39 薄闇にひそむ蜜 その4
肌を突きさす殺意に、自衛の本能で意識を取り戻す。
慣れ親しみたくなどない。だが、長年の生活で身についた習慣だ。
「英翔様!」
間近で聞こえる張宇の声。常に英翔を守る、腹心の声が覚醒をうながし――、
「明珠っ!」
跳ね起きるなり、最後にふれていた少女の名を呼ばう。
明珠の甘やかな気配がどこにも感じられない。
巡らせた視界の端に、求める姿を捉えたと思ったのは一瞬――。
花のような後ろ姿が、闇の中へ
「待てっ!」
張宇の腕から飛び降り、駆け出そうとした身体を、力づくで止められる。
「英翔様! 落ち着いてくださいっ!」
「放せっ!」
「死んでも放しませんっ!」
張宇が英翔を抱える腕に力を込める。
がきっ! と、間近で鋼同士が打ち合うような音が響く。
視線を周囲に走らせた英翔は、即座に状況を理解した。
明かりが一つきりの暗い部屋の中。
うなるような羽音を上げ、しきりに襲いかかってくるのは、十数匹もの刀翅蟲だ。いつの間に結界が解けたのかはわからないが、敵の術師が放ったものに違いない。
だが、術師の姿はいまだ見えない。
術師が倒れれば、召喚している蟲も基本的に還ってしまう。そのため、たいてい術師は手下に身を守らせているか、身を隠しているものだが。
この期に及んでなお、姿を見せようとしない
姿さえ見せれば、必ずや張宇達が捕らえるだろうに。
「お加減はいかがでございますか!?」
新たな巻物をほどきながら、季白が悲愴な顔で問う。
英翔達三人は露台に近い部屋の隅に追い詰められていた。足元には、季白が使い切った何本ものほどかれた巻物が散乱している。
意識のない英翔を抱いて、身を守るもののない屋外に出るのを避けたのか、それとも、荒れ狂う嵐のような刀翅蟲の襲撃の前に、追い詰められたのか。
英翔が誰より信頼する二人のことだ。いつでも露台に出られる距離にいるあたり、脱出の機会をうかがっているに違いない。
季白と張宇の額には、視蟲が止まっている。
襲ってくる蟲の姿が見えなければ、三人とも、とうに殺されていただろう。喚び出したのは明珠に違いない。だが、その明珠自身は?
「明珠はどこだっ!?」
押しのけるように張宇の腕から床へ降り立つ。
身体に力が入らない。だが、ひりつくような焦燥感が英翔を突き動かす。
「明珠は……姿を消しました。俺と季白に視蟲を召喚し、遼淵殿を呼んでくると言いおいて……」
告げる張宇の声は苦い。表情は、明珠の行動をどう判断すればいいか困惑して揺れている。
「正体がばれたので逃げたのですよ」
侮蔑を隠そうともせず吐き捨てたのは季白だ。
「逃がしてしまった罰は、小娘を捕らえ、処断した後で、いかようにもお受けします」
「処断だと!? 明珠は敵の傀儡蟲に操られていただけだ。明珠自身に罪はないっ!」
季白が目を
「英翔様!? まさかこの期に及んで小娘を庇われるのですか!? これほど明確な裏切りを目の当たりにしておきながら!?」
季白の表情は、英翔の言葉が信じられぬと言わんばかりだ。
「あの娘は危険です! いったいどうすれば、わたしの言葉を信じていただけるのですか!?」
「信じる、か」
我知らず洩れた呟きは、驚くほど儚く消える。
無意識に、唇にふれる。蜜の甘さが残る唇。
英翔を窮地に陥れたのは明珠だが、それを救ったのもまた、明珠自身だ。明珠に《気》をもらわなければ、今頃、英翔は禁呪に侵されて死んでいただろう。
英翔の直感は明珠を信じているが、それが正しいかどうかはわからない。
人の心など、風に千切れる雲のように、たやすく形を変えるものだ。
欲望が渦巻く後宮で幼い日々を過ごしてきた英翔は、人の心の変わりやすさを、嫌というほど知っている。
英翔に人の心を見通す力などないし、その気がなくとも、今日のように傀儡蟲で操られないとも限らない。
だが、それでも。
「わたしが信じているのは、お前達二人だ」
英翔の言葉に新たな巻物をほどき、盾蟲を呼び出した季白と、盾蟲の防御陣の中から、一歩踏み出すごと、的確に刀翅蟲を切り伏せていく張宇が、英翔を振り返る。
二人の眼差しに、強い頷きを返し。
「だが、明珠は手放さん」
「っ!?」
季白が息を飲む。張宇は困り果てた顔だ。
間断なく襲いかかってくる刀翅蟲が、沈黙にひたることさえ許してくれない。
がきぃっ! と固い音が鳴り、刀翅蟲に斬られた盾蟲が一匹、致命傷を負って姿を消す。
別の盾蟲へ迫った刀翅蟲を、
蟲封じの力を宿した刃が、豆腐でも切るように、刀翅蟲を真っ二つに両断する。剣の力だけでできることではない。張宇の技量があってはじめてできる技だ。
術も使えぬ童子の身で、この窮地から抜け出せるのか。
だが、できるできないなど、問題ではない。今までずっと、道は自分達の力で切り開いてきたのだから。
「英翔様!」
責めるような季白の声。
明珠をどうしたいのか、どうなりたいのか。
自分自身の望む形もわからぬまま、ただただ、明珠を
「両翼であるお前達が、わたしが信じるものを信じられぬと言うのかっ!?」
英翔の叫びに、季白だけでなく、張宇までもが息を飲む。
「お前達はわたしの大願を叶えるための両翼だろう!? それがわたしの歩みを止めるなど、許さんっ!」
二人への揺るぎない信頼を眼差しに込め、告げる。
たとえ強欲と
「明珠を追う! この期に及んで姿も見せぬ術師など、恐れるものではない! 打ち払うぞっ!」
「「はっ!」」
いつ命を喪うやも知れぬ状況だというのに、季白と張宇が笑顔で応じる。
惑わされていた深い霧が、不意に強い風にうち払われたような、晴れやかな笑顔。
割れた硝子戸の間から、新たな蟲が入り込む。
「《
盾蟲の守りに阻まれ、刀翅蟲では埒が明かないと考えたのだろう。
強い毒の鱗粉をまとった大きな羽が、薄闇の中で妖しくはためく。
「張宇! 風乗蟲を喚びます! 守りは任せましたよ」
叫んだ季白が返事も待たずに、今までとは装飾の異なる巻物をほどく。
解いた途端、暴風とともに、二間(約四メートル)はある風乗蟲の巨体が現れる。
強風に思わずよろめき、なんとか踏みとどまる。
風が毒翅蟲の鱗粉を吹き飛ばし、蟲達が平衡を失ってぶつかり合う。
蟲の統率が崩れたところに、張宇が斬りこむ。
一番近い刀翅蟲を斬り伏せ、返す刀でもう一匹。
横に
「お乗りください!」
英翔に手を伸ばした季白が、少年の身体を抱え込むようにして風乗蟲に乗せる。
風乗蟲の巨体が内側から扉を押し開ける。桟に残っていた硝子が割れ、かすかな光を反射して、星のようにきらめいた。
「……この巨体をよく封じていたな」
「遼淵殿より、いざという時の脱出用に、一本だけ預かりました」
英翔が思わず洩らした呟きに、季白が律儀に答える。
風乗蟲が巨大な羽をはためかせると、室内に暴風雨が荒れ狂う。
家具も何もかもが揺れ、倒れ、
風乗蟲が巨大な羽を力強くはためかせ、飛ぼうとする。
「張宇! 来い!」
未だ室内で蟲を押さえる張宇を振り返り、手を伸ばす。
何十匹もの蟲を相手に、
抜身の剣を手にしたまま、張宇が走る。英翔が思い切り手を伸ばす。
張宇の背に、刀翅蟲が迫り、
「《盾蟲!》」
季白が新たにほどいた巻物から飛び出した盾蟲が、凶刃を阻む。
露台を蹴って跳んだ張宇が、風乗蟲の尾にしがみつく。その袖を掴み、体勢を整えるのを助ける。
またがり直した張宇は、抜身の剣を手に油断なく周囲を警戒するが、並みの蟲では風乗蟲の速さには追いつけない。
「遼淵を呼びに行ったのなら、行き先は本邸だな? 《急げ!》」
風乗蟲に命じ、眼下に目を凝らす。
離邸の周りの木々には、片づけそこなった灯籠が吊られているが、木々が生い茂っているため、見通しは悪い。しかも、異変を察知して灯籠の中で光蟲が暴れているので、明滅する光で見にくいことこの上ない。
(どうか、どうか無事でいてくれ――っ!)
誰に祈っているかもわからぬまま、英翔は求める少女の姿を探した。
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