37(幕間)自由への誘い
本邸の裏の井戸は、利用する者が少ないので、都合がいい。
ましてや、夕暮れが迫り、夕食の支度や風呂の準備など、屋敷の規模の割には少ない使用人達があわただしく立ち働く時間なら、なおさらだ。
朝から離邸に行ったきり、姿を見せなかった遼淵が、夕方には本邸に戻ってきたこともあり、当主のいる本邸は活気づいている。
清陣付きの従者、
傷ならば、癒蟲で治せる。だが、血で汚れた顔や着物はどうしようもない。
「くそ……っ」
額に布を押し当て、人前では決して口に出せぬ、だが、どうにも心の中におさめておけぬ
先日、離邸の滞在人物を調べるよう言いつけられた日以来、清陣は機嫌の悪い日が続いている。
が、昨日、王城から遼淵が帰ってからはもう、手がつけられなくなっていた。
少しでも
額を切って怪我を負ったのも、清陣に酒が入ったままの盃を投げつけられたからだ。
着物に染み込んだ酒の臭いが立ち昇り、悪酔いしそうだ。
いっそのこと、清陣のように、酒の力でいっときでも嫌なことから目を背けられればいいが……。
使用人に過ぎない薄揺が酒を飲めるのは、祭りか何かの催しの時だけだ。清陣に酒をぶっかけられる機会の方が、ずっと多い。
清陣が不機嫌な理由はわかっている。
昨日、帰ってきた遼淵が、息子の清陣にはちらりとも顔を見せず、今朝はなんと朝一番から離邸に行ったきり、戻ってこないからだ。
まるで、菓子をもらえずに駄々をこねる子どもだ。
父である遼淵に認められ、愛されたいと願いながら、それを素直に口に出すにはひねくれすぎ、かといって遼淵を感心させるほどの才はない清陣。
とはいえ、清陣の実力は、並みの術師より抜きん出ている。ただ、天才・遼淵にとっては、並みより抜きん出ただけの術師など、興味の対象になりえないだけだ。
さほど遼淵と接触したことのない薄揺ですら、あの遼淵に父親の情愛を求めることなど、愚かの極みだとわかるのに――。
手に入らぬものを欲してやまない清陣は、なんと愚かで
指摘すれば、清陣の逆鱗にふれるとわかっているので、決して本人に教えてやる気などないが。
誰も聞いていないのをいいことに、人前では決して口に出せぬ侮蔑の言葉を吐き捨てる。
万が一、清陣の耳にはいったら、その場で
尊敬どころか、軽蔑しか感じぬ主に、あとどれほど仕えねばならぬのだろう。
蚕家を離れられぬかと考えたことは、くさるほどある。だが、特に術師として優れているわけでもない薄揺が、蚕家の庇護を離れて、生きていけるのか。
五歳で蚕家に引き取られて以来、世間をろくに知らぬという点では、薄揺も清陣を
だが……。
このまま、薄揺の人生は、清陣の八つ当たりの相手として消費されていくのだろうか。
そう考えた途端、ぞっと体中から血の気が引く。
きっと、あと何年もしない内に、薄揺の忍耐も限界を迎えるだろう。その時――薄揺が清陣を殺して死刑になるのか、それとも返り討ちにされて、殺されるのか。
どちらにしても、ろくでもない最期に違いない。
嫌だ。
恵まれた人生でないことは、重々、承知している。でも、そんな最期は嫌だ。
気がつくと、身体ががくがくと震えていた。酒の臭いが気持ち悪い。吐きそうだ。
と。
「《自由に、なりたいか……?》」
まるで、薄揺の心を読んだような声がした。
弾かれるように顔を上げる。
「誰だっ!?」
先ほどの清陣への暴言を聞かれたのだろうか?
体中から音を立てて血の気が引く。万が一、告げ口でもされようものなら……っ!
声がした方を向いた薄揺の目に入ったのは、鈴虫に似た丸い羽を持つ、栗の実ほどの大きさの蟲、
互伝蟲は変わった蟲で、二匹一対で召喚され、二匹が離れていても、数里の距離なら、言葉のやり取りができる。情報伝達の手段として、非常に優れた蟲なのだが、残念ながら、伝えられる言語は『蟲語』に限られており、扱いが難しいため、実際に使われる事態はまれだ。
暮れなずむ夕日の最後の斜光が、小さな互伝蟲を妖しく照らす。息を飲んで見つめる薄揺の視線の先で、互伝蟲が丸い羽を震わせる。
「《どら息子にこき使われている日々に、嫌気がさしているのだろう? 清陣のくびきから自由になりたくはないか……?》」
「《誰だ、お前は!? いったい何を根拠にそんなことを言う!?》」
本来なら、返事などせず、蚕家に仇なそうとする
だが、薄揺の心を読んだかのような問いかけを無視することは、どうしてもできなかった。
自由。己の命を犠牲にすることなく清陣から解放されるすべがあるのなら、知りたいに決まっている!
「《わたしが何者か、か……。わたしはお前に自由を与えてやれる者だ》」
互伝蟲が低く不気味な音を洩らす。それが笑い声だと気づいた時には、新たな言葉が紡がれていた。
「《別に、お前を助けてやろうなどと、人助けを考えているわけではない。わたしは、清陣を追い落としたいのだ。清陣が
「《な……っ!? そんなことができるわけ……っ》」
言い返しつつも、突然、降ってわいた甘美な誘惑に、心はどうしようもなく揺れてしまう。
もし、清陣が廃嫡されたら。
そうすれば、薄揺は従者から解放されるに違いない。
「《清陣様は、遼淵様のたった一人の嫡男……。廃嫡などと言う事態が起こるとは……。何の罠だ?》」
理性は、これ以上、話を聞いてはならないと、警鐘を鳴らし続けている。
だが、もしかしたら清陣から離れられるかもしれないという
かすれた声が
「《罠などではない。愚かな道化に教えてやろうというだけだ。離邸に
凍てつく吹雪よりなお冷ややかな声。
清陣を道具としてしかとらえていないその声に、理性が「関わるな。今すぐこの不埒者を蚕家へ突き出せ」と叫ぶ。だが。
「《……本当に、自由になれるのか……?》」
唇はあっさり主を裏切って、問いを紡ぐ。
「《無論だ。ほんの少し、あの愚か者を
「明日……」
呆然と、呟く。
薄揺にとって、日々はただ、清陣に浪費され、すり潰されていくもので、それ以外の明日など、想像したことすらなかった。
だが今、突然、想像もしていなかったものを目の前に突き出され。
生まれて初めて味わう昂揚感に、理性やためらいが溶けてゆく。
手に入れたことのない「自由な明日」が
気がつくと、薄揺は姿すら見せぬ術師に、問い返していた。
「《わたしは一体、何をすればいい……?》」
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