39 薄闇にひそむ蜜 その1

 

 夢を、見ていた。五歳まで過ごした後宮での、とりとめのない夢。

 記憶の中にある母の顔は、ほとんどが憂い顔だ。


 皇帝たったひとりのためだけに集められた女達の園、後宮。


 皇帝の御子を――しかも、第二皇子の生母となれば、世の女性達の羨望の的であるはずなのに、龍翔りゅうしょうの記憶にある母は、いつも憂いていた。


 長じて後、政治というものを知ってからは、母の憂い顔の原因が、何の後ろ盾もない没落貴族の娘でありながら、身に余る栄誉を得てしまったがゆえのものだとわかったが、幼い頃の自分は、幼心おさなごころに心奪われるほど美しい母が、なぜいつも、辛く、哀しそうな目で自分を見るのかが、まったく理解できなかった。


 まだ四つほどの頃、母に尋ねてみた記憶がある。


「お母様にいつも哀しい顔をさせてしまうわたしは悪い子なのですか? どうしたらいい子になれるのでしょうか?」と。


 尋ねた瞬間、強く抱きしめられた。


 花よりも繊細な美貌をはらはらと涙で濡らしながら、母は何と答えてくれたのか――記憶の彼方に消え去っていて、どうしても思い出せない。


 ただ、母が確かに自分を愛していてくれていたのだという感覚だけは、確かに残っている。


 五歳で母を亡くすまで、後宮で暮らした頃の記憶は、どうも曖昧あいまいだ。むしろ、断片的にしか覚えていないといっていい。


 単に物心つくのが遅かったのか、母が急死した衝撃で記憶にふたをしてしまったのか――。


 まるで、夢の中の出来事のように、おぼろげな記憶ばかりだ。


 幼い頃の自分は、すぐ熱を出して寝込んでばかりだったせいも、あるかもしれない。


 母の死後、後宮を出され、乳母を務めていた張宇の母の家に身を寄せるようになっても、十二歳頃までは、よく熱を出して、張宇や季白など周りの人々を心配させたものだ。


 少年の時の痩せた身体を、明珠が心配する気持ちも、理解できる。


 明珠。

 その名を意識した途端、夢の光景ががらりと変わる。


 まるで緞帳どんちょうが上がり、薄暗かった舞台に光があふれるように、薄灰色だった夢が、あざやかな色を持つ。


 ふわり、と甘い蜜の香気が漂った気がした。


 夢と知りつつ、明るく笑う少女に手を伸ばす。

 宝物のように、口の中で愛しい名前を転がした瞬間。



 りぃん――。



 澄んだ鈴の音に、一瞬で意識が覚醒する。同時に、己以外の重みで、寝台がぎしりときしんだ。


 弾かれたように上半身を起こした英翔が見たのは。


「明、珠……?」


 まだ夢の続きを見ているのだろうかと、とっさに疑う。

 扉には内側からかんぬきをかけていたはずだ。


 何より、なぜ明珠がこんな夜更けに英翔の寝台へ来ているのか。


 寝台に膝立ちで英翔の足にまたがる明珠は、まだお仕着せのままだった。


 英翔と視線が合った明珠が、にこりと笑う。太陽の下で咲く花のようないつもの笑顔ではない。初めて見る蠱惑こわく的な笑み。


 寝台に近い卓の上に一つだけつけっぱなしで置いてある燭台しょくだいの炎が、可憐な面輪に幻妙な影を落とす。

 一つに結った髪からほつれ落ちた毛が細い首にかかり、やけに艶めかしい。


 不意に、悪い酒に酔ったように、視界が揺れる。


 おぼえのある感覚。媚薬びやくの働きをする鱗粉を撒き散らす《媚蟲びちゅう》の極彩色の羽を薄明りの中に見たと思った時には、術中に囚われていた。


 くらりと視界が揺れる。

 火をつけられたように、身体に熱がこもってゆく。唾液を飲みこんだ喉がぐびりと鳴った。


 術を使えぬ少年の身であることを、心から呪う。


 媚蟲を仕掛けられた経験は、幾度かある。だが、今までは即座に《龍》で無効化してきた。

 何より、欲得ずくで近づいてくる女に魅力を感じたことなどない。


 だが、今は。


 ぎ、と片手をついて、明珠が英翔に身を乗り出す。


 薄闇の中でまろやかな曲線を描く肢体。華奢きゃしゃな身体を思い切り抱きしめて味わったら、どれほど甘いだろう。


 考えるだけで喉が渇く。思考が、熱に浮かされてゆく。

 罠だとわかっている。明珠は敵の傀儡蟲くぐつちゅうに操られているのだろうと。


 だが、罠だとわかっていてなお、蜜の甘さに溺れてしまいたい。


「龍翔、さま……」


 甘い囁きが、毒のように心を侵す。


 これは英翔を殺すための罠だ。明珠は決して龍翔と呼んだりしない。


 押しのけなければ、季白と張宇を呼ばねばとわかっているのに、魅入られたように明珠から視線を外せない。


 伸ばされた細い指先が、英翔の薄い胸板にふれる。

 夜着の上からなのに、思わず、熱をはらんだ呻き声が洩れる。頭の中がしびれて何も考えられない。


「明、珠……」

 熱に浮かされたように名を呼ばう。


 ゆっくりと、明珠が半身を起こした英翔の上に屈んでくる。


 欲望を誘う蜜の唇。

 くらい光をたたえた明珠の瞳と視線が交差した、その時。


「だ、め……っ。えい……さま……っ」


 不意に、明珠がかすれた叫びを上げる。


 とっさに左手で押さえた可憐な唇からのぞいたのは、枯れ枝のように細く節くれだったおぞましい蟲の脚。


 瞳に正気が宿ったと思ったのは、ほんの一瞬――。


「あ、ああ……っ!」


 奇声を上げた明珠が、帯の背中側に隠していた包丁を振り上げる。


 振り下ろされた凶刃を身をひねってよける。避けそこねた布地が刃をかすめ、びっと裂ける。


 今や、明珠に宿る蟲は身を隠そうともしていなかった。


 ぞる、と唇の間から、栗の実ほどの大きさの、闇より黒い蟲の頭と、短い脚が覗く。

 愛らしい顔から覗く禍々まがまがしい蟲は、目を背けたくなるほどの醜悪さだ。


 明珠に蟲を仕込んだ術師への怒りが胸をく。


 いつ仕込まれたかなど、わからない。だが、楚林のように行きあたりばったりではない。

 解呪の特性を持つ明珠を、ここまで自由に操っているのだ。蜘蛛の巣のように、周到に張り巡らされた企てに違いない。


 敵の狙いは英翔だ。殺すのが目的か、それとも明珠に仕込んだ蟲で、新たな呪をかけるのか。


 明珠の手が、空振りした包丁の柄を強く握り締める。


 なぜ今、自分は無力な少年のままなのか。


 己に対する怒りで、思考がき切れそうになる。


 どうすれば明珠を助けられる?

 さっき、一瞬だけ見た正気の瞳。あれが幻だなどと、思いたくない。


 まだ、明珠を助ける手段はあるはずだ。だが、術を使えぬ身で、いったいどうすれば――!?


「い、や……、え……しょう、さま……っ」

 明珠がくぐもった声を洩らす。


 今にも泣きだしそうな顔で、再び包丁を振り上げ。


「――やめろっ!」


 己の胸へと包丁を突き立てようとする明珠に、英翔は無我夢中で跳びかかった。

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