35 娘と言って信じてくれます? その3


 たたらを踏んでよろめいた身体の目の前を、楚林が懐から出した包丁がぐ。


「楚林!? いったい――」


 叫んだ時には、明珠より小さな背中が目の前に立ちはだかっていた。


「英翔様!? どいてくださいっ!」


 何が何だかわからないが、狙われているのは英翔だ。それだけは確かだ。

 その英翔が明珠を庇って前に立つなんて、明らかに間違っている。


「あ、あああぁ……っ!」


 声にならぬ叫び声を上げて、楚林が包丁を振るう。


 大振りなので避けるのは難しくないが、こちらは素手だ。

 武術の心得などまったくない明珠は、何をどうしたらいいのか、わからない。


 楚林のうつろな目は焦点が合っておらず、明らかに正気ではない。


「明珠。ここはわたしが引きとめる。離邸へ走って張宇達を呼べ」


「英翔様をお一人で残せるわけないじゃないですか! えっとえっと……、英翔様、息を止めてください! 《安らかなる夢路へといざなう者よ、く来よ! 眠蟲!》」


 英翔に叫び返し、今、自分にできることを考える。


 び出した眠蟲が、真っ直ぐ楚林の顔へ飛び、鱗粉を浴びせかける。が。


「な、なんで……っ!?」


 明らかに鱗粉を吸っているのに、楚林の動きは止まらない。鱗粉がこちらまで飛んできそうで、あわてて眠蟲を還す。


「眠蟲は効かん。おそらく、この少年は《傀儡蟲くぐつちゅう》に支配されている」


 滅茶苦茶に包丁を振り回す楚林を睨みつけたまま、英翔が告げる。


 明珠を背後に庇った英翔は、楚林が走りかかってこないよう、だが刃の範囲には入らぬよう、絶妙な位置取りをしている。明珠にはできない芸当だ。


「く、傀儡蟲ですか!?」


 見るのは初めてだが、母に習った記憶はある。


 体内に傀儡蟲を入れられた人物は、術師のいいように操られてしまうという、恐ろしい禁呪――。


「《縛蟲!》」


 眠らせられないのなら、動きを止めればいいのだと思いつき、縛蟲を喚び出す。縛蟲がするすると楚林の体に巻きついて、締めあげようとし――、


「だ、だめっ! 還って!」


 自分の身体が傷つくことも頓着とんちゃくせず、縛蟲に包丁を突き立てようとした楚林に、あわてて縛蟲の戒めを解く。


 襲ってくる相手とはいえ、操られているだけの楚林を傷つけるなど、明珠にはできない。


「ど、どうしたら……?」


 楚林を正気に戻すには、体内に入り込んでいる《傀儡蟲》を外へ出すか、体内で倒さなければならない。


 しかし、この状況でいったいどうすればいいのか。


「明珠。あの少年を助けたいか?」


 楚林の大振りの包丁を避けながら、英翔が静かな声で問う。


「もちろんです!」

 間髪入れずに返すと、苦笑を洩らす気配がした。


「お前ならそう言うと思っていた。水晶玉を握れ」

「は、はいっ」


 英翔に捕まれていない左手で、守り袋を握る。


 不意に、英翔がこちらを振り返って背伸びをした。

 唇に柔らかいものがふれ、少年の輪郭が揺らめく。


「あ、ああ――っ!」

 楚林が叫んで包丁を振り上げる。英翔の背に、刃が迫り――、


「英翔様!」


 とっさに英翔の前に飛び出そうとした。が。

 英翔に足を払われ、尻もちをつく。


 明珠の目の前で、青年英翔が楚林の腕を掴む。そのまま勢いを利用して、楚林を投げ飛ばす。


 地面に仰向けに倒れた楚林の腹に、大きな手のひらを当て。


「《滅っ!》」


 英翔の身体に白銀の《気》が立ち昇る。その《気》が左手を通じて楚林の腹へ叩き込まれ。


 水揚げされた魚のように、楚林の身体が一度跳ねる。かと思うと、だらりと弛緩した。


「だ、大丈夫ですか!?」


 どちらへの問いかけだろう。自分自身わからぬまま、衣が汚れるのも構わず、膝でうようにして、二人へ近寄る。


「英翔様! お怪我は!?」

「かすり傷一つない。それより!」


 明珠を振り返った青年英翔の黒曜石の瞳には、射抜くような厳しい光が宿っている。


「何を考えているっ!? 無策で刃の前に飛び出すなど、狂気の沙汰だ!」

「すみません、身体が勝手に……。それより楚林は!?」


 倒れたまま、ぴくりとも動かない楚林をのぞきこむ。

 背中に籠を背負っているので、海老ぞりになってしまっている。あどけない顔のまぶたは閉じられ。


「ね、寝てる……?」


 唇からは、すこやかな寝息が洩れていた。


「わたしの《気》を体内に送り込んで《傀儡蟲》は滅した。《傀儡蟲》の支配が解けたところで、衣についていた《眠蟲》の鱗粉を吸い込み、寝たのだろう」


 英翔が淡々と説明してくれる。が、にわかには信じられない。


「えっ!? 《傀儡蟲》って、そんな簡単に消滅させられる蟲じゃありませんよね!?」


 落ち着いて記憶をさぐってみれば、遅まきながら、傀儡蟲について母から教えられた記憶がよみがえる。


 確か、傀儡蟲は数ある禁呪の中でも、かなり高位の術のはずだ。

 当たり前だ。他人の意思を奪い、術師の操り人形にしてしまうのだから。


 傀儡蟲を滅するためには、まず操られている者の身体の自由を封じて、数日間は蟲下しの薬を飲ませ、傀儡蟲を弱らせてから退治したはずだ。

 体内に直接、手を出せない以上、被害者の傷つけないためにはその方法しかない。


 傀儡蟲の除去には、高度な技術と繊細な対応が求められる。間違っても、《気》を直接叩き込んで殺せるものではない。


 驚きに目を見開いている明珠に気づいたのか、英翔があっさりと答える。


「昨日、離邸に来るのが決まったのなら、傀儡蟲を体内に入れられてから、まだ間もないと思ってな。力業だったが、なんとかなった。……それに、わたしの《気》は常人とは違うからな」


 その言葉に、先ほど見た白銀の《気》と、英翔の本当の身分を思い出す。

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