32 諦めの吐息しか出てこない?


 少し時間を遡り。


 《風乗蟲》に乗り、飛び去った英翔と明珠を見送り、張宇は露台の扉を閉めた。


 露台の扉は格子に高価な硝子が張られていて、明珠が毎日よく磨いてくれているおかげで、外がよく見える。


 張宇は、先ほどからずっと黙したままの同僚を振り返る。


 英翔の叱責がよほどこたえたのか、季白は蒼白な顔でうつむき、握りしめた両の拳をぶるぶると震わせている。


 何と声をかけて慰めればいいかと、張宇が悩んでいると。


「さすがは英翔様。わたしが一生使えるべき主と見込んだ御方……。少年のお姿なれども、あの圧倒的な威圧感……! 感服です……っ!」


「あ……、うん。よかった、な……?」


 なんだろう。季白の忠誠心を喜ぶべきところだろうが、あまりといえばあまりにいつも通りな季白に、嘆息しか出てこない。


 心配した自分が愚かだった。


「……で。どうだったんだ? 明珠への疑いは晴れたのか?」


 一つ吐息して気持ちを切り替え、問う。

 季白は、切れ長の目に、冷え冷えとした敵意を込めて言い切った。


「真っ黒ですね」

「おいっ!」


 断言した季白に、先ほどの英翔の激昂を思い返して、思わず咎める声が出る。


 先ほどの英翔の怒りは、矛先ほこさきが張宇に向いているものでないと理解していてさえ、身がすくむほどの苛烈さだった。


 手負いの虎の獰猛どうもうな怒りを真正面から受けてなお、己の意見を覆そうとしない季白の、主の身を案じる献身ぶりは、恐れ入るしかない。


 張宇自身も、英翔の身を守るためなら、どんな苦難も恐れはしない。が。


「どうする気だ? 英翔様直々に、「明珠に手を出すことは、わたしに刃を向けることと知れ」と言われて、それでもまだ、明珠に手を出すつもりか?」


 明珠に剣を突きつけている季白を見た時の驚愕は、今も鮮明に思い出せる。


 張宇の知る季白は、英翔の解呪の手がかりをむざむざと殺すような男ではない。


 よほど季白が精神的に追い詰められていたのか、それとも、季白が処断しようと思うほど、明珠が疑わしい行動をとったのか。


 二人を知る張宇には、どちらも納得いかないが――見た光景は事実だ。


「何としても解呪なさりたいと願う英翔様の弱みにつけこんで、我が身を守ろうとは……。まったくもって、許しがたい所業です」


 季白が憤怒の形相で歯ぎしりする。


「……英翔様に免じて、表だって手を出すのは控えてあげましょう。今日のことも、英翔様の目を覚まさせるほどの、完全に敵とわかる証拠があるわけではありませんからね。尻尾を出さぬ忌々しい小娘め……」


 季白がぎりりと拳を握りしめる。


「見ていなさい。明々白々な証拠をつかんだ暁には、極刑に処してやります」


 恐ろしいほどにこやかに宣言した季白の笑顔に、背筋どころか、背骨まで凍る思いを感じながら、張宇は言わずにはいられなかった。


「……季白。お前のことだから、怒りで目がくらんで誤った判断を下すことなどないと信じているが……。くれぐれも、冷静に見極めろよ?」


 それと、と季白の切れ長の目を真っ直ぐに見つめ、強い声で告げる。


「間違っても、英翔様には疑念を悟られるなよ?」


 季白が暴走したせいで、英翔の怒りを受けるなんて御免だ。


 だが、張宇の眼差しを受けても、季白の笑みは崩れない。


「わたしの浅慮を、英翔様が見抜かれたとしたら、それは英翔様のご慧眼が優れていたということ。むしろ、わたしの深い疑惑を知って、英翔様が小娘の幻惑から抜け出せるのなら、それに勝る事態はありません」


 きっぱりと断言した季白に、張宇は諦めの息をつき、決意する。


 少なくとも、蚕家にいる間、季白の暴走を止める役目は、自分が負わねばならないのだと。

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