39 薄闇にひそむ蜜 その2
りぃん。
澄んだ鈴の音が、
身体が重い。まるで鉛の海に沈んだように、指一本、自由に動かせない。
寒い。震えと吐き気が止まらない。
ひたひたと潮が満ちるように、気づかない内に自分が自分でないモノに侵され、取って代わられた。そんな感覚。
昨日、襲撃の時に味わったのと同じ――いや、それよりももっと悪い。
自分はすでに闇に囚われているのだと、本能的に察知する。
腹の中で、自分ではない何者かの殺意が渦巻いている。
卵はもう、割れてしまった。なら、この悪意の渦の行きつく先は――、
(英翔様っ!)
声にならぬ声で叫び、必死にもがく。
明珠を閉じ込めているのは、一寸先も見えぬ昏い闇。
だが、恐怖を感じている暇などない。もっと怖いものを知っている。
大切な人を喪う恐怖に比べたら、我が身に起こっていることなど、何ほどか。
不穏な鈴の音に急かされるように、夢中でもがく。
心を占めるのは、痩せた少年の姿。守るべき主を明珠自身が傷つけてしまうなんて、そんなのは、絶対嫌だっ!
「明、珠……」
熱に浮かれされたような苦しげな声が、明珠を捕らえる闇に、一条の光を差す。
(嫌だ、嫌っ! 英翔様を傷つけるなんて、絶対嫌っ! これは私の身体なんだから! 敵の好きになんて、絶対させない――っ!)
泥の沼から飛び出したように、一瞬、呼吸が楽になる。
目の前にいるのは、夜着をまとった少年の英翔。
黒曜石の瞳をすがめ、秀麗な面輪を苦しげに歪め――、
「だ、め……っ。えい……さま……っ」
「逃げてください」と告げようとした言葉は、突如、喉をふさいだモノに立ち消える。
反射的に口元を押さえた手のひらにふれたのは、唾液で湿った蟲の節だった脚。
おぞましさに息を飲んだ瞬間、再び体の自由を奪われる。
右手が自分の意思とは無関係に動き、英翔に斬りかかる。
嫌だ! 自分のせいで英翔を傷つけるなんて絶対嫌だ! それならばいっそ――っ!
動け、と心の奥底から己に命じる。
英翔を殺させたりしない。
一瞬でいい、私に還れっ!
指先が、包丁の柄を握り締める。
無我夢中で右手を振り上げ。
「――やめろっ!」
英翔の小さな身体が、明珠の胸元に飛び込んできた。
◇ ◇ ◇
勢いのまま、明珠もろとも、寝台からもんどり落ちる。下敷きになった明珠が呻く。
「許せ!」
明珠の右手を掴んで床に打ちつけ、無理矢理、包丁を手放させる。手加減をする余裕などない。
明珠が英翔を押しのけようと暴れる。その瞳は再び正気を失い、昏い殺意が渦巻いている。
「う……、うあ……っ」
くぐもった呻きを上げる唇から、蟲が覗く。
獲物に跳びかかろうとするかのように、短い脚を振り上げ、振り回し。
こんなおぞましいモノが、明珠に巣くっているなど、許せない。
「お前が殺したいのはわたしだろう!? 明珠から出てこいっ!」
掴もうと伸ばした指先を、蟲の脚がひっかく。
指先に走る鋭い痛み。わずかに傷がついただけで、毒が染み込んだように、そこから身体中の力が抜けそうになる。
視界が揺れる。組み敷いた柔らかな肢体だけが、唯一のよすがに思える。
唯一無二の解呪の手掛かり。
たった一つ確かなことは、決して手放すことはできないということだけ。
彼女を喪うくらいなら――っ!
暴れるおとがいを押さえつけ、口づける。
ぞる、と蟲が口内に押し入ってくる。
気を失いそうになるほどのおぞましさ。
身体の奥へと侵入しようとする蟲を歯で噛んで押し留め、明珠から顔を離して、一気に引き抜く。
指三本分の長さはある蟲の全身が、
飛びそうになる意識を
身をくねらせ、英翔に跳びかかろうとする蟲の頭へ。
帯から引き抜いた小刀の
びくりと跳ねた蟲が絶命し、黒い塵となって闇の中へ消えてゆく。
が、『破蟲の小刀』の威力に感嘆している余裕などなかった。
身体に力が入らない。飛んでゆきそうになる意識を、奥歯を噛みしめてこらえる。
まだ油断はできない。敵が仕掛けた罠がこれだけとは限らない。
張宇達を呼んで、次の襲撃に備えなくては。何より、明珠を遼淵に診せなくては。
気持ちは焦るのに、少年の身体がついてこない。
禁呪をかけられた時と同じだ。毒を流し込まれたように身体が重い。凍えるような悪寒に震える。
くずおれそうになった身体を、かろうじて支える。
凍え、震える手で何とか小刀を鞘に戻したところで、限界がきた。
ぐるん、と視界が回る。倒れかけた身体が、柔らかなものに受け止められた。
「英翔様っ!」
上半身を起こした明珠の悲痛な声が、遠のきかけた意識を呼び戻す。
本当の名ではないのに、明珠に呼ばれたという事実に、泣きたくなるほど安堵する。
蟲の鋭い脚に傷つけられたのだろう。口の端が切れて、血がにじんでいる。
手を伸ばし、指先で血をぬぐおうとした途端、明珠に強い力で手をとられた。
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