33 口にそっと、甘いもの その1


 離邸の一階の廊下は、台所や食堂を除けば、等間隔に書庫の扉が並び、うっかりすると、どこが目的の部屋か迷いそうになる。


 実際には、扉の一つ一つに異なる装飾が施されており、慣れれば迷うことなどないのだが。


 風呂から自室へ戻る途中、一つだけ薄く開いた書庫の扉が明かりを洩らしているのに気づいて、明珠は首をかしげた。


 風呂に入る時には、全ての扉がちゃんと閉まっていたのだが。


 英翔か季白が本を探しに来たのだろうか。


 足早に通り過ぎようとすると、足音が聞こえていたのか、ちょうど扉の前に差しかかったところで、扉が大きく開く。


 明珠は着替えを胸に抱えていた腕に、思わず力を込めて身構えた。


「ゆっくり湯につかれたか?」


 出てきたのは英翔だった。今も青年姿のままだ。


「あ、はい。ありがとうございます。わざわざ温め直しまでしていただいて……」


 廊下へ出てきたのが季白ではなく英翔だったので、ほっと息を吐き出し、礼を述べる。


 夕飯前には目を覚まし、夕食の支度をしたのだが、季白は食事中も、食べ終わっても、ずっとむっつりと黙ったままだった。


 季白が不機嫌なのは、いつも通りと言えばいつも通りなのだが、今日は、張宇や英翔と軽口をたたくことすら、なかった。


 非常時だったとはいえ、季白に剣を突きつけられた恐怖は、心に生々しく残っている。

 それだけ、明珠がとんでもない失態をやらかしたせいとも言えるが。


 自業自得とはいえ、もう少し心に余裕ができるまで、季白と二人きりになるのは避けたい。明珠が怯えていると知ったら、季白だって気に病むだろう。


 ……いや、季白のことだ。「なぜわたしが小娘の機嫌を気にする必要があるんです?」くらい言い放ちそうな気もするが。


「まだ調子が悪いのか?」


 明珠の表情が硬いのに目ざとく気づいたらしい。青年英翔が心配そうに眉を寄せる。

 明珠はあわててごまかした。


 季白に隔意かくいがあると知れば、英翔は自分にとががないにも関わらず、囮作戦のことを悔むに違いない。


「その、急に扉が開いたので、びっくりして……。まだ、青年のお姿なんですね」


 本邸から戻って以来、英翔と《気》のやりとりはしていない。というのに、もう四刻(約八時間)ほども青年姿のままだ。


 英翔も同意の頷きを返す。


「ああ、わたしも驚いている。どうやら、わたしに入った《気》の量によって、元に戻れる時間が変動するようだな。長い時間、戻れるのはありがたい」


「そ、そうですね」


 英翔がごまかされてくれたのはありがたいが、昼間のことが頭に甦ってしまって困る。

 騒ぎ出す心臓をなだめようと、明珠はあわてて別の話題を探した。


「そ、そういえば、おっしゃっていた通りですね」

「何がだ?」


 不思議そうに首をかしげた英翔の面輪には、わずかに少年の面影が残っている。


 以前、風呂上がりに会った時のやりとりを思い出して、口元がほころぶ。明珠は笑顔で背の高い英翔を見上げた。


「ちゃんと大きくなるって。おっしゃっていた通りです」

「ああ、そのことか」


 得心したように頷く英翔は、明珠よりも頭一つは高い。

 若樹を連想させるしなやかな身体つきは、枝のように痩せていた少年姿からは、想像がつかないほどだ。


「わかっていた事実を言っただけだ。お前は、相変わらずだな。そんな薄手の夜着一枚で……。まったく」


 渋面を作った英翔が、羽織っていた上着を脱ぐ。


「? 別に寒くなんてありませんけど……?」


 もう三月も半ばを過ぎた。夜でもほとんど寒くはない。

 遠慮しようとしたが、問答無用で上着を肩にかけられる。


「暑い寒いの問題ではない。若い娘が、薄手の夜着一枚でうろつくものではない」


 しかめ面で言われた内容に、ようやく英翔の言いたいことを理解する。

 かあっ、と頬が熱くなったのが自分でもわかった。


 簡素な薄手の夜着は、貧相な身体の線があらわだ。


 少年英翔を前にした時は、全然恥ずかしくなどなかったのに、今は、すぐに逃げ出したいほど、恥ずかしい。


「す、すみません。お見苦しいものを……」


 抱えていた着物ごと、胸の前で上着をかき合わせて握りしめようとし――、絹の上着に変なしわをつけては一大事だと、自制する。


「御用がなければ、失礼しますね」


 一礼して去ろうとすると、呼び止められる。

 招き入れられたのは、先ほど英翔がいた書庫の中だ。

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