを持ち出すなら、むしろ相手は明珠だ。むろん、明珠は蚕家を継ぐ気など、芥子粒ほどもない。
清陣の誤解を解けば、
「清陣様。そのような小娘など、お捨て置きなさいませ。大方、若い娘を差し出せば、時間稼ぎになるとでも侮られて、遣わされた娘でしょう」
脇に控えていた若い男が、口を開く。
「あなた様が今なさるべきことは、正嫡にとって代わろうとする不届き者を排し、正統性をお示しになること。清陣様がどれほど優れているかお知りになれば、遼淵様も、どこの腹から生まれたかも知れぬ子に、蚕家の跡を継がそうなどと、愚かな考えは抱かれますまい」
清陣を諭す声は静かなのに――背筋がざわざわと粟立つような昏い感情が見え隠れしている。
「違います! その人が言っているのは嘘です! えい……離邸にいる方は、清陣様と次期当主の座を争うような方ではありません!」
「
両手で明珠の襟首を掴んだ清陣が怒鳴る。
自分より背の高い清陣に締めあげられ、息がつまる。苦しい。
「それ、は……」
英翔の正体は第二皇子だと言えば、清陣は退いてくれるのだろうか。
いや、きっと信じてもらえない。薄揺が清陣を言いくるめるに違いない。
「《ば……板蟲!》」
苦しい息の中で板蟲を喚ぶ。明珠と清陣の間に。
板蟲の固い身体に押しやられた清陣が、たまらず手を緩める。明珠は飛びすさって離れた。
空気が一気に肺に流れ込み、盛大に咳き込む。
涙がにじみ、ぼやけた視界の中で、清陣が憤怒の表情で腰の剣を抜き放つのが見えた。
ぞわり、と全身が総毛立つ。
灯籠の光を反射する、ぬめるような刃。
清陣が忌々しげに板蟲を斬りつける。
明らかに剣に振り回されているのに、刃がたやすく板蟲の身体にめり込み――板蟲が鳴き声も立てずに、消滅する。
「っ!?」
強制的に還されるのではなく、消滅した。
この剣がもしかして遼淵が言っていた『蟲殺しの妖剣』だろうか。
わからない。だが、危険であることだけは、嫌というほどわかる。
もし、この剣で人が斬られたら、いったいどうなるのか――。
駄目だ。何があろうと、清陣を英翔に会わせるわけにはいかない。絶対に。
震える足で地面を踏みしめ、清陣の前に立ちはだかる。
両手を広げて通らせまいとする明珠を、清陣が苛立たしげに睨みつける。
「何の真似だ?」
「ここより先には、行かせません!」
力に酔う清陣の目は、視線が合うだけで、昏い悪寒が心を侵食してくる気がする。
が、明珠は目を逸らさない。真っ直ぐに清陣を睨みつけ、言い放つ。
「清陣様がなさろうとしていることは、間違っています! その剣は清陣様自身をも傷つけるよくないモノです!」
「何をたわけたことを……っ」
清陣の顔が醜悪に歪む。
「ふざけてなんていません! 清陣様は利用されているんです! その剣を捨て――」
「清陣様! とるに足らぬ者の言葉などに惑わされてはなりません!」
薄揺の声が明珠の言葉を遮る。
「あなた様は間もなく蚕家を
薄揺の声に押されたように、清陣が一歩踏み出す。
退きたい気持ちを、ぐっと奥歯を噛んでこらえる。清陣を見据えた視線はそらさない。
「たとえ斬られても、ここは絶対に通しません!」
英翔達は今、どんな状況だろうか。
無事であってほしいと、心から願う。
すでに離邸を脱出しているのなら、ここで明珠が清陣を引きとめているのは、まったくの無駄かもしれない。
それでも、これがわずかなりとも英翔の助けになるのならば。
この身を賭けるのに、何のためらいもない。
「どけっ!」
「嫌です!」
「小娘がっ!」
苛立ちもあらわに清陣が
真っ直ぐ清陣を睨みながら、算段を考える。
下手に蟲を放っても、斬られるだけだ。幸い、清陣は剣の扱いに慣れていない。不意を突いて剣を奪うことができれば――。
「どいつもこいつも! なぜ俺を認めないっ!? ひれ伏せっ!」
清陣が剣を振りかぶる。
「《縛蟲!》」
斬られぬよう、その足元へ縛蟲を放つ。
「お前ごときの力量で片腹痛い!」
ふれたと思った途端、強制的に縛蟲が解除される。
が、一瞬の隙さえあればいい。
身体ごと、清陣の右腕に跳びかかろうとし――、
「明珠!」
降ってきた声に、身体に稲妻が走る。
同時に、明珠と清陣の間に小柄な身体が割り込み――、
ぬめる刃が、英翔に迫る。
無我夢中で、明珠は痩せた身体を抱き寄せた。
無防備な背を凶刃に晒す恐怖を感じる
庇った肩から背に、衝撃が走る――かと思うと、一瞬後には激痛に変わる。
焼き
「あ、ぐぅっ」
痛みだけではない。刃から流れ込んだ濁流が、傷口から身体を蝕んでいく。
墨の池に突っ込まれたようだ。意識が闇に染まる。身体が灰になったような脱力感。
「明珠っ!」
まるで自分が斬られたように、英翔が悲痛に叫ぶ。
血飛沫で汚れた顔は、今にも泣き出しそうだ。
腕の中でもがく身体を抱きしめる。密着した身体の間で、守り袋の中の龍玉の、ごろりとした感触を感じる。
「明珠! 放せっ!」
背中の傷よりも、英翔の悲痛な声の方が痛い。
嫌だ。英翔のこんな声など聞きたくない。
自分の望みは、英翔を助けることなのだから。そのために――。
(お願い、龍玉。力を貸して――っ!)
胸元の龍玉に願った瞬間。
視界が、いや五感すべてが白銀の光に染め上げられた。
◇ ◇ ◇
びちゃっ、と頬に紅の飛沫がかかる。
顔の左半分を染めた血に、刃で貫かれた以上の痛みを感じる。
「あ、ぐぅっ」
悲痛な呻きに、心臓をわしづかみにされる。
「明珠っ!」
痛みにあえぐ苦しげな声。蒼白な顔。
背中に回した手がねばつく液体にふれ、恐慌に陥りかける。
激情が胸を
無力な己を、真っ二つに引き裂いてやりたい。
「明珠! 放せっ!」
今なお庇おうとする明珠を、引きはがそうとする。
一刻も早く遼淵に診せなければ。
なのに、明珠の腕が離れない。
こり、と胸元に当たった固い感触は、守り袋の中の龍玉だ。
狂いそうな焦燥と怒りが英翔を
今。今すぐに力がほしい。明珠を助ける力が。
大切な娘一人守れず、何が《龍》だ、何が皇子だ。
明珠を守るためなら、何だって――っ!
大怪我をしているくせに、まるで英翔の方が傷ついているかのように、明珠が気遣わしげに微笑む。
切ないほどの祈りを宿した瞳と、視線が交差した瞬間。
――英翔の中で、何かが弾けた。
◇ ◇ ◇
白銀の光が、己の中からあふれだす。
解呪の時にいつも感じる、内側から扉を押し開けるような感覚。
甘い蜜の香気が押し寄せ、陶然となる。
もっとと心が囁く渇望のまま、腕の中の明珠を抱き寄せる。
血飛沫の散った蒼白な顔を見た瞬間、心臓を
治れ。髪ひとすじの傷さえも、残ることなど許さない。
青年の姿に戻ると同時に現れていた、大人の背丈の三倍はありそうな白銀の《龍》が、明珠を抱く英翔の周りで身をくねらせる。
蒼白だった顔に血の気が戻り、苦しげな呼気が穏やかなものに変わったのに気づいて、ようやく詰めていた息を吐き出す。
血で汚れた頬を愛おしく一撫でし、明珠から清陣へ視線を移す。
清陣は腰を抜かして無様にへたりこんで、呆然と英翔を見上げていた。
英翔に次いで風乗蟲から飛び降りた季白と張宇が、少しでも清陣が不穏な気配を見せようものなら跳びかかろうとばかりに控えているが、無用な心配だ。
清陣は、可能なら這いずってでも逃げたいが、指一本すら動かすことがかなわない。そんな様子だ。右手に握られていた妖剣は、手から離れて地面に転がっている。
「おま……っ、いえ、あなた様は……っ」
ぜいぜいと喉を鳴らし、清陣がかすれた声を洩らす。蚕家の嫡男である清陣とは、何度か王城で顔を合わせた覚えがある。
「……己が犯した大罪を理解したか?」
一歩踏み出すと、「ひいぃっ」と清陣が憐れな声を上げた。
清陣のそばにうち伏す従者は、平伏したまま、顔を上げすらしない。ただ、丸まった背中が恐怖にびくりと跳ねる。
英翔の心を読んだかのように、《龍》が首を持ち上げ、罪人達をねめつける。
凶暴な気持ちに突き動かされるまま、《龍》を振るおうとして。
「……英翔、さま……?」
腕の中の明珠が、かすかに身じろぎする。
「明珠!」
清陣の存在など、頭の中から遥か彼方へ蹴り飛ばし、明珠の顔をのぞきこむ。
うっすらと目を開けた明珠が、英翔を見上げて、驚くほど邪気のない笑顔を浮かべる。
「御無事だったんですね、よかったぁ……」
とろけるような笑みを浮かべた明珠が、安心しきった顔で再び目を閉じる。
「明珠!? おいっ!?」
再び気を失っただけ――わかっているのに、動転する。
ふと気配を感じて見上げた視線の先にとらえたのは、風乗蟲に乗ってこちらへ飛んでくる遼淵だ。
「遼淵! 妖剣と、どら息子を片づけておけ!」
一方的に言い捨てると、英翔は明珠を横抱きにして身を翻した。
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