31 虫籠と乾燥ワカメは何のため? その6


「あ、あの、私でしたら大丈夫ですから! まだご当主様と、大切な話があったのでは……?」


 自分のせいで英翔の邪魔をしてしまったのではないかと、不安になって問うと、明珠を見下ろした英翔が、呆れたように吐息する。


「そんな青い顔で大丈夫だと言われても、信じられるわけがないだろう。それに、遼淵は《龍》に夢中だ。しばらくはまともな会話になるまい」


 先ほどの遼淵を見るに、英翔の言うことはもっともなように思われる。が、本当に英翔はいいのだろうか。


 明珠が口を開くより早く、優しく頭をなでられた。


「すまなかった。今日は慣れぬことばかりだったというのに……。もっと、お前の体調に気を配るべきだった」


「とんでもないです! 私が、勝手に無茶をしたんですから……」


 言い返しているうちに、あっという間に離邸に着く。


 風乗蟲が下りたのは、英翔の部屋の露台だ。離邸で露台があるほど立派な部屋は、この一室だけだ。


「下ります! 自分で歩けますから!」


 風乗蟲に乗っている間は、暴れては危ないと思い、大人しくしていたが、下りたのなら、明珠の方も下ろしてほしい。


 英翔は顔色が悪いと言うが、明珠自身は、少し頭がぼうっとするくらいで、不調を感じていないのだ。横抱きにされる理由はない。


 というか、恥ずかしいからやめてほしい。


「わたしが運んだ方が速い」


 英翔は一言のもとに却下すると、明珠の抗議を無視して大股に歩いていく。


 廊下で待機していたのだろう、英翔が扉にふれるより早く、張宇が扉を開ける。


 張宇が、英翔に抱きかかえられた明珠を見て、驚いた顔をする。対して、季白は不快げに眉をひそめた。


 が、英翔は従者達の様子に頓着とんちゃくした様子もなく、歩を進める。


 英翔の行き先を見て取った張宇が、すかさず明珠の部屋の扉を開けた。


「邪魔するぞ」


 一言、断った英翔が、勝手知ったる様子で進み、寝台に明珠を座らせる。

 明珠が止めるより早く、屈んだ英翔が明珠の足から靴を脱がせた。


「新しい靴なのだな」


「それは……。季白さんが、激しく動くかもしれないから、穴が開いてこけるような靴は困る、と……」


 地味な茶色の靴は、年頃の娘にふさわしい色ではないかもしれないが、明珠にとって大切なのは、「ただで靴がもらえた」という点だ。季白の太っ腹には感謝するほかない。


「……今日の季白は、わたしの神経をこれでもかと逆撫しているが、新しい靴を用意した点だけは、褒めてやってもいい。が、年頃の娘に履かせる色ではないだろう」


(男装のためだから、地味なのは当然です……)


 そう思ったが、言った時の英翔の反応が恐ろしくて口をつぐむ。


 あれほど怒り狂った英翔は、できればもう、二度と見たくない。


「ともあれ、少し休め。今日はもう、何もしなくていい」

「そんなわけにはいきませんっ」


 あわてて寝台から下りようとすると、両肩をつかまれた。

 優しいが、有無を言わさぬ力で寝台に寝かされる。


 悪戯っぽい笑みを浮かべた英翔が身を屈める。服にき染められた香の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。


「一人寝が寂しかったら、一緒に寝てやってもいいぞ?」

「っ!?」


 初日、英翔に言われた提案。


 その時は、単なる甘えん坊の言葉と思い、「英翔様ったら。もう一人寝で泣くようなお年じゃありませんでしょう?」と返したが。


 一瞬で頬が火照ほてる。うまく言葉が出てこない。


 魚のように口をぱくぱくさせていると、ぷっ、と英翔が吹き出した。


「冗談だ。今日はもう一日分の働きをした。ゆっくり休んで、気が咎めるなら、明日からまた精を出せばいい」


 柔らかな笑みを浮かべた英翔が、優しく髪をなでてくれる。


「何か不調を感じたら、すぐに言えよ?」


 英翔がそっと掛け布団をかけてくれた。


「ありがとうございます……」


 できれば、今すぐ頭の上まで布団を引っ張り上げて、真っ赤になっているだろう顔を隠したい。が、それは英翔に失礼な気がする、


 迷った末、顎のところまで布団を引き上げて礼を言うと、英翔はもう一度くしゃりと髪を撫でて背を向けた。


 英翔が出、ぱたりと静かに扉が閉まった途端、我知らず深い溜息が出る。


 自分では大丈夫だと思っていたが、単に緊張の連続で気が張っていただけらしい。温かく、柔らかな布団にくるまると、途端に眠気に襲われる。


 今は何も考えずに、心地よい睡魔に身をゆだねてしまいたい。


 怒涛どとうのように押し寄せてくる睡魔に、明珠はあらがうことなく、意識を手放した。

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