39 薄闇にひそむ蜜 その3


「すみませんっ! 私……っ」


 なんてことをしてしまったのだろう。

 自分がしでかしたことに身体中から血の気が引く。


 英翔の手をとった明珠は、少年の身体ががくがくと震えているのに気がついた。 まるで氷のように冷え切り、冷や汗が滝のように流れている。


「待っててください! 季白さん達を呼んできますっ!」


 英翔の下から抜け出そうとした瞬間、肩を押された。


「龍玉を握れ」

 切羽詰まった英翔の声に、反射的に着物の上から守り袋を握りしめる。


「あの蟲にどんな禁呪が仕込まれていたのか……。身体が思うように動かん」

 かすれた声で、少年姿の英翔が距離を詰める。


「すまんが、手加減できんぞ」


 声と同時に、唇をふさがれた。


「ん……っ」

 むさぼるような、激しいくちづけ。


 本能的に感じた恐怖に、固く目を閉じ、頭を振って逃げようとしたが、頭の後ろに回された英翔の手が、逃げることを許してくれない。


 薄い胸板を押し返そうとした手を、絡めとられる。


 唇は燃えるように熱いのに、絡んだ指先は氷のように冷たい。

 自分を助けるために英翔に無茶をさせたのだと思うと、抵抗する意思が消えていく。


 鼓動の激しさに、心臓が壊れそうだ。

 こんなに長く激しく、くちづけされた経験なんてない。うまく息ができない。


「んぁ……っ」

 苦しさに空気を求めてあえいだ途端、柔らかなものが口内に侵入してきて、驚愕する。


「や……っ!」


 恐怖に突き動かされ、衝動的に英翔の胸を突き飛ばす。


 英翔の身体が明珠から離れ、そばにあった卓にぶつかる。

 がたんっ、と大きな音が響き、卓の上に置いてあった水差しが落ちて割れた。


「す、すみませんっ!」


 思い切り、突き飛ばしてしまった。


 驚きのあまり、まったく手加減できなかったのもあるが、そもそも、手加減しなかったのは、明珠の力では青年英翔にかなわないと知っていたからだ。

 だが。


 目を開けた明珠は息を飲んで、うめく英翔ににじり寄る。


「どうして元のお姿に戻ってないんですかっ!?」


 英翔は少年姿のままだ。


「だ、だってあんなに……っ」

 唇はまだ、しびれるほどに熱い。


「落ち着け。おそらく、傀儡蟲くぐつちゅうに仕込まれていた禁呪の影響だろう」


 明珠よりよほど冷静な声音で英翔が告げる。

 だが、呼吸は荒く、声は苦しそうだ。


「と、とりあえず寝台に……。私、ご当主様を呼んできます!」


 英翔の身体に手を伸ばして抱き上げようとした瞬間、ぐいと襟首えりくびを掴んで引き寄せられる。


 反射的に守り袋を掴んだ瞬間、再び唇をふさがれた。と。


「英翔様!? 何が――!?」

 季白の声とともに、扉が開け放たれる。


「っ!? これは!?」


 乱れた寝台。床に転がる包丁。落ちて割れた水差し。惨状に季白と張宇が息を飲んだのと、英翔が、


「やはり戻らんか……」


 とかすれた声で呟いたのが、同時だった。


 不意に、英翔の身体が力を失う。

 もたれかかってきた痩せた身体は、冷や汗で夜着が肌に張りついている。


「英翔様!」

 受け止めようとした英翔の身体が、不意に離れる。


 季白が英翔の衣を掴んで引き離したのだと気づいた時には、眼前に、抜き放った剣が突きつけられていた。


 季白に代わって英翔を受け取った張宇の力強い両腕が、英翔を抱き上げたのを見て、そんな場合ではないのに安堵する。


「ついに、正体を現しましたね」


 身体の芯まで凍えるような声で、季白が告げる。

 明珠を見据える眼差しは、刃よりも、なお鋭い。


「英翔様にあだなす小娘め。覚悟なさい」


「ち……」

 「違います」と言いかけて、唇を噛みしめる。口の端の傷から血の味がする。


 床に転がる包丁。斬られて裂けた夜着。

 少年姿から元に戻らず、気を失った英翔。


 傀儡蟲に操られていたといえ、この惨状を引き起こしたのは、明珠自身に他ならない。この状況で抗弁しても、説得力は皆無だ。


 思わず張宇を見上げるが、英翔を横抱きにした張宇は、すぐ動けるように身構えつつ、途方に暮れた顔をしている。

 明珠を庇ってやりたいが、状況的に口出しのしようがない。そんな様子だ。


「英翔様が気を失われたのは、私のせいなんです! 一刻も早くご当主様に……!」


「今さら味方ぶって、我々がだまされると思っているのですか? 言いなさい。英翔様にどんな禁呪をかけたのです?」


 突きつけられた剣の切っ先が、喉元に迫る。


「それ、は……」


 自分がかけたわけではない禁呪の中身など、説明できるわけがない。

 明珠の沈黙をどう受け取ったのか。


「ああ、心配せずとも大丈夫ですよ」

 不意に、季白がにこやかに微笑む。


「話したとしても、すぐに命を取ったりしません」


 いっそ優しささえ感じさせる季白の声音。


「あなたには、聞きたいことが山ほどありますからね。その身が犯した大罪をあがわせるまで、殺したりなど、しませんよ」


 眼差しに、狂気に似た忠誠心をにじませ、季白が凄絶に微笑む。


「――ひと思いに楽になど、させてやるものですか」


「っ!?」

 恐怖にぞくりと背中が粟立つ。


 だが、そんなことより。


 一刻も早く遼淵に英翔を見てもらわなくては。しかし、明珠が忠告したところで、季白は決して聞き入れないだろう。むしろ、何を企んでいるのだと疑われるに違いない。


 どうすればいいのかと悩んだ、その時。


 薄氷はくひょうを砕くような音が、空気を震わせる。


 音であって音でない、破砕音。

 同時に、夜気が明確な殺意に染め上げられてゆく。


 遼淵が離邸に張っていた結界が破られたのだと本能的に察知した瞬間。


 硝子が砕け散るけたたましい音が重なり合う。


「《盾蟲じゅんちゅう!》」


 とっさに季白が、懐から取り出した巻物をほどく。


 現れた数十匹の盾蟲が、露台の硝子戸を突き破って襲いかかってきた刀翅蟲とうしちゅうの凶刃を、すんでのところで防いだ。


 ぎゅりっ、と固いもの同士がぶつかる嫌な音が鳴り、斬られた盾蟲がきいぃっ、と悲鳴を上げる。


「《お願いっ、来て! 視蟲!》」


 季白の剣が喉元を離れた瞬間、飛びすさって視蟲を召喚する。


「《張宇さんと季白さんにとまって!》」


 刀翅蟲が見えねば、英翔を守ることは不可能だ。

 召喚した視蟲が季白達へ飛んでいくのを見もせず駆け出す。


「明珠!」


 張宇が叫ぶ声がしたが、立ち止まってなどいられない。


「ご当主様を呼んできます! それまで英翔様を守ってください!」


 明珠がここにいても、足手まといになるだけだ。

 明珠の疑いが晴れぬ限り、季白も張宇も、行動に迷いが生じるだろう。それは敵がつけ入る隙になる。


 それに、もしまた解呪の力が暴走して、盾蟲まで消してしまったら――。


 頭をよぎった恐ろしい光景に、ぞっ、と血の気が引く。英翔が傷つくくらいなら、ここを離れた方がいい。


 ――たとえもう、このまま二度と戻れなくなっても。


 刀翅蟲がかんぬきごと砕いた扉を押し開け、露台に駆け出る。季白にもらった真新しい靴の下で、割れた硝子の破片がじゃりりと鳴る。


「《縛蟲!》」


 季白の声がしたと思った瞬間、足に縛蟲が絡みつく。つんのめった手が露台の柵を掴んだ。

 捕まるくらいなら、落ちた方がいいと判断し、身を乗り出す。

 ぐるんと視界が反転した。


「《お願い、還って!》」


 右手で縛蟲にふれ、無理矢理、解呪する。


「《板蟲!》」

 地面に激突する寸前で板蟲を喚び出し、勢いを殺す。が、完全には消せなかった。


 衝撃に息がつまる。

 板蟲にぶつかった身体が地面に投げ出され、ごろごろと転がる。髪にも着物にも土がつくが、かまってなどいられない。


 頭の上を英翔の部屋へ向かって第二陣の刀翅蟲が飛んでいく。

 夜の暗さでよく見えないが、他の蟲も混ざっているかもしれない。確かなのは、明珠を狙う蟲など一匹もいないということだ。


 今こそ英翔を葬ろうとする明確な殺意に、全身がぴりぴりと鳥肌立つ。

 英翔を害そうとする者に対し、明珠はあまりに無力だ。


 自分の力のなさに泣きたくなる。

 遼淵のように、もっと力があれば。もし風乗蟲を喚べれば、今すぐ遼淵に知らせに行けるのに。


 明珠にあるのは、低位の蟲を呼べる力と、この身ひとつだけだ。


(英翔様の身は、絶対に季白さんと張宇さんが守ってくれる。なら、私は一刻も早く、ご当主様にお知らせしないと――っ!)


 素早く立ちあがり、明珠は本邸への小道を一目散に駆け出した。

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